次の約束
「私には兄が一人いてね」
レオーネは静かに口を開いた。
「兄は私とは真逆の性質で、一つの事を身に付けるのに時間がかかり、兄上は何でこんなに要領が悪いのかなと、小さい頃、不思議に思っていた事もあったんだ」
「そうでしたの」
「君も知っているだろうと思うけど、家を継ぐ長男とそうでない次男とでは扱いに雲泥の差がある。
明確な立場の違いがそこにはあって、すべてにおいて優れたものが兄に与えられ、あらゆる場面で優先された。
両親にとっても兄は特別な存在で、私は常に予備だった。何のために生きているのか、そもそも私が存在する意味があるのだろうかと悩むようになり、妬みから兄を悪く思っていた頃もあったんだ」
あんなに仲がいいご兄弟なのに、そんな劣等感を覚えていらした事もあったのだと、ミルフィはちょっとびっくりした。
「兄上は聡明だったから、当然、弟の僻みに気付いていただろうけれど、気付かない振りをしてくれた。
勉学に対しても粘り強い性分で、自分が納得するまで書物に向き合い、深い知識を手に入れていた。
ああ、そうだ。
武術に関して言えば、そもそも兄に勝てた事がなかった。
年齢差もあるし、鍛えても思うように筋肉がつかない私と違って、兄は大層体格に恵まれていたんだ」
存じておりますとミルフィは心の中で呟いた。
王太子殿下はむきむきのお体をされていて、こんなに似ていない外見のご兄弟もいるんだと、初めて会った時はミルフィもびっくりした。
「粘り強く努力家の兄は年齢を重ねるごとに人間的にも成長していき、気付けば兄に勝るところが一つもなくなっていた。
だから余計に僻んでいたんだと思う。
そんなある日、いつものように姉と二人で庭園で遊んでいたら、何故か毒蛇が迷い込んできたんだ」
「え」
「誰かの悪意で持ち運ばれたものだろう。後で苛烈な粛清があったと聞いているから。
話は戻るけれども、当時、近くに護衛がたまたまいなかった。
私も姉も恐怖で動けなくなり、もう駄目だと思っていたら、たまたま兄がそこに顔を覗かせたんだ。
騎士学校への入学が間近で、仕立て上がったばかりの騎士服を私達に見せたかったらしい。
場に立ち竦んでいる私達を見て蛇に気付いた兄は、声を上げて護衛達を呼びながら、迷いも見せずに蛇に立ち向かってくれた。
あの時、兄はまだ十二歳だった。
大声で誰かを呼べばそれだけで十分だったのに、兄は命懸けで私と姉を守ろうとしてくれたんだ」
「勇敢な方でしたのね」
「ああ。あの時に私は兄を羨んでいた自分を心から恥じた。
兄が身を挺して私達を庇おうとしたように、これからは私が兄の盾になると、子ども心にそう誓ったんだ」
「そうだったのですね」
ミルフィは小さく頷いた。
「だけどそのせいで、兄はこっぴどく両親に叱られていたよ。
あの場合、最も優先されるべきは兄の命で、その大切な命を軽々しく扱ったんだ。
自覚が足りないと部屋に謹慎させられて、その晩は食事も抜かれたんじゃなかったかな」
「……貴方は傷付きませんでしたか?」
両陛下は王太子の命こそが最優先だと弟妹の前で示された。
国を統べる者として当然の判断であったのだろうが、親から命の優劣をつけられた事は、レオーネにとって大きな傷となったのではないだろうか。
ミルフィがそれを心配したが、意外にもレオーネの顔は晴れ晴れとしたものだった。
「嫡男である兄を守るためにその弟が命を落とした事は数世代前にもあった。
その時、母親は公の場ではその功績を称えたそうだが、死んだ子どもの名を呼んで、夜毎に泣き叫んでいたと記録に残っている。
父には父の、母には母の立場と責務がある。目に見えるものが物事のすべてではないし、それを忘れるつもりはない」
穏やかに言葉を紡ぐレオーネの横顔を、ミルフィは黙って見上げた。
自分の命よりも兄が優先される事を、レオーネは事実として受け入れている。
けれどその事によって兄弟や両親との絆が損なわれる事はなく、その強さをミルフィはとても眩しいと感じた。
気付けば随分と時間が経っていて、その頃になってミルフィはようやく、兄のイザークがまだかなあという目で自分達の方を見ている事に気が付いた。
あまり帰りが遅くなれば、両親も心配するだろう。
そわそわと時間を気にし始めたミルフィを見て、レオーネもあっという顔で辺りを見渡した。
「随分長く話し込んでいたようだ。そろそろ君を家に帰さなければいけないね」
「ええ。思ったよりも長居をしてしまいました」
このままお別れするのは名残惜しいが、このまま夢を漂うように時間ばかりを重ねる訳にはいかない。
夢はいずれ覚めるもので、これ以上を望むのは強欲というものだ。
「そう言えば」と、何気ない口調でレオーネが話しかけてきた。
「この四日後に王都で武闘大会があるが、君も顔を出すのだろう?」
言われてミルフィは、そう言えばもうそんな時期なのだと気が付いた。
毎年、七月に行われる武闘大会は国を挙げて行われる祭典の一つで、王都に住まう貴族や平民らはこの催しを心から楽しみにしている。
ミルフィも毎年のように連れて行ってもらっていて、観覧を欠席したのは、お腹を壊して家にいるしかなかった去年だけだ。
大勢の観客を誘導するために王都の警備兵が駆り出されるほどで、貴族らが行き来する大通り以外の路地は雑多な屋台で埋め尽くされると聞いていた。
「はい。勿論参ります」
ミルフィはにっこりと頷いた。
元々、行く予定ではいたが、今年は兄のイザークが総合の剣術部門に選抜されていた。
イザークは騎士学校を卒業した年も新人騎士の枠でこの大会に出場したが、新人枠と総合枠とではその技量に天と地ほどの違いがある。
予選を勝ち抜き、総合枠での出場を手に入れたと聞いた時は、母のメリージェン夫人は喜びのあまり失神しかけた。
しばらく呆けていたものの、ややあって我に返ったメリージェン夫人はその足でだだーっと寝室に駆け込み、窮屈なドレスやコルセットを脱ぎ去ってトラに変態した。
それから気分が鎮まるまでの一刻近く、トラ姿になって狂ったように庭を駆け回り、ついでにミルフィも猫に変態して喜びを分かち合ったものだ。
あんな浮かれ切った母トラの姿を見たのは、後にも先にもあれが初めてだった。
「ああ。それではどこかで出会えるかもしれないね」
レオーネにそう言葉を掛けられ、物思いに浸っていたミルフィは、「ええ」と微笑んだ。
「縁がありましたら、言葉を交わす機会があるかもしれませんわ」
万に一つの望みのようなものだけれど……とミルフィは心の中で呟いた。
ミルフィは出場者の家族席で武闘大会を観戦し、レオーネは王族としてあの祭典に参加する。
ミルフィはいくらでもレオーネの姿を探し出せるだろうけれど、レオーネが数ある貴族令嬢の中から自分を見つけ出すのは難しいだろう。
きっとこちらが一方的にその姿を拝見するようになるだろうが、それで十分だとミルフィは思った。
「では四日後にまた」
「はい。また武闘大会の時に」
ミルフィは席を立ち、膝を曲げて会釈した。
石柱の傍で腕組をして立っていた兄のイザークが、ほっとしたようにミルフィに向かって軽く頷く。
兄に向かって歩を進めながら、ミルフィの意識はずっとレオーネの方に向いていた。
強い視線が自分を追っているのを感じる。
それがとても嬉しかった。
ミルフィがイザークと共に会場を離れるや、すぐに護衛騎士のフェルゼイがレオーネの傍にやってきた。
「殿下が一人のご令嬢とこれほど同じ時を過ごされるのは珍しいですね」
「ここでは殿下と言うな」
レオーネは笑いながらフェルゼイを窘め、
「今日はそういう気分だった。それでいいだろう?」
そしてつまらなそうに会場全体を見渡し、「そろそろ帰ろう」とフェルゼイに言った。
レオーネが話し込んでいた令嬢が場からいなくなったので、チャンスだと思ったのだろう。
華やかに装った婦人が近付いて来ようとしていて、それを目の端で捉えたレオーネはそのままさっさと踵を返した。
フェルゼイも慌ててその後を追う。
二頭立ての馬車に乗り込んだレオーネは、舞踏会の余韻を噛み締めるように瞳を閉じ、馬車の背もたれに体を預けた。
「先ほどのご令嬢の名前をお伝えしましょうか」
「必要ない。知っている」
フェルゼイは主の思わぬ返答に目を瞬かせた。
「どうしてご存じなのですか?」
「タウジ伯爵令嬢とは、彼女のデビュタントで私が相手を務めた。私が人の顔を覚えるのを得意としているのは知っているだろ?」
「それは存じておりますが、今回、ご令嬢はマスクを付けておられました。
一度会っただけのお方をよく見分けられましたね」
「彼女の兄が妹に何度も視線を走らせていたからな」と、レオーネは唇だけで笑った。
「イザークとは何度か言葉も交わしているし、それに今日、イザークが妹を連れて仮面舞踏会に来る事は知っていた。
髪型を変え、付け髭もしていたが、あの程度の変装ならば容易く見抜ける」
「……つまり殿下は、タウジ伯爵令嬢がこの舞踏会に姿を見せると知って、わざわざこちらに来られたのですか?」
フェルゼイの問いに、レオーネはそっぽを向いた。事実上の肯定である。
それからしばらくレオーネは無言でいたが、ややあって吐息混じりにぽつんと呟いた。
「可愛かったなあ……」
「はあ?」
フェルゼイは目を剝いた。
「殿下、一体どうなされたんです。正気ですか?」
「正気かとはどういう意味だ。勿論、正気に決まっている」
「女性嫌いの殿下のお言葉とは思えません」
フェルゼイの言葉に、レオーネは不服そうな顔をした。
「可愛いと思ったから、可愛いと言っただけだ。そのくらい別に普通だろう?
できればあのまま彼女を宮殿に連れて帰りたかった」
「お止め下さい!」
フェルゼイはぎょっとして腰を浮かせ、
「おい、立つな!」
というレオーネの制止も間に合わず、思い切りごいんと馬車の天井に頭をぶつけた。
「お前は血の気が多すぎる。この程度の事で騒ぐな。驚くな」
「……十分驚くべき事だと思いますけれど」
ぶつけた頭頂部を両手で押さえ、フェルゼイはちょっぴり涙目でレオーネを見た。
「ご令嬢を勝手に連れ帰るなど、タウジ伯爵家が黙ってはおりませんよ。
冗談でも口にしていい事と悪い事があります」
もうすでに誘拐をした事はあるんだがな……というレオーネの独り言は、幸いにもフェルゼイには聞こえなかった。
獣人は耳がいいが、馬車の車輪の音がうまい具合に声を消していた。
「今、何かおっしゃいましたか?」
「何でもない。ただの独り言だ」
レオーネは物憂げに窓枠に肘をつき、その上に顎を乗せた。
侍従長のセバスが傍にいれば、王族としてのお振舞いにご注意下さいと小言を言っているところだが、生憎とここにセバスはいない。
そしてフェルゼイは、口うるさいタイプの護衛ではなかった。
頬杖をついたまま、レオーネはぼんやりと彼女の面影を脳裏に追う。
淡いウォーターブルーのドレスが良く似合っていたなと、今更ながらに心に呟く。
ピンクがかったゴールドの刺繍が上品で、彼女の清楚な愛らしさをよく引き立てていた。
「次に会えるのは武闘大会か……」
兄の護衛騎士でもあるイザークが、今大会の剣術部門で出場者に名を連ねている事を、レオーネは王族として把握していた。
イザークが出てくるという事は、一族が総出で応援に駆けつけてくるという事だ。
妹である彼女も当然、最前列で大会を観戦する筈で、レオーネには出場者を労うという名目で一族席に足を運ぶ事ができる。
今回はお互いに身分を隠していたが、次に会った時は、モルド国の第二王子としてきちんと言葉を交わしたい。
私が声を掛けたら、彼女はどんな反応をするだろう。
それよりも、仮面舞踏会であったマスクの男が第二王子であったと彼女は気付いていたのだろうか。
馬車の振動に身を預けたまま、レオーネは小さな笑みを唇に刷いた。
窓越しに差し零れる仄かな月明かりが心地よく、レオーネはそのまま静かに瞳を閉じた。




