ミルフィの明日はどっちだ?
顔を伏せて第二王子一行を見送った貴族らは、その姿が見えなくなるや、何とも言えぬ顔で互いの顔を見つめ合った。
先ほどの第二王子の言葉がまだ耳に残っている。
彼らは今、目にした事は心の奥底にしまっておこうと強く自戒すると同時に、口に出される事のなかった王子の真意について正しく認識していた。
すなわち、レオーネ王子は他の令嬢からの差し入れを受け取るつもりはない。
タウジ伯爵令嬢が配っていたものだからこそ欲しいと願ったのだ。
この場で唯一、そんな空気に気付いていないのがミルフィだった。
公の場で親しく言葉を掛けてもらった事に戸惑いと恥じらいを覚えており、そわそわと落ち着きなく髪をかき上げる。
たまたまミルフィの近くにいた従兄弟の一人が、さりげなくミルフィから一歩距離をとった。
もしかしたら第二王子の想い人であるかもしれないミルフィと懇意であると周囲から見られてはよろしくない、そう判断したようだ。
それを目の端で捉えたイザークは、溜息を零しそうになるのを何とか堪えた。
よりによってこんな人前でマーキングするか……。
想定外の第二王子の行動に、イザークは頭を抱えたくなった。
どうやらレオーネはミルフィが猫のミリィであったとすでに確信しているようだ。
それ以外に、この言動の説明がつかない。
どこからばれたかなとイザークは遠い目をした。
仮面舞踏会にたまたまレオーネ殿下が現れ、やたらミルフィに纏わりついていた時から何か変だとは感じていた。
感じてはいたが、人前でここまでの執着を見せつけてくるなんて思いもしなかった。
自分のあの発言が発端か……と、イザークは以前の会話を思い出して口元に拳を当てた。
親戚筋の男からミルフィが求愛されていると王子の前で言ったため、一族が集まっているこの場所でわざと牽制をしてきたのだろう。
どうしたものか……とイザークは心の中で呟く。
もしも正式な手順を踏んで第二王子がミルフィを求めてきたとしても、家柄的には問題はない。
タウジ家は上位貴族ではないが、レオーネの立場を考えると、むしろその方が都合が良かった。
第二王子は、王国にとってあくまで王太子の予備だ。
派閥を持たぬ事が望ましく、妃となる女性も王太子妃よりも家格の劣る事が望まれた。
しかも、兄である自分は王太子殿下の側近であり、近衛でもある。
どう転んでも王太子の敵にはなり得なかった。
一番の懸念は、レオーネが本当に女性であるミルフィを好きであるかどうかという事だった。
猫のミリィが好きだから、ついでにミルフィを望むというのではちょっと困る。
貴族の結婚は政略で決められるものだからそこまで望むのは筋違いだが、イザークは兄として、ミルフィには幸せになってもらいたい。
苦労ばかりをするとわかっていると決まっている結婚に、妹を送り出す気にはなれないのだ。
そんな兄の心を知ってか知らずか、ミルフィは恋する乙女そのままに頬を紅潮させ、「本当にあのクッキーを食べて下さるのかしら」などと、どうでもいい事をイザークに尋ねてきた。
「お食べになるんじゃないか。むしろ、食べる気満々だ」
イザークは溜め息を押し殺し、胡乱な目でミルフィを見た。
妹よ。
忘れているのかもしれないが、あの王子はお前の体を臭いといい、破廉恥にも体中を洗い回した奴だぞ。
そんな変態でお前は本当にいいのか。
こんな事をつい思ってしまうのは、かわいい妹を搔っ攫われるかもしれないという悔しさが根にあるからだろう。
今までは兄様兄様と慕ってくれたミルフィだが、今日の事でおそらく二番手に成り下がってしまった。
そこそこ妹至上主義者であったイザークはがっくりと肩を落としたが、その頃になってようやく、ミルフィの傍らに立っていたアドルフが、この世の終わりみたいな顔をして立ち尽くしている事に気が付いた。
いずれ囲い込むつもりで散々ちょっかいをかけてきた又従姉妹が、どうやらとんでもなく遠い所に行ってしまいそうだと、初めて気付いたのだろう。
好きな子を大人げなく虐めてきたからだとイザークは呆れ半分、幾ばくかの憐れみを込めて心にそう呟いた。
かわいいミルフィを散々泣かせてきたアドルフだが、イザークにとっては幼馴染の一人ではあるし、それなりの情もある。
出自も経歴も申し分ない相手で、一途にミルフィを想い続けてきた事も知っていたから、妹がもしその気になれば橋渡しはしてやってもいいと漠然と考えていた。
だがもう、どうにもならない。
相手が悪い……とイザークは心に呟いた。
もし王家が本気でミルフィの結婚話に口を挟んできたら、イザークにできる事は何もなかった。
武闘大会での出来事は、イザークからタウジ伯爵夫妻へと伝えられ、息子からそれを聞いた夫妻は頭を抱え込んだ。
ミルフィは事をあまり深刻に捉えていないようで、今度はいつ猫としてお呼びがかかるかしらなどと楽しそうに言っているが、遊び気分でお招きを受ける時期はとうに過ぎていた。
第二王子はおそらく猫のミリィの正体に気付き、その上でミルフィに接触を図ってきた。
そしておそらく、令嬢としてのミルフィも気に入っている。
再び、猫のミリィへの呼び出しがあったとして、このままずるずると王宮に行かせて良いものだろうか。
今後どう対応すべきか、夫妻で膝を突き合わせて話し合いをしていた最中、思いがけないお茶会の招待状がタウジ家に舞い込んできた。
差出人はギムナ侯爵夫人。
王妃の義姉に当たるお方だった。
しかも招待者は、メリージェン夫人ではなく、侯爵夫人とは一面識もないミルフィである。
「今度は何なんだ」
タウジ伯爵は両手でがしがしと頭を掻き、メリージェン夫人はその横で心配そうに夫の顔と招待状を見比べる事しかできなかった。
タウジ伯爵夫妻は夫妻で頭を抱え込んでいるが、一番納得できていないのが当のミルフィである。
「どうして私にギムナ侯爵夫人から招待状が届いたのでしょう」
観劇のためにマゼラン劇場へと向かう馬車の中で、ミルフィはここ二日で何度となく口にした問いを繰り返した。
先ほど陽が沈み、馬車の窓の外は徐々に明るさが薄らいでいる。
広々とした空を覆う薄雲は柔らかなオレンジ色を帯び、憂いに沈むミルフィの横顔を柔らかく照らしていた。
「お母様に招待状が届いたのならばまだわかりますけれど、私はギムナ侯爵夫人とお会いした事すらありませんのに」
ミルフィの向かい側に腰かけていたタウジ伯爵は、ううむとも、ああともつかぬ唸り声を上げた。
言いたい事はよくわかるが、そう言われたところでどう返事のしようもなかったからだ。
「理由はわからぬが、王妃殿下の生家からのご招待をお断りするなど論外だ」
吐息混じりにそう答え、妻のメリージェン夫人も同意するように深く頷いた。
「こうなったら、出席する以外の選択肢はないわ。だから貴女も覚悟をお決めなさい」
「わかりました」
仕方がないとミルフィも腹を括った。
ここでぐちぐち言ってもどうしようもない事だし、こうなった以上は前向きに考えていくしかない。
「今日観劇に来たのも、そのお茶会の予習のようなものなのですよね」
ミルフィの言葉に、メリージェン夫人は「ええ」と苦笑する。
「あの方は観劇が好きでいらっしゃるから、貴女も話ができる程度には舞台について知っておく必要があるの。
今日の主役を務める俳優や舞台監督、作曲家の名前くらいは覚えておいてね」
「侯爵夫人のご贔屓はムールという音楽家でしたよね」
「ええ、そうよ。今日の舞台の曲を手掛けたのもそのムールなの。
今日は劇だけではなくて、音楽もきちんと聴いてみて」
「わかりました」
大きく頷いたたミルフィに、メリージェン夫人はふと思い出したように口を開いた。
「今日の舞台はかなり話題になっているから、王族の方々も来られているかもしれないわ。
ただ、王族方は二階席に設けられた特別桟敷席で観覧なさるし、私達が予約したのは三階のバルコニー席なの。だから顔を合わせる事はない筈よ」
「ご挨拶に伺わなくてもよろしいのですか?」
「ロビーでお姿をお見掛けしたら挨拶はするけれど、特別桟敷席に入られたらお邪魔してはならない事になっているの。
よほど懇意にされている方ならば足を運ばれるのでしょうけれど、私達には関係ないわ」
タウジ伯爵も言葉を足した。
「今回は、三階の最前列を押さえる事ができたが、もし高位貴族の方が私達より悪い席に座られていたら、その方に席をお譲りするようになるだろう。ミルフィもそのつもりでいなさい」
「畏まりました」
歌劇場には平土間と呼ばれる一階席と、ボックス型に仕切られた二階の桟敷席、そして広々とした三階のバルコニー席がある。
桟敷先には三種類あり、中央正面の特別桟敷席は王族用に設けられた豪奢な一室で、それよりも格が劣るが十分に贅沢な一等桟敷席が十部屋、その他が二等桟敷席となっていた。
高位貴族らは大抵、一等桟敷席を予約するが、これは人目を余り気にする事なく、気の知れた家族や取り巻きらとのんびりと演劇を鑑賞する事ができるからだろう。
ただ、広々としたバルコニー席で鑑賞する事を望む高位貴族もたまにいて、その時は序列の低い方がいい席を譲るのがマナーだった。
そうしたしきたりや気遣いを面倒くさく感じる貴族は、やや手狭な二等桟敷席を予約し、劇が始まるまで重厚なカーテンを閉じて外からの視線を遮断しているようだ。
舞台の側面に位置するため、劇を楽しむには物足りないが、仕切られた空間でのんびり過ごせるという利点がある。
タウジ伯爵も二等桟敷席を予約するか三階のバルコニー席を予約するか直前まで迷ったのだが、娘に観劇におけるマナーを教えておきたいという思いがあったため、今回はバルコニー席の中央最前列を予約した。
そうして案内係の先導でそちらの席に向かったのだが、そのすぐ傍の席には思いがけない貴人が座っていた。
レジナルド公の妻であるマリアーナ公妃が、介添えの女官を連れて観劇に来られていたのである。
ご夫君とは不仲が噂され、別居もなさっているが、マリアーナ妃はれっきとした王族の一員だ。
自分達が予約した席のすぐ脇にマリアーナ妃が座しておられるのを見たタウジ家の三人は、御前に膝を折り、挨拶をした。
「どうぞお構いなく」
マリアーナ妃はふんわりとした甘い声でそう答えた。
「急に思い立って足を運びましたので、席の予約をしておりませんでしたの。
特別桟敷席と一等席はすでに満室で、声を掛ければ譲って下さる方もいるでしょうが、そこまでするのも憚られました。
ですからこちらに足を運んだのですわ」
マリアーナ妃の傍に侍るのは、筆頭女官であるジュストウエル伯爵夫人だ。
公妃の父であるドルーソン侯爵の従姉妹に当たる五十前の女性で、公妃の腹心として知られていた。
艶やかなピンクブロンドにどこか退廃的な空気を醸し出すマリアーナ妃とは対照的に、ジュストウエル伯爵夫人は髪をきっちりと結い上げ、露出の少ないクラシカルなデザインのドレスを身に纏っている。
主に対しても歯に衣を着せずに苦言を呈する事も多いようだが、マリアーナ妃はこのジュストウエル夫人を殊の外信頼しており、遠出をする時には必ず傍に置いていた。
今日も急に観劇を思いつき、気の置けるジュストウエル夫人だけを伴って、こちらに足を運んだようだった。
「よろしければこちらの席をどうぞ」
タウジ伯爵がすさかず中央の席を譲り、「ありがとう」とマリアーナ妃は鷹揚に頷いた。
最前列の中央席にマリアーナ妃が座し、その右横にジュストウエル伯爵夫人が腰を下ろした。
「ご令嬢は私の傍に」
指名されたミルフィは、「光栄に存じます」と頭を下げ、隣に座らせていただいた。
猫姿では一度マリアーナ妃にお会いしたが、まさかこんなところで再びお会いするようになるとは思ってもいなかった。
王族の方と隣り合わせで観劇するなんて緊張しそう……とミルフィは膝に置いた扇を握り締めた。
そう言えば特別桟敷席はすでに埋まっていたとマリアーナ妃がおっしゃったけれど、どちらの王族が来られているのかしらとミルフィはふと眉根を寄せた。
王陛下や王妃様がお忍びで来られていたらもう少し場がざわついている筈だから、多分お二人ではない。
となれば、王太子夫妻かレオーネ王子、あるいはシャルトーレ公夫妻かその身内という事になる。
まさか、マリアーナ妃と別居されているレジナルド公ではないわよねと背中に嫌な汗を流していると、まるでミルフィの考えを読み取ったようにマリアーナ妃がふふっと笑った。
「今日はレオーネ王子殿下が中央桟敷席を予約しておられるそうよ。
ロビーで騒がれるのが嫌なお方だから、直前になってお入りになるのではないかしら」




