仮面舞踏会
さて、一方のミルフィである。
久しぶりに会ったレオーネは相変わらず白猫ミリィにぞっこんで、その事については心から安堵をしていた。
レオーネの傍にレイチェル嬢の影が見え隠れするのは何だか心が落ち着かないが、レオーネにはその気はないようだから、それほど真剣に心配しなくていいだろう。
という事で、王宮から帰ったミルフィは、二日後に兄に連れて行ってもらえる予定の仮面舞踏会の方に大きく気持ちが傾いていた。
この仮面舞踏会はマゼラン歌劇場のホールで不定期に開催されるもので、王都でも大層人気である。
身分を明かさずに参加できるため、日頃、堅苦しい伝統や礼儀にがんじがらめに縛られている貴族らにとって、非日常を味わう格好の娯楽となっていた。
聞くところによると、現王陛下も王太子時代に王妃様と一緒に舞踏会を訪れた事があったらしい。
その当時は悪魔と囚われの美女という演目の舞台が流行っていて、王様は頭から背中にかけて大きな瘤を持つ真っ黒い悪魔を演じ、王妃様は鎖を付けた仮面の美女を装われたそうである。
ただ、王妃様は目元だけを隠す仮面をしておられたため、すぐにその正体がばれてしまったそうだ。
そのため、その傍に寄り添う男性の正体も自ずとばれてしまったのだが、当時からガタイが立派だった王様はおどろおどろしい悪魔の仮装があまりにも似合い過ぎていて、そのクオリティの高さに皆の目が釘付けになったという逸話が残っている。
さて、その舞踏会を訪れる当日、ミルフィは朝からわくわくが止まらなかった。
この日、身に纏うのは仕立てが終わったばかりのベルラインのドレスで、色は上品なウオーターブルーである。
襟元は小顔を引き立てるハートシェイプドネックになっていて、身頃と袖部分にはピンクがかったゴールドの糸で細やかな刺繍が施されていた。
顔を隠すマスクは上半分を完全に覆うタイプではなく、目元だけを隠す簡素なものだ。
黒地にリーフ柄の透かし模様が入っていて、色味自体は地味だが、メレダイヤが要所にちりばめられているため、いつもと違う大人っぽい雰囲気を醸し出していた。
伯爵家の踊り場から下を見下ろすと、すでに支度を終えた兄のイザークがエントランスホールで家令のランツィと話をしながらミルフィを待っていた。
イザークはいつもは降ろしている前髪を丁寧に後ろに撫でつけ、口元には付け髭をつけている。
それだけで随分印象が変わって見えた。
目元にはミルフィとお揃いの透かし模様の黒マスクをつけていて、階段を降りて来るミルフィに気が付くと、大げさに両腕を広げて賛辞を口にした。
「これは愛らしい! 妖精もかくやという美しさだ。柔らかなブルーのシフォンドレスが、華奢で愛らしいミルフィの魅力を余すところなく引き立てている」
一見、ミルフィを褒めているようだが、実のところイザークは自画自賛をしている。
ミルフィが今、身に付けているドレスを見立てたのは、他らならぬイザークであったからだ。
「素敵でしょう?」
その独特な言い回しに笑いを堪えながら、ミルフィは兄の前で軽く一回転して見せた。
シフォンを幾重にも重ねたドレスが羽のように軽やかに舞い、その様子を目を細めて見ていたイザークは満足そうに頷き、「そろそろ行こうか」とミルフィに手を差し出してきた。
「歌劇場に着いたら、誰と踊って誰と話をしても構わない。
ただ、ボールホールか飲食スペース以外に移動する時は、必ず私に声を掛けなさい。
それが守れないならば、舞踏会には連れて行けない」
念押しするようにそう言われ、「わかっているわ、兄様」とミルフィは神妙に頷いた。
仮面舞踏会では、身元が特定されないのをいい事にあちらこちらの女性にふらふらと声を掛け、あわよくば一夜の恋を楽しもうとする無節操な男性がいるらしい。
基本的にそこで過ちが起こったとしてもすべては自己責任とされていて、参加を決めた女性自身が自分で身を守らなければならなかった。
「決して危ない事はしないと兄様に誓うわ。テラスにも出ないし、庭園にも足を踏み入れない。
化粧直しに行く時は必ずお兄様に声を掛けるから、その時は傍まで送ってね」
そうして連れて行ってもらったマゼラン歌劇場のボールホールは、煌びやかでありながらどこか淫靡さを感じさせる、密やかな闇と目の眩むような艶やかさを同時に内包したような場所だった。
大理石の白に黄金を組み合わせた格式高い王宮のボールホールとは全く雰囲気が違う。
内部はどこか薄暗く、光沢のある黒々とした床が燭台の光に照らされて鈍い輝きを放っていた。
三種類の異なる大理石の壁を飾るのは蔓草をモチーフにした細やかなレリーフだ。
アーチ状になった天井も見応え十分で、黄金の額縁で装丁された色鮮やかな天井画に、ミルフィは思わず感嘆の溜め息を零していた。
ミルフィがボールホール内に入った時、舞踏会はすでに宴たけなわとなっていた。
驚いたのは、非日常を表わしているのが舞踏会の参加者だけではなかった事だ。
チェンバロやビオラなど、楽を奏でる演者までがこの不思議な世界の登場人物になりきっていて、それぞれが独創的な仮面で顔を覆い、派手な衣装に身を包んでいた。
趣向を凝らした寓話的な世界は、瞬く間にミルフィを非日常の世界へと招き入れる。
女性達の嬌声と甘い脂粉の匂い。
意図的に明かりを落としたホールに流される楽の調べはどこか幻想的で、ミルフィは夢見心地で辺りを見渡した。
「レディ、お手をどうぞ」
イザークに手を差し出され、「はい」とミルフィは手を重ねる。
気分がふわふわと舞い上がって、ひどく心許なかった。
慣れた兄のリードで何とか落ち着きを取り戻したものの、すぐ傍で踊るペアの男女が必要以上に体を密着させているのを見てしまい、ミルフィはどぎまぎと瞳を伏せた。
女性の豊満な胸が形が変わるほど男性に押し付けられ、二人の腰が完全にくっついている。
「あの……あんなに体を寄せてはしたなくはないの?」
目のやり場に困りながらミルフィがそう聞くと、「ここではよくある事だ」とイザークは苦笑混じりに答えた。
「ここは身分を問わずに参加できる舞踏会で、王宮の常識は通用しない。
裕福な商家の二男や三男、夫の年金で暮らしている未亡人や、地方から王都に出てきた騎士もいる。
火遊びが目的でここを訪れる男も多いし、同じようにそうした出会いを求めてここを訪れている女性も多いんだ」
ミルフィは兄のリードに合わせてステップを踏みながら、今度は別のペアに目を向けた。
先ほどの男女よりは体を密着させていないが、女性のドレスの露出度は先ほどの女性の比ではない。
大きく開いた赤いドレスの間から覗く白く豊満な乳房が今にも零れ落ちそうだ。
男性の方は完全に鼻の下を伸ばし、ちらちらと胸の谷間に目をやっていた。
これが大人の世界なのね……とミルフィは心の中で呟いた。
ふと自分の胸元に目を落とすと、色気の欠片もないささやかなふくらみが目に入った。
両親や兄はミルフィのドレス姿を清楚で愛らしいと諸手で褒めてくれたが、つまるところ、ミルフィが余りに幼児体形であったので、それしか褒めようがなかったような気もする。
この前呼んだ恋愛小説の中で、めくるめく官能の世界がという表現が出てきたが、めくるめく官能に辿り着くには、それなりの胸が必要なのではないかとミルフィは俄に不安になった。
実はデビュタントボールに参加するひと月前、ミルフィは淑女教育の一環として、どうすれば男性から子種をもらえるかという講義を家庭教師から受けていた。
何と言うか……、ものすごい衝撃だった。
その翌日は知恵熱を出し、一日寝込んだほどだ。
今はもう、その事実をちゃんと認識している。
詳しい事は夫君から教わるようにと言われたのでそれ以上の知識はないのだが(これ以上は無理やり教えない方がいいと判断されたらしい)、きっと多分何とかなる筈だ。
な、何とかなるよね……とミルフィは自信なげに自分の胸を見下ろした。
男性をその気にさせるために女性も努力しなければなりませんと言われたが、このふくらみで何とかなるものだろうかとミルフィは眉間に皴を寄せた。
胸が小さくても技があれば大丈夫だと言われたが、そもそも技が何なのかわからない。
多分、男性を誘うような科だとか艶めかしい艶声だと思うのだが、誰にそのやり方を教わればいいのだろう。
猫姿だと結構あざとく振る舞えるミルフィだが、人型となるとそのやり方が全くわからなかった。
試しに兄の方を向いて上目遣いに目をぱちぱちとさせてみたら、「どうした。目にゴミが入ったのか」と変な心配をされてしまった。
「……何でもありません」
どうもこの方法は間違っているようだわ……とミルフィはがっくり肩を落とした。
兄とのダンスが終わり、壁際で体を休めていると、見知らぬ男性がミルフィ達に近付いてきた。
丁寧に手入れされた口ひげを持った、二十代半ばと思われる男性である。
「彼女と踊ってもよろしいでしょうか」
ミルフィの傍にいるイザークに許可を取って来たので、イザークがどうする? とミルフィに目で尋ねてきた。
「お受けするわ」
そもそもここにはダンスを楽しむために来たのだ。踊らないという選択肢はない。
その後も男性達から次々とダンスを誘われ、ミルフィは存分にダンスを楽しんだ。
踊りながら時々兄の姿を目で探すと、兄は兄でゴージャスな美人と意気投合して夜会を楽しんでいた。
ミルフィと目が合うとこっそりウインクをしてきて、ミルフィはターンをする時にこっそり手を振っておいた。
五曲か六曲躍った後、踊り疲れたミルフィは壁際で休む事にした。
目立たないように隅の方へ移動して、ダンスを楽しんでいる人達をそっと眺め渡す。
色香に溢れる女性達の装いや仕草をこっそりと楽しんでいたら、正面から一人の男性が近付いてくるのに気が付いた。
すらりと背が高い男性だった。
引き締まった体躯をしているので一瞬、騎士かと思ったが、裕福な商家の息子なのかもしれないとすぐに思い直した。
その男性が、薄茶色の髪を肩口で切り揃えていたからだ。
貴族男性は肩よりも少し長い髪をそのまま流すか、後ろ一つで括るのが一般的だし、社交界に出入りしない地方の騎士達も同様だ。
一説では、接近戦となった時に敵から急所である後ろ首を守るためだと聞いているが、騎士でもないミルフィにはそれが真実であるかどうかはわからなかった。
その青年は顔のほとんどを覆い隠すタイプのマスクをしていて、見えるのは美しいグリーンアイと形の良い口元だけだ。
涼やかな目元とラインがくっきりとした艶のある唇にどこか既視感を覚え、ミルフィは軽く首を傾げた。
どこで会った方かしら……と迷ったのは一瞬だった。
「レディ。私と踊っていただけますか?」
声を掛けられた瞬間、ミルフィはその相手が誰であるかを知って大きく息を呑んだ。




