桟敷席にて
特別桟敷席にご挨拶に伺うと、当たり前だがレミリア公妃もそこに来られていた。
すぐ隣のボックスで鑑賞しておられたから、休憩時間になるや、筆頭女官であるカムル伯爵夫人や姪のレイチェル嬢を引き連れて特別桟敷席に乗り込んできたようだ。
レオーネは騎士学校時代の友人らと観劇に来ていて、近衛騎士も合わせれば十名弱となる。
特別桟敷席は十四、五名を収容できる広さだが、レミリア公妃が四名を引き連れてきたのに加え、ジュストウエル夫人とミルフィを従えたマリアーナ公妃までが挨拶に顔を出したため、室内は少々窮屈に感じられた。
「レオーネ王子殿下。レミリア公妃殿下。
ご挨拶が遅くなりました事をお許し下さいませ」
マリアーナ公妃が優雅に膝を折り、後ろに控えていたジュストウエル夫人とミルフィもそれに倣って頭を下げる。
レオーネは鷹揚に頷き、当たり障りのない返事を返したが、その時に何げなくマリアーナ公妃の後ろに目をやり、そこにミルフィの姿を認めて大きく瞠目した。
その眼差しに隠しようのない喜色が浮かび、それを見たミルフィもまたどぎまぎと視線を床に落とした。
武闘大会で言葉をいただいてから、まだ三日しか経っていない。
こんなに早くお会いできるようになるなんて、夢にも思っていなかった。
一方、マリアーナ公妃の姿を認めたレミリア公妃は、「まあまあまあ」と大げさなほどマリアーナ公妃の訪問を歓迎した。
「こんなところで貴女と会えるだなんて。
貴女はずっと別邸で暮らしておられたでしょう。なかなか会えなくて寂しく思っていたのよ」
レミリア公妃にとってマリアーナ公妃は義弟の妻に当たる。
ただ、さほど親しい関係ではないと耳にしていたので、レミリア公妃のあまりのはしゃぎようにミルフィは戸惑いを隠せなかった。
マリアーナ公妃もその事を訝しく思ったようだが、勿論それを表に出す事はしない。
控えめに微笑み、おっとりと言葉を返した。
「ご無沙汰致しております。
花の香に誘われて、ついふらふらとこちらに参りましたの」
今夜の公演の題名は『嵐に散る夜香花』だ。
それになぞらえて言葉を返したのだろう。
その後、ジュストウエル夫人とミルフィも王族方に挨拶をさせてもらったが、レオーネはともかくレミリア公妃にとっては、格下の貴族の挨拶などどうでも良かったのだろう。
おざなりの言葉を一言二言与えると、すぐにマリアーナ公妃の方に向き直り、弾丸のように喋り始めた。
どうやら、先だっての御前会議でレドルス法の復活を持ち出したレジナルド公に対し、よほど鬱憤がたまっていたようである。
「ねえ、妃殿下。今頃になってレドルス法の復活を持ち出してくるなんて、レジナルド公のなさりようはあんまりだわ。身勝手にも程があるというものです。
子ができるかできないかは神が定められる事で、私達はその定めを粛々と受け入れるしかないの。そうでしょう?
ましてや、それを理由に妻に離婚を突き付けようだなんてあり得ない事よ。
夫も今回の事には激怒していたわ。落ち度のない貴女から公妃の称号を取り上げるなんて、私達が絶対に許しませんよ。だから貴女も大船に乗ったつもりでいらっしゃいね」
でっぷりとした体を揺らし、レミリア公妃は鼻息荒くまくしたる。
昔はほっそりされていたと噂に聞いた事があるが、公妃となって嫡男をもうけた辺りから年ごとに腹回りが太くなり、今着ておられるドレスのウエストもぱつんぱつんだ。
美食を好み、特に甘いものには目がないと聞いているから、余計腹にお肉がついたのだろう。
「いい事。レジナルド公の申し立てを認めては駄目よ。
子ができないという理由だけで妻が離縁されるようになったら世もおしまいですからね」
「レミリア殿下、どうかこの場ではそのくらいに……」
マリアーナ公妃が控えめに言葉を挟んだが、レミリア公妃は聞く耳を持たない。
「いいえ。今日ここで貴女と会えたのは幸運でしたわ。
神の御前で誓った婚姻の誓いをなかった事にするなど、神に背く大罪ですもの。
ああ、浮気は仕方ありませんわ。男の甲斐性ですからね。そう思って気を強く持っておられるといいわ。
外に子を作られたとしてもどうせ跡継ぎにはなれないのですから、相手にしなければよろしいのよ。貴女は堂々となさっていて」
聞いていたミルフィは内容のひどさに思わず視線を伏せた。
浮気は仕方がないとか、男の甲斐性だから堂々としていればいいなんて、ミルフィには全く持って賛同できない。
レミリア公妃には公妃なりの正義があるのかもしれないが、レジナルド公夫妻の関係が冷え切っているのは周知の事実だ。
手あたり次第女性に手を付け、庶子ももうけている夫に一生貞淑を尽くせとレミリア公妃が望んでいるのだとしたら、当人にとっては余りに酷な申し入れだと思わずにはいられなかった。
もしここでマリアーナ公妃がレミリア公妃の意に反して離縁を望むと口にでもしたら、貞女は二夫に見えずと言い出し、頭から湯気を立てて怒りそうだ。
マリアーナ公妃もそう感じたのだろう。
一切自分の意見は言わず、ただ曖昧に微笑んでいた。
その後もレミリア公妃はレドルス法がいかに悪法であるかを延々と言い立てたが、時と場所を弁えぬ振舞いに、さすがのレオーネも嫌気が差したようだ。
「レミリア公妃。貴女のお考えはわかったが、ここはそのような事を議論する場ではない」
冷静に諫めたが、そのくらいではレミリア公妃は止まらなかった。
「出過ぎた事を申し上げているのかもしれません。けれど私は王室の今後を憂い……」
「もう十分だ」
尚も言い募ろうとするレミリア公妃を、レオーネは強い口調で遮った。
「レドルス法の復活如何については御前会議で話し合われるべき類のものだ。
王陛下が熟考された上で、いずれ判断を下されるだろう」
御前会議の一員でもないレミリア公妃に発言権はないし、そもそも劇場の桟敷席で議論するような事でもないのだ。
レオーネの不快と怒気を感じ取ったのだろう。
レミリア公妃は矛を収め、慌ててレオーネの前に膝を折った。
「国の未来を憂える余り、言葉がつい過ぎたようです。
この心情をお察しいただければ幸いに存じます」
「この一件を蒸し返さぬのであれば、私に否やはない」
これ以上の差し出口は不要だと言外に言い捨て、レオーネは改めて皆に向き直った。
「そろそろ第二幕が始まるだろう。皆も席に戻られた方がいいのではないか」
一方的に話を終了させられたレミリア公妃は不満そうに唇を引き結んだが、傍らに控えていた腹心のカムル夫人が宥めるように公妃の腕に手を添えた。
このカムル夫人はレミリア公妃の母方の従姉妹に当たり、公妃とは幼少時より深い交流があったと聞いている。
公妃ほどではないがそこそこふくよかな体形をしていて、丸い顔のせいで細く見える目を更に三日月のように細め、レミリア公妃に向かって小さく首を振った。
これ以上長居をしても第二王子の不興を買うだけだ。
レミリア公妃もようやくそれに気付いたのか、取り繕うような笑みを唇に乗せて、レオーネの前に頭を垂れた。
「畏まりました。ではお言葉に甘えまして御前を失礼致します」
それから当たり前のように斜め後ろに視線を向け、「レイチェル」と姪の名を呼んだ。
「貴女ももう一度殿下にご挨拶を」
声を掛けられた令嬢がしずしずと前に進み出る。
マリアーナ公妃の後ろに控えていたミルフィは、この方がドルジ伯爵令嬢でいらっしゃるのねと、彼女の姿を目で追った。
背はミルフィよりも拳二つ分高い。
しっかりとした体格の持ち主で、きつめのコルセットで腰を締め上げ、襟ぐりから押し上げられた胸の谷間が僅かに見えた。
顔立ちは頬骨が高く尖り、鼻筋が通っている。細い顎に比べて口がやや大きいのが難点と言えば難点だが、十分に美しい令嬢だ。
意志の強そうな眼差しをしていて、全体的に落ち着いた印象を与えていた。
レオーネの前に腰を折ったレイチェルは、王宮の回廊で言葉をもらった事や昼餐会やお茶会で同席できた事への感謝を流れるように口にし、共に過ごした時間がいかに濃密で得難いものであったかを滔々と語った。
それだけを聞いていると、まるでレイチェル嬢こそがレオーネの特別であるかのようだ。
傍でそれを聞いていたミルフィは、しょんぼりと項垂れた。
レオーネと会えた喜びは瞬く間に萎んでいき、ここを訪れた自分こそが場違いであったのだと、脇に垂らした手を思わずぎゅっと握りしめる。
仮面舞踏会で身分を隠しておしゃべりを楽しみ、武闘大会でちょっと言葉を掛けてもらったからどうだというのだ。
レオーネとレイチェル嬢は王宮内で度々顔を合わせ、昼餐会などでも交流を深めている。
自分の出る幕などそもそもなかったのだと、この場から消え入りたい気分になってしまった。
「私達もそろそろお暇致しましょう」
マリアーナ公妃に促され、ミルフィはジュストウエル夫人と共にレオーネの前に静かに進み出る。
レオーネの前で深々とお辞儀をした時、
「レディ・ミルルフィーヌ」
不意にレオーネがミルフィを呼んだ。
ミルフィが驚いて顔を上げると、レオーネが優しい目でミルフィの方を見下ろしていた。
「今日はよく訪ねてくれた。兄君にもよろしく伝えてくれ」
二日前、武闘大会の観覧席を訪れ、わざわざ声を掛けてくれた時のレオーネの笑顔をミルフィは今更のように思い出した。
デビュタントボールの話を持ち出し、どこか他の場所でも会ったかなといたずらっぽく問いかけてきたレオーネは、仮面舞踏会で親しく言葉を交わした令嬢がミルフィであるとあの時すでに確信していた。
レイチェル嬢と自分を比べる必要など最初からなかったのだと唐突にミルフィは悟った。
レオーネがどこで誰と交流していようと、自分達二人が過ごした優しい時間が消える訳ではない。
ようやくその事に気付いたミルフィは、花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
「殿下のお言葉を兄に伝えます。今日はお会いできて光栄でした」
先ほどまで心を重く占めていた不安やいじけた気持ちがするすると消え去っていく。
たった二言、言葉を掛けてもらっただけでこんなに気分が明るくなるなんてどうかしていると思いながらも、ミルフィは勝手にはしゃぎ始めた心を抑える事はできなかった。
やだ。今になって手が震えている……。
細かく震え始めた両手をおへその辺りで揃え、ミルフィは深々と一礼した。
どうしようもなく幸せだと思った。




