レオーネの女難
タルトを入れていたバスケットは網目が細やかであるため、空気の通り道はあるけれども外が全く見えない。
イザークはミルフィが酔わないよう、極力バスケットを揺らさないよう慎重に運んでくれ、ミルフィは狭いバスケットの中にお座りしたまま、出してもらえる瞬間をひたすら待った。
やがて兄が誰かに挨拶をする声が聞こえ、ようやく着いたのかなと上を向いた瞬間、勢いよくバスケットの蓋が開けられた。
暗がりに目が慣れていたミルフィは外の明るさについていけず、思わず、「みゅ!」と鳴いて目を瞑る。
そしておそるおそる目を開けると、目の前にはレオーネのドアップがあって、ミルフィは腰が抜けそうになった。
「うにょぉ」
立ち上がりかけていたミルフィが驚きのあまり、べたんと尻もちをつくと、それを見ていたレオーネが堪えきれなくなったように噴き出した。
「ははは。相変わらず間抜けだな」
何ですと!
会うなりいきなりディスられたミルフィは、尻もちをついたままきっとレオーネを睨みつけた。
六日ぶりの再会だというのに、感動が台無しである。
お陰で恋しさまでがぶっ飛んでしまった。
悔しかったのでつんとそっぽを向くと、ミルフィの機嫌を損ねさせたようだと気付いたレオーネが慌てて手を伸ばしてくる。
「悪かった、ミリィ。つい思ったままを口にした」
思ったまま……?
いよいよもって失礼である。
完全につむじを曲げたミルフィは、レオーネとは反対方向に頭を向けたまま知らん顔で前足を舐め始めた。
「ミリィ?」
困ったような声でレオーネがミルフィを呼ぶが、返事はしてやらない。
「ミリィ。私が悪かった。
頼むから機嫌を直してくれないか?」
どうしようかなとミルフィが考えていると、レオーネは我慢できなくなったように手を伸ばして抱き上げてきた。
「私のミリィ。いい子だから、こっちを見て」
両脇を支える形で持ち上げられたため、ミルフィは反撃とばかりに猫キックをお見舞いしてやった。
本当は前足で相手の腕にしがみついた上で連続蹴りをしてやりたいところだが、服に爪を立てるのはさすがに悪いのでそこまではしない。
不安定な体勢のまませっせと蹴り蹴りしていると、「ミリィは何をしてもかわいいなあ」と、胸にそのまま抱き込まれてモフられた。
おおうっ!
無茶苦茶に撫で回されたせいで、頭や首筋の毛が逆立ってすごい事になった。
堪らずに体を捻り、そのままレオーネの腕から脱走してソファの下に逃げ込むミルフィである。
「ああ、ミリィ!」
悲劇の主人公みたいに絶望的な声を上げられても知った事ではない。
白猫ミリィにめろめろな気持ちはわからぬではないが、ものには限度と言うものがあるのだ。
抗議の意味も込めて、ミルフィはソファの下でせっせと毛繕いを始めた。
「おい、レオーネ。そのくらいにしてやれ。
今、ミリィ用の菓子を用意させているから、お菓子が運ばれたらそこから出てくるだろう。
お前も席に着け」
ミゼルがそう声をかけてきて、ミルフィは初めてその場に王太子がいる事に気付いた。
円形テーブルを囲む形で、ミゼル王太子とシャーロット妃、レオーネが座っていて、王子とシャーロット妃の席の間に、ミリィ用の高椅子が用意されている。
あれ? そう言えば、私まだ王太子殿下夫妻にご挨拶をしていないわ。
そう気付いたミルフィは慌ててソファから首だけを出し、ミゼル王太子とシャーロット妃ご挨拶をした。
「な、なおん」
お久しぶりですの意味を込めて一声鳴くと、シャーロット妃が甘やかな笑い声を立てる。
「ミリィ。久しぶりね。会えて嬉しいわ」
その健やかなお姿と声が懐かしく、ミルフィはついふらふらとソファーの下から這い出て、シャーロット妃のドレスの裳裾に頭を擦り付けた。
「ふふふっ。いい子ね。いらっしゃい」
シャーロット妃が腕を差し出してくれたので、ミルフィは遠慮なく膝の上に上らせてもらう。
白くほっそりとした指が、ミルフィの顎の下を優しく撫でていった。
気持ち良さにミルフィはうっとりと目を細め、ごろごろと喉を鳴らした。
「義姉上……」
恨めしそうにレオーネがシャーロット妃を呼んだが、シャーロット妃は意に介さない。
ひとしきりミルフィとの触れ合いを楽しんだ後、テーブルの空いた場所に置いてくれたので、ミルフィはそこからとことこと歩いていき、自分用に用意されていた高椅子の上にちょこんとお座りをした。
三人の前にはすでに美味しそうなアップルパイと湯気の立つ紅茶が置かれている。
早く私のも来ないかしらとべしべしと尻尾で椅子を叩いていると、それに気づいたミゼルが笑いをごまかすように咳払いをした。
ミルフィの紅茶一式を運んでくれたのは、ミゼルが心を許す王太子宮の侍従長だ。
すべての事情を知る侍従長はミルフィに対して軽く一礼した後、手際よく紅茶とお菓子の皿をミルフィの前に運んでくれた。
ハンクのお菓子も絶品だが、王宮の厨房長が作ったデザートも最高だ。
しっかりと煮詰められ、美味しさが凝縮したようなリンゴと、厳選された素材で丁寧に作られたカスタードクリーム。
その二つをサクサクとした軽いパイ生地で包み込み、口が蕩けるような美味しさだった。
「みょぉぉぉ」
思わず唸り声を上げたミルフィを見て、レオーネが嬉しそうに笑う。
「王宮の料理は美味しいだろ? ミリィもずっとこちらで暮らせばいいのに」
お菓子で人生を決めるほど食い意地は張っていないと思いつつ、ミルフィはちょっとだけ心が揺れてしまった。
だってここで生活したら、高級なアイスクリーム様も時々食べられるかもしれないし。
口の中でしゅわりとほどけるアイスクリームをまた食べたいなあと思いながら、皿に残ったカスタードクリームを未練がましく舌で嘗めていると、「そう言えば」とミゼルが口を開いた。
「最近、お前とドルジ伯爵令嬢の事が宮廷で話題になっているぞ。
発信元はおそらくレミリア公妃だろうが、本当のところはどうなっているんだ?」
気分よくクリームを舐めていたミルフィは思わず動きを止めた。
レオーネと過ごした最後の晩、ブルーノ公子がレオーネにレイチェル嬢との婚姻を勧めていたのは知っているが、まさかここでその名前を聞くようになるとは思わなかった。
どういう事だろうかとレオーネの顔を見ると、レオーネは口に運びかけていたカップをソーサーに戻し、少しうんざりしたように吐息をついた。
「あれからいろいろな場所で、伯爵令嬢と顔を合わせるんです。
王宮の回廊を歩いていると、レミリア公妃に連れられた令嬢と遭遇し、公妃に声を掛けると令嬢も会話に加わってきます。
先日もレミリア公妃の昼餐会に招かれたら、お約束のようにドルジ伯爵令嬢が呼ばれていました。
しかも隣同士の席にされているので、会話をしない訳にもいきません。
そういう事が重なって、噂に信憑性が出てしまったのでしょう」
話を聞いていたミルフィは、それまでのうきうき気分が一転し、しょんぼりと項垂れた。
心の柔らかな部分に鋭い爪を立てられて、ぎりりと思いっきり引っ掻かれたような感じだ。
自分がちょっと離れていた間に、レオーネが他の女性と噂になっているなんて知らなかった。
思わず縋るような目でレオーネを見つめてしまい、それに気付いたシャーロット妃が微かに瞠目した。
「昼餐会の後も引き止められて、気付けば伯爵令嬢と庭園を散策する流れになっていました。
レミリア公妃にうまく丸め込まれた感じですね。
早めに切り上げようとしたのですが、レイチェル嬢がなかなかしつこくて……。
別れ際に、私は殿下の一番の理解者になれると自負しています、そうはっきりと言われました」
「さして親しくもない相手によくも言えたものだな。
で、お前は何と答えたんだ」
「ブルーノ公子に何を聞いたかは知らないが、全て憶測に基づくものだと答えました。
ただ、令嬢は納得せず、いきなり私の手を握ってきたんです。
触られた瞬間に鳥肌が立って、私は思わずその手を振り払ってしまいました」
その時の事を思い出したのか、レオーネは苦い顔で首を振った。
「女性嫌悪症である事を自ら暴露してしまったようなものです。
動じずに、手を放せと一言言えれば良かったのですが」
「男性の肌にいきなり触れようとするなど、随分礼儀知らずな方ね」
シャーロット妃が静かにそう応じる。
義弟の対応を咎めるような響きはなく、ただ家族として案じていた。
「レオーネ殿下。くれぐれも結婚を妥協で決めようとはなさらないでね。
殿下が傍においてもいいと思える女性と結婚しなければ、貴方は必ず後悔するわ」
「わかっています」とレオーネは頷いた。
「幸い今の私は、政略で妃を決める必要はありません。
好きでもない女性を形ばかり妃に据えるなど論外ですし、そのような不実もしたくはありません」
「ならば良い。
ただ、令嬢の背後にレミリア公妃がいるのが厄介だな」
ミゼルが天井を見上げ、がしがしと片手で頭を掻いた。
「公妃は支配欲の強い人間だ。夫君を尻に敷くだけならいいが、周囲の全てを管理下に置かないと気が済まないところがある。
会話をしていても常に主導権を握りたがるし、他者の感情は軽視する。
その上、相手の責任感や好意を上手に利用して、自分の思い通りに動かす術も備えているんだ。
息子のブルーノ公子は母妃に対して激しい執着と愛情を覚えているが、あれは支配型の母親によって感情をコントロールされた典型例と言えるだろうな。
レオーネ。お前も公妃と接する時は気を付けた方がいい。
向こうはお前の罪悪感や王族としての義務を上手に突いてくるぞ。
曖昧に言葉を濁せば、抜き差しならぬ状況に追い込まれる可能性がある」
「……心します」
「噂についてはこちらが何とかしよう。
これ以上、レミリア公妃に振り回されては堪らないからな」
ミゼルがはっきりと宣言し、頼もしい兄の言葉にレオーネは「はい」と口元を綻ばせた。
殿下はレイチェル嬢と噂になっているけれど、心配しなくてもいいのよね……とミルフィがちらちらとレオーネの顔を窺っていたら、その様子に気付いたシャーロット妃が「殿下」と柔らかな口調でレオーネを呼んだ。
「難しい話はここまでにしましょう。
それよりも殿下はミリィと遊んでおかなくて大丈夫ですの?
今日しっかり遊んでおかないと、今度いつ王宮に連れて来てもらえるかわからなくてよ」
ミゼルの言葉に、レオーネがはっとしたようにミルフィを見る。
「ミリィ」
レオーネが手を伸ばしてきたので、ミルフィは高椅子からぴょんと飛び降りてレオーネのところに駆けて行った。
レオーネが他の女性に触られたのはものすごく嫌だったし、特定の女性と噂になっている事も何だか悔しい。
その抗議を込めて「なおん」と低い声で鳴くと、「どうした? 何か気に食わない事でもあるのか?」とレオーネが笑いながら聞いてきた。
ミルフィはレオーネの腕の中に納まって、その胸に頭を擦り付けた。
仄かに香るシダーウッドの香りが胸を締め付ける。
ずっと猫のミリィだけに夢中になってくれたらいいのに……と、ミルフィはそっと心の中で呟いた。
王子宮で一緒に暮らしていた時のように、執務や付き合い以外の時間はずっと一緒に過ごせたら、自分はきっと満たされる。
今みたいに漠然とした不安に心を乱される事はなくなるだろう。
レオーネは猫のミルフィを膝の上に乗せ、可愛くて堪らないといった感じでずっと頭を撫でてくる。
その温もりが心地良く、ミルフィは「みぃぃ」と小さく鳴いて目を細めた。
しばらく経ってから、そう言えば今日は匂いを嗅がれないなとミルフィは気が付いた。
いつもならひっくり返されて白い腹毛に顔を突っ込まれているところだが、今日は何だか対応が紳士的だ。
ちょっと物足りなさを覚えたミルフィだが、いや、腹の匂いを嗅がれたいと思うなんて発想が痴女だわ……と慌てて自分を戒めた。




