マリアーナ公妃とのお茶会
桟敷室を出たところで、ミルフィはレミリア公妃に呼び止められた。
「レオーネ殿下と親しくしていらっしゃるの?」
ふくよかな人間は柔和なイメージを周囲に抱かせる事が多いが、レミリア公妃の場合、それは当てはまらない。
美食を好んで肥え太り、公妃として周囲に傅かれる事に慣れきったレミリア公妃は意に沿わぬ事に対してはとことん狭量であり、そうした傲慢な気質が態度にも現れていた。
一介の伯爵令嬢に過ぎぬミルフィが第二王子から親しく声を掛けられた事は、レミリア公妃にとって到底受け入れ難い行為であったようだ。
叱責ともとれるような厳しい語調で問い質してきて、ミルフィは静かに頭を下げた。
「私の兄が王太子殿下付きの護衛をしておりますので、レオーネ殿下は兄をよく知っております。
三日前、兄が武闘大会に出場しました折も、殿下はわざわざ兄の許に足を運んで下さいました。
私もその時兄の傍におりましたので、殿下はそれを思い出して声を掛けて下さったのだと思います」
「そう」
理由については納得したものの、レミリア公妃はそれだけでは怒りが収まらなかったらしい。
怒りの矛先を今度はマリアーナ公妃へと向けた。
「殿下と関係ないご令嬢をわざわざ桟敷席に連れて来るなんて、酔狂が過ぎるのではなくて?」
咎められたマリアーナ公妃はふんわりとした笑みを浮かべた。
「今日、タウジ伯爵から中央席を譲ってもらいましたの。
そのお礼を込めて、令嬢を殿下にご紹介しようと思いついたのですわ」
「王族に席を譲るのは、貴族として当たり前の事です。そこまでする必要はなかったわ」
そっけなく言い捨てたレミリア公妃に、
「私、こちらのレディ・ミルルフィーヌが大層気に入りましたの」
マリアーナ公妃はいたずらを考え付いた童女のような顔をレミリア公妃に向けた。
「これからは時々は邸宅に誘いして、お喋りを楽しもうかと思っておりますのよ」
「年齢が違い過ぎるでしょう?」
レミリア公妃は呆れたように首を振ったが、マリアーナ妃はふふっと小さな笑いを零しただけだった。
「私は妃殿下と違って子がおりませんもの。時間を持て余しているのですわ」
「貴女も物好きな方ね」
レミリア公妃は皮肉げに唇を歪め、そのまま踵を返した。
言いたい事はすべて言い、取りあえず気が済んだようである。
取り巻きの婦人達も後を追い、これでようやく席に戻れるとミルフィは安堵の吐息を零したが、何故か公妃の姪のレイチェルだけはその場から立ち去ろうとしなかった。
肌がそそけ立つような敵意の籠る視線をミルフィへと向けてくる。
「レイチェル様、参りましょう」
レイチェルの取り巻きらしい細身の令嬢がレイチェルの腕をそっと引いた。
顎が引っ込んだ骨格の令嬢で、そのせいで目鼻立ちの美しさが損なわれている。
その令嬢は必死にレイチェルを促したが、レイチェルは頑なに動こうとしなかった。
藻のように纏いつく憎々しげな視線を向けられ、ミルフィはぞっと体を強張らせた。
言いたい事があるなら、直接言葉にしてくれた方がまだましだった。
呪うようにじっと見つめられて、ミルフィはただその場に立ち尽くすしかない。
言い知れぬ不気味さに声も出せずにいると、「レディ・レイチェル」とカムル伯爵夫人が声を掛けてきた。
その声音にはレイチェルへの僅かな親しみが感じられる。
そう言えば、公妃の従姉妹に当たるカムル伯爵夫人はレイチェルにとっての従叔母に当たるのだと、ミルフィはすばやく家系図を頭の中に思い描いた。
「何をしているの。早くいらっしゃい」
レイチェルがミルフィから視線を外し、従叔母の方を見た。
不満そうにきゅっと唇を引き結んだものの、夫人の言葉には逆らえないと思ったのだろう。
渋々と体の向きを変え、ゆっくりと場を去っていった。
その後姿を見送り、ミルフィはほっと肩の力を抜いた。
あそこまでの悪意をぶつけられたのは初めてで、まだ心臓がバクバクしている。
握り締めていた手にも汗が薄く滲んでいた。
「厄介な令嬢ね」
ミルフィの斜め前にいたマリアーナ公妃がうんざりとした口調で言った。
「レミリア公妃を味方につけ、外堀を埋める事で王子妃の地位を手に入れようとしているのだろうけれど、あの執着は異常だわ」
マリアーナ公妃も当然、ねばつくようなレイチェルの視線に気付いていたらしい。
「レオーネ殿下もお気の毒に。避けても避けても押しかけられて、きっと嫌気が差しているのでしょうね」
「妃殿下。このような場所でそんな事を言われるのは……」
ジュストウエル夫人がやんわりとマリアーナ公妃を窘めた。
誰が通りかかるかもわからない劇場の通路で軽々しく口にするような内容ではない。
マリアーナ公妃もすぐにそう気付いたのか、「そうね」と自分の非を認めた。
「あの令嬢の事はどうでもいいわ。これ以上変な真似をすれば、殿下が対処されるでしょうし。
それよりも私もそろそろ態度をはっきりさせるべきかしら。
波風を立てる気はなかったけれど、このまま保守派の先鋒にされては堪らないわ」
ふっくらとした唇を引き結び、マリアーナ妃は薄暗い通路の先を見つめる。
マリアーナ公妃はご夫君との離縁を望んでいるが、そこに行きつくまでの道はなかなかに険しいものだった。
うまい具合にレジナルド公の方からレドルス法の復活を提唱してくれたが、元々王宮には保守派が多い上に、王位継承権第三位のシャルトーレ公が法改正に強硬に反対している。
しかも社交場で大きな影響力を持つレミリア公妃は、男性がどれだけ浮気をしても女性は貞節を守るべきだという考えの持ち主だ。
マリアーナ公妃が離婚に向けて動き始めれば、どんな邪魔をしてくるかわからなかった。
「口先だけの正義なんて迷惑以外の何物でもないわ。
レディ・ミルルフィーヌ、貴女もそう思わない?」
問い掛ける形をとっているが、マリアーナ妃は別段、ミルフィに同意を求めている訳ではないだろう。
ミルフィにしてもこれは政治的に微妙な問題であり、迂闊に返事をしてよい類のものではなかった。
だからただ曖昧に微笑み、軽く面を伏せる事しかできなかった。
翌日は重苦しい雲が空に立ち込め、絶好のお茶会日和とは到底言い難いお天気だった。
雨を理由にお断りできないものかと朝から空を虚しく眺めていたミルフィだが、どんよりとした天候のわりに雨はさほどでなく、音もない雨が草木を湿らせていく程度の降り方だ。
これでは悪天候を理由に茶会を欠席するなど到底無理で、ミルフィは予定通りマリアーナ公妃が暮らしておられる邸宅を訪問した。
鬱蒼とした木立に囲まれた三階建ての邸宅は、正面に円柱が四本ある堂々たる石造りの建物だ。
王位継承権を持つレジナルド公の妻が所有するにふさわしい邸宅で、ところどころに天窓が配された薄い紺色をした屋根が、ピンクがかった白い大理石の壁によく映えていた。
「素敵な邸宅ですね」
応接の間に通されたミルフィは思わず口元を綻ばせた。
陽光をたくさん取り込めるように、南側には広々とした窓がある。上部にはゆるやかな曲線を描く三連のスワッグが取り付けられ、光沢のある布が両脇に垂れていた。
壁や絨毯は金と水色を基調としていて、中央に置かれた丸テーブルはガラス製だ。
四方に配されたソファーや肘掛椅子にも水色の布地にピンクや赤で花の刺繍がされていて、座面の下から覗く金色の猫脚も愛らしかった。
促されるまま、ミルフィは猫脚の肘掛け椅子に腰を掛けた。
マリアーナ公妃は正面のソファー席に座しており、お茶の準備が終わるのを待ってからゆっくりと口を開いた。
「こちらは元々シャルトーレ公が所有していらしたのよ」
「まあ、そうなのですか」
「ええ。王都でいい物件がないか探していたら、この邸宅が売りに出されると知ってすぐに手を上げたの。
王宮にも近いし、広々として申し分ないと思ったから。
当時はかなり痛んでいて補修にお金はかかったけれど、いい買い物をしたと思っているわ」
マリアーナ公妃にどうぞと手で指し示され、ミルフィは青い花模様が描かれた上品なティーカップの持ち手をつまむように持ち上げた。
春摘みの紅茶なのだろう。
カップに揺れる紅茶は澄んだ黄金色をしていて、新緑を思わせる爽やかな香りが鼻をくすぐった。
「これほど立地の良いセカンドハウスを、シャルトーレ公はよく手放されたものですね」
ミルフィがそう返すと、マリアーナ妃はいたずらっぽく声を潜めた。
「実は、好きで手放された訳じゃないの。
ほら、シャルトーレ公はあの通り賭博好きでしょう?
この邸宅を手放されたのも、借金が膨れ上がって首が回らなくなってしまったせいだと父から聞いているわ。
背に腹は代えられなかったのでしょうね」
そこまでお金に困窮されていたんだと、ミルフィは目を見開いた。
シャルトーレ公の賭け事好きは有名だが、まさか王都に所有する邸宅を手放さなければならないほど借金を作ったとは夢にも思っていなかった。
道理で、弟妃であるマリアーナ公妃に対してレミリア公妃の当たりがきつい筈だ。
気位が高く、見栄張りなレミリア公妃にとって、自分達が渋々手放さざるを得なかった豪華な邸宅をマリアーナ公妃が購入した事は、屈辱以外の何物でもなかっただろう。
「私がこちらに移り住むようになって以来、レミリア公妃から上から目線で何かと絡まれる事が多くなったの。
本当に煩わしい事ね。
私が手を上げなければ、結局は商人に安く買い叩かれて、今頃は困っておられた筈なのに。
助けて差し上げたつもりが、まさか恨まれるなんて思ってもいなかったわ」
そうぼやくマリアーナ公妃に、「レミリア公妃は自尊心が高くていらっしゃいますから」とミルフィは言葉少なにそう答えた。
マリアーナ公妃のお気持ちは十分に理解できたが、これがミルフィの口にできる限界だ。
「シャルトーレ公ご夫妻って、本当に性格が正反対よね」
紅茶を一口飲んだマリアーナ公妃がほうっと一つ溜め息を吐いた。
「シャルトーレ公は超が付くほどのお人好しで、性格も温和。
王族である事を笠に着て権高に振る舞う事もないし、奥方である公妃に何を言われても、うんうんと聞き流して腹を立てているところなど見た事がないわ。
本当にいい方ではあるのよね。ただ、ちょっと間が悪いというか、何か一本螺子が抜けているというか……。
ああ、駄目ね。これ以上は何を言っても不敬になりそうだわ」
言いたい事はわかりますと、ミルフィは心の中で呟いた。
シャルトーレ公を表現する時、どの貴族も一様に「悪いお方ではないんだが……」と奥歯に物が詰まったような言い方をする。
悪気はないけれど不器用で、そのせいで結構な確率で周囲が迷惑を被るのだ。
被害者は多岐に渡り、デビュタントのご令嬢が貧乏くじを引いた事もあった。
デビュタントボールでダンスの相手を務めるのは成人した男性王族と決まっているためシャルトーレ公も毎年参加されているのだが、ある年、がちがちに緊張していた令嬢の気持ちを解そうと、シャルトーレ公は親切心で色々と冗談を言ったらしい。
ところがそれが全部滑ってしまい、ものすごく気まずい空気が二人の間に流れてしまった。
何とか挽回しようと焦ったシャルトーレ公は、そちらに気を取られるあまり、ダンスのステップが頭から吹っ飛んだようだ。
体勢を大きく崩したシャルトーレ公は前に一歩、大きく足を踏み出したのだが、そこに令嬢の足があったから堪らない。
爪先に中年男性の全体重を乗っけられた令嬢は辛うじて悲鳴を呑み込んだが、足へのダメージは大きかった。
痛みを堪えて必死に踊り切ったが、足を半分引き摺る形となり、悲惨なダンスを披露する事となってしまった。
ある時は、鼻の穴から白い毛が一本のぞいていたある老伯爵に向かって、シャルトーレ公が真正直からそれを指摘した。
角度によって見えたり見えなかったりしたから、周囲の者は皆素知らぬ振りをしていたのだが、シャルトーレ公は教えてやるのが親切だと思ったらしい。
にこにこと近付いてそれを指摘したのだが、その声が思いの外大きくて、辺りは一瞬、しんと静まり返ってしまった。
老伯爵は恥に打ち震え、その翌日には爵位を嫡男に譲って領地に引き籠ってしまった。
「何と申し上げるべきか、表現に困るお方でいらっしゃいますよね。
いえ。確かに悪気のないお方ではあるのですが……」
悪意は一切感じられないが、ミルフィに言わせれば十分に人迷惑な御仁だった。




