正体を見破られる
思いがけない名前にミルフィは驚いて顔を上げた。
先日はここマゼラン劇場の中にあるボールホールで会話をし、つい三日前には武闘大会で言葉もかけていただいた。
そして今日は同じ舞台を鑑賞するのだと思うと、何だかそれだけで心臓がどきどきしてくる。
一方のマリアーナ公妃は、第二王子と顔を合わせる事を少し煩わしく感じているようだった。
「ご臨席されると知っていて、挨拶にも伺わないという訳にはいかないわね。
休憩時間に足を運ぶべきかしら」
気怠そうにそう呟くマリアーナ公妃に、
「それがよろしいかと存じます」
ジュストウエル夫人が淡々とそう答えた。
「先ほど係の者に聞きましたら、シャルトーレ公妃も観劇に来られたそうですわ。
ですので、そちらにもご挨拶に伺われた方がいいでしょう」
「まあ。レミリア公妃までいらしているの?」
「はい。レオーネ殿下と同席したいと、劇場の者に散々ごねたようですけれど、王子殿下は側近の方々を連れて来られるとの事。
友人方と静かな夕べを楽しみたいとおっしゃっておられたそうで、ご要望にお応えする事はできないと断られておりました」
「相変わらず押しつけがましい方ね」とマリアーナ公妃は小声でジュストウエル夫人に囁いた。
「どちらの一等桟敷席に入られたかわかるかしら」
「特別桟敷席の右隣を予約していた貴族に、無理やり桟敷席を空けさせたと聞いております」
「大人数で来られているの?」
「取り巻きのご婦人が三人と、後、姪のドルジ伯爵令嬢を連れておいでのようです」
「ドルジ伯爵令嬢……」
マリアーナ公妃はあらあらと呟き、軽く肩を竦めた。
「では狙いはレオーネ殿下ね。
殿下が歌劇場に来られるという情報を得て、慌ててレイチェル嬢を連れてこちらにやって来られたのでしょう。
あわよくば、殿下と同じ桟敷席で観劇して、二人の仲を深めるつもりだったのでしょうが、当てが外れたようね」
レイチェルと言う名前を聞いて、ミルフィの胸につきりとした痛みが走った。
レミリア公妃は、姪のレイチェルを第二王子妃にしたいと考えていて、それを周囲に隠そうともしていない。
噂になる事で、外堀を埋めようとしているのだろうとレオーネ自身も言っていた。
王宮を歩いているとレイチェル嬢を連れたレミリア公妃と顔を合わせ、公妃に招かれた昼餐会やお茶会に顔を出せばそこには当たり前のようにレイチェル嬢がいる。
苦い口調でそう話していたレオーネが思い出され、ミルフィは何だか泣きたくなった。
殿下が誰かと婚約をするなんて嫌だとミルフィは唇を引き結んだ。
あの声も笑顔も手の温もりも別の女性のものとなってしまい、ミルフィはきっと傍に近付く事もできなくなってしまう。
いや、万が一、猫のミリィとして王宮に呼ばれたとしても、今度はレイチェル嬢と仲睦まじくお茶をしている姿を見せつけられるようになる。
もし、「君も猫に触ってみる?」とレイチェル嬢に差し出されでもしたら、悲しくて苦しくて心が砕けてしまいそうだ。
我知らず涙が滲んできて、ミルフィは慌てて目を瞬いた。
こんなところでいきなり泣き出したら、人に何と思われるかわからない。
他に楽しい事を考えなくてはと、ミルフィは必死に意識を逸らそうとした。
「あら。少し目元が赤いみたい。どうかなさったの?」
ミルフィの様子がおかしいと気付いたらしいマリアーナ公妃が、そっと顔を覗き込んでくる。
ミルフィは「何でもありません」と首を振り、必死に作り笑いを浮かべた。
「あら」
顔を近付けてきたマリアーナ公妃が、驚いたように声を落とす。
そして何を思ったのか、更に顔を寄せてミルフィの耳元の辺りを嗅ぎ始めた。
「妃殿下。人目がございますよ」
ジュストウエル夫人が慌てて止めようとしたが、マリアーナ公妃は意に介さない。くんくんすんすんと、ひたすら匂いを嗅ぎ続けた。
一方のミルフィはお色気たっぷりのマリアーナ公妃に迫られて、その場に完全に固まってしまった。
な、何だか仄かな花のような香りがするわ。
それに、ピンクがかった白い耳たぶが妙にセクシーなんですけど……。
涙は完全に吹っ飛んでしまい、体を真っすぐにしたまま、ぎこちなく視線だけをマリアーナ公妃に向けると、マリアーナ公妃はにっこりと笑って爆弾発言を放ってきた。
「貴方、猫のミリィね」
ミルフィは完全に凍り付いた。
あまりにも唐突な展開で、自分の置かれた状況が全く理解できない。
「な……何の事をおっしゃっておられるのか……」
ようやく言葉を絞り出すと、マリアーナ公妃は何もかもを見透かしたような目でミルフィを見つめてきた。
「獣人って、トラに変態した時は嗅覚が鋭くなるでしょう? でも、人型の時は嗅覚は普通に戻ってしまう。
それが獣人の常識だけれど、私は違うの。変態した時と同じくらい、人型でも匂いに敏感なのよ」
ミルフィは呆然とマリアーナ公妃を見つめた。
「王太子殿下の居殿に伺った時、貴女も確かその場にいたわよね」
ミルフィにだけ聞こえるような声で、マリアーナ公妃は楽しそうに囁いた。
「私が貴女のお腹の毛に顔を埋めて、ひとしきり匂いを嗅いだのを忘れちゃった?」
あー……! 確かものすごく変態的に匂いを嗅がれたわと、ミルフィは今になって思い出した。
くんくんくんくんすんすんすんすん、ものすごくしつこく腹の匂いを嗅がれ、かなり気恥ずかしかったのを今でも覚えている。
けれどミルフィとしても、簡単にそれを認める訳にはいかなかった。
匂いが似ているというだけで、もしかしたら鎌をかけられているだけという可能性もある。
ここは強気に否定しておこうとミルフィは覚悟を決めた。
今はとりあえずごまかして、後でゆっくり両親に相談すればいい。
「猫のミリィとは一体何の事でしょう」
そうしらばっくれたミルフィに、マリアーナ公妃はふふっと楽しそうに笑った。
「ごまかしてもダメよ。
変態した時と同じくらい鼻が利くとさっき言ったでしょう? トラの嗅覚がどれほど優れているか、貴女も同じネコ科ならばわかる筈よ」
確かにトラはネコ科だわ……とどうでもいい事をミルフィは考えた。
「それにしても、まさかこのモルド国でトラではなく猫に変態する令嬢がいただなんてね……」
頬に両手を当て、ふんわりと小首を傾げるマリアーナ公妃から壮絶な色香が駄々洩れる。
同性のミルフィでもちょっとくらくらしたが、今問題なのは、マリアーナ公妃のお色気ではない。
マリアーナ公妃が、この事をすでに確信しているという事だ。
「ねえ、レディ・ミルルフィーヌ。
こういうのが公になると、困るのはタウジ家なのではなくて?」
畳みかけるように言葉を落とされ、恐喝する気なのぉ? とミルフィは心の中で悲鳴を上げた。
何だか蛇に睨まれた蛙の気分だ。
それともトラに睨まれた猫と言い直すべきだろうか。
「な、何がお望みなのでしょうか」
思わず下手に出てしまうミルフィに、マリアーナ公妃はにっこりと微笑んだ。
ミルフィが白旗を上げる事など、最初から分かっていたかのようだ。
「私のお茶会にいらっしゃい。
そうね。明日の午後は如何? 私、ちょうど予定が空いているの」
幸か不幸か、明日の午後、ミルフィには何の予定も入っていなかった。
それでも最後の足搔きとばかりに必死に断る理由をひねり出そうとしたが、真っ白になった頭ではまるっきり何にも思いつかなかった。
「……謹んで伺わせていただけます」
ものすごい敗北感を覚えながらミルフィはそう言葉を絞り出した。
どのみち、いつまでもマリアーナ公妃を避け続けるなど不可能なのだ。
ここはもう、覚悟を決めるしかない。
「まあ、嬉しい!」
マリアーナ公妃ははしゃいだ声を上げ、それから少し身を乗り出して、「タウジ伯爵」とミルフィの父を呼んだ。
「私、レディ・ミルルフィーヌが大層気に入りましたの。
明日、ご令嬢をお茶に誘いましたが、かまいませんわね」
いきなりそう話し掛けられたタウジ伯爵は目を白黒させた。
タウジ伯爵もメリージェン夫人も、何で急にそんな話になったんだという顔でミルフィを見つめてきたが、ここで本当の事を話す訳にもいかない。
ひきつった顔で笑っているミルフィを見て、これは何かあったらしいなと勘づいたものの、王族からの誘いを断ると言いう選択肢はそもそも残されていなかった。
「ご招待を光栄に存じます。宜しくお願い申し上げます」
これで、明日マリアーナ妃の邸宅に伺う事が確定した。
ジュストウエル夫人と楽しそうに会話を始めるマリアーナ妃を横目に眺めながら、私の未来はどこ……? と呆然と心に呟くミルフィだった。
その日の劇の内容は全く頭に入ってこなかった。
どうやら場末の歌姫と若い伯爵令息との身分違いの恋をテーマとしているようだったが、若い伯爵令息を演じているのが四十前後の看板俳優だ。
酸いも甘いも噛み締めた渋い魅力が売りであるらしいが、十五のミルフィにとっては単なるおじさんである。
全く感情移入できなかった。
一幕が終わって休憩となり、後もう半分観なくてはいけないのね……とミルフィは溜め息を噛み殺した。
マリアーナ妃に正体を知られた動揺からまだ立ち直っていないし、明日のお茶会の事も気にかかる。
叶うなら、中途退席して家に帰りたい気分だった。
と、マリアーナ妃とジュストウエル夫人が立ち上がった。
御不浄にでも行かれるのだろうかと他人事のように思っていたミルフィだが、何故かそこで名前を呼ばれた。
「レディ・ミルルフィーヌ」
「あ、はい」
まさか、連れ御不浄のお誘いだろうか。
さすがにそれは勘弁してもらいたいとミルフィが思っていると、マリアーナ妃は想定外の事を口にしてきた。
「これからレオーネ王子殿下のところにご挨拶に行くの。貴女も付いていらっしゃい」
そう言えば、先ほどマリアーナ公妃が王子のところに挨拶に行かなくてはいけないと話していたのを思い出した。
思い出しはしたが、一介の貴族令嬢でしかないミルフィが桟敷席を訪れるなど、あまりに畏れ多い事だった。
「私はご遠慮した方がよろしいのでは」
立場を弁えてそうお断りしたが、「駄目よ」とマリアーナ妃は楽しそうに笑う。
「いいから私に任せておきなさい。
猫のミリィを可愛がっていた殿下に貴女の事を見せたいの」
後半の言葉はミルフィの耳元で囁かれたもので、ミルフィにとっては半ば脅しのようなものである。
ミルフィはマリアーナ妃にドナドナされて、王族がおられる特別桟敷席に足を運ぶ事となった。




