再び王宮へ
この武闘大会は、騎士学校を卒業したすべての騎士が出場できる訳ではない。
騎士学校の上位成績者だけが参加資格を与えられ、出場が決まっただけでも大きな誉とされていた。
余談ではあるが、大会が開催される闘技場の収容人数はおよそ一万人で、観覧席は三つのエリアに分かれている。
フィールドに一番近い場所にある貴族達のための特別エリア、裕福な平民らが金を払って観覧する第一エリア、そして金のない者達が無料で観覧できる第二エリアだ。
特別エリアの最前列中央には両陛下が観覧される桟敷席があり、その周囲に他の王族や高位貴族らの席が設けられていた。
それ以外の席は最前列から三列目までが出場者の親族や知人に割り振られ、ミルフィも一度だけこの前席で観戦した事があった。
兄のイザークが騎士学校を卒業した年、新人騎士の剣術の部で出場したからだ。
出場する騎士らにとって、この武闘大会は単に自らの強さを誇示する場ではない。
家名を披露する又とない機会であり、だからこそ一族の誰かがこの大会の出場権を得ると、皆でそれを祝うのだ。
四年前、兄のイザークが新人騎士部門で出場した時の事を、ミルフィは今も鮮明に覚えている。
タウジ家の家名が呼び上げられ、飾り立てられた馬に騎乗した兄が颯爽とした姿で登場すると、観覧席からは黄色い悲鳴と怒涛のような歓声が沸き起った。
あの時の兄は本当に素敵だった。
出場騎士として皆に披露されただけでも十分に名誉な事であったのに、イザークは何とその年の新人の剣技の部門で見事優勝を果たしたのだ。
イザークは王陛下から直々のお言葉を賜り、王妃様からは名誉と勝利の証となる花冠を贈られた。
この花冠を送られた騎士がどの女性に花冠を捧げるかを見るのも、この大会の醍醐味である。
妻や婚約者を持つ騎士はそれぞれのパートナーに花を贈るし、そうした相手を持たない者は意中の女性に花を捧げる事もあった。
多少身分違いであったとしても、大会の優勝者が女性に花冠を捧げ、女性がそれを受け取ったなら、二人の前途を祝福すべきだという風潮がモルド国にはあった。
実際、十年ほど前には、子爵令息が密かに思いを交わしていた侯爵令嬢に花を捧げ、無事に結婚が許されている。
だからミルフィは、兄が誰に花冠を贈るのだろうと興味津々で見ていたのだが、当の本人がまさか自分の方へやって来るとは思ってもみなかった。
イザークは最前列の観覧席の前で下馬すると、柵から顔だけ出す形で応援していた十一歳のミルフィの頭の上に、勝利の花冠を乗せてくれたのだ。
その瞬間、会場を揺るがすような歓声が沸き起こり、会場の主役となったミルフィは兄の首に抱き着いてその頬に祝福の口づけを送った。
まるで物語の中のお姫様にでもなったような気分だった。
さて、昨年出場したアドルフも見事、弓術の部で優勝を果たした訳だが、アドルフの場合はどうだったかと言うと、贈られた花冠を母であるボードン侯爵夫人に捧げたらしい。(そして贈られたボードン侯爵夫人はその後延々と社交場で自慢し続けた)
らしいというのは、ミルフィはその日応援に行かなかったからだ。
正確には行く事ができなかった。
親族から武闘大会の出場者が出るというのは大変栄誉であるため、ミルフィも勿論その晴れ姿を見に行くつもりだった。
ところがその前日の夕方辺りから、ミルフィは急激な嘔吐と下痢に襲われてしまったのだ。
その日の昼に食べた鴨肉によく火が通っていなかったのか、あるいは付け合わせに食べた野菜が傷んでいたのか、原因はよくわからない。
一晩中、吐くや下すやの大騒ぎとなり、朝には一応落ち着いてきたのだが、お腹に力は入らないし、体中から水分が抜けきった感じでミルフィはもうヘロヘロだった。
この状態で馬車に揺られると、再びお腹が駆けっこを始めそうだったので、ミルフィは謹んで観覧を辞退させていただく事にした。
ただし、お腹を下したから観戦できないというのは、あまりに外聞を悪い。
なので、質の悪い夏風邪に掛かり、寝込んでいるという事にさせてもらった。
こうして考えると、不測の事態が起こる度に、ミルフィは夏風邪を理由に使わせてもらっているような気がする。
何て便利な病名だろうとミルフィがつくづく感心していると、アマンテ伯爵がやれやれと言った顔で首を振った。
「傍から見ると、アドルフは結構わかりやすい行動をとっているんだがなあ。
でもまあ、伝わらんのではどうしようもない」
それを聞いたメリージェン夫人が苦笑しながら口を開く。
「他の従兄弟達を陰で蹴散らすだけでは、本人に通じませんわよ」
そしてふと真正面からミルフィに視線を合わせてきた。
「ところで貴女はボードン侯爵令息についてどう思っているの?
貴女は気付いていないかもしれないけれど、彼は大層モテるのよ。
多くの令嬢方が令息の心を射止めたいと必死になっているのを知っているかしら」
「勿論です」とミルフィは頷いた。
そういう噂をミルフィも友人達から聞いた覚えがある。
「初めは冗談かと思いましたが、私以外の令嬢方に対してはとても礼儀正しく、親しみやすいのですって。
選び放題みたいですし、いい方が早く見つかるといいですね」
幼い頃から散々虐められ、全くいい印象がない相手だが、別段不幸になれとは思っていない。
もし婚約が決まったら、親族の一人としてきちんと祝福しようとミルフィは思っていた。
その返事を聞いたメリージェン夫人は、何だか残念なものを見る目でミルフィを見た。
「貴女の気持ちはよくわかったわ。という事で、私は娘の気持ちを優先致します。
例の件はこれ以上進めないようにしていただけますか」
前半の言葉はミルフィに向けられ、後半半分は男性陣二人に向かって宣言されたものだった。
それを聞いたアマンテ伯爵は、「仕方あるまい」と苦笑した。
「向こうにもその旨を伝えておこう」
「ありがとうございます」
にこやかにメリージェン夫人が答え、これはどういった話の流れなの? とミルフィはちらりと母の方を見た。
「何でもないのよ」とメリージェン夫人は答え、ミルフィはちょっともやもやしたものの、まあいいか……とそれ以上は考えない事にした。
ミルフィが王宮を訪れたのは、祖父の家から帰宅した翌々日の事だった。
その日は朝から雨模様で、薄い黒雲が覆う空を馬車の窓越しに眺めながら、激しい雨にならなくて良かったわとミルフィは安堵の吐息をついた。
イザークは王太子の居殿に部屋を賜っているため、王宮の正門を潜った後、ミルフィの乗る馬車は王宮東側の馬車止めへと誘導された。
警備の騎士には仔細が伝えられていたらしく、通用口を入った後、ミルフィはそのまますんなりと兄の部屋に通してもらえた。
兄に会うのは七日ぶりだった。
妹の到着を待ち詫びていたらしいイザークは、「よく来たな」と嬉しそうに破顔し、ミルフィから渡された藤のバスケットを両手で受け取った。
「少し重いね。もしかして中に何か入っているの?」
「ハンクが作ったダークチェリーのタルトよ。
空のまま持ってこようかと思ったのだけど、せっかくだからタルトを食べていただこうと思って」
ハンクとはタウジ家お抱えの料理人だ。
上質のバターをたっぷり使ったクッキーやタルトを焼くのを得意としていて、幼い頃はイザークもミルフィもハンクの作るデザートをいつも楽しみにしていたものだった。
「へえ。それは楽しみだ」
イザークは早速バスケットを開け、タルトを取り出してテーブルに置いた。
食べるためではない。
この後、このバスケットに猫のミリィを入れて王太子宮まで運ぶためだ。
「少し小さめだけど、大丈夫かな」
「入れる事は確認済みなの。ちょっと窮屈だけど、あまり人目を引かない方がいいのでしょう?」
「ああ。その方がありがたい」
イザークはチェストの引き出しから絹のハンカチを二枚出し、それをバスケットの中に敷いた。
「家に帰ったばかりなのに、呼び出して悪かったな。
レオーネ殿下が猫のミリィに会いたがっていて、かなりせっつかれた。
お前には社交があるからと、一応お断りはしたのだが」
済まなそうにイザークが謝ってきて、ミルフィは笑いながら首を振った。
「社交の方は心配しないで。昨日叔母様が主催なさった晩餐会でも、たくさんの縁を繋げたの。
これからゆっくり人脈を作っていくわ」
家には無事に帰れたわけだし、社交を焦るつもりはない。
それよりもミルフィはずっとレオーネの事が心にかかっていて、こんな風に呼んでもらえた事がとても嬉しかった。
バウアーパークで別れる時、レオーネの態度はそっけなかった。
それまでは心底別れを惜しんでくれていた筈なのに、ミルフィが家族の胸に飛び込んでいった途端、ミリィに対するそれまでの執着や愛情が一気に薄らいでいったかのようだった。
ミルフィの事を振り返る事なく遠ざかっていった広い背中を思い出す度に胸がどうしようもなく痛み、ミルフィはずっと自分の気持ちを持て余していた。
もしかしたら、可愛がっていたミリィが他の家の飼い猫だとわかって、もう興味を抱けなくなったのだろうか。
そんな不安は日を重ねるごとに強くなり、夜、アマンテ伯爵家の広い客用ベッドの上で、ミルフィは人知れず涙を零した。
だからタウジ伯爵家に戻った日、殿下が会いたがっているという兄からの手紙が届いていると知って、天にも昇るような気分になった。
猫姿であれば、そこら中を走り回って喜んでいたかもしれない。
「じゃあ、今から変態するわ。そちらの洗面所を貸してもらっていい?」
「ああ。猫になったら出てきてくれ」
ミルフィはうきうきしている事を兄に悟られないよう、表情を引き締めて洗面所に向かった。
今日は一人で脱ぎ着できるように、前釦で留めるタイプのドレスを身に着けてきた。
釦の数がやたらと多いので着脱に時間はかかるが、余り変な恰好で王宮を訪れる訳にもいかないので仕方がない。
かなり苦労して全部の釦を外し終え、その後猫に変態したミルフィは、くたくたと床に落ちたドレス一式を前足でちょちょっとまとめておいた。
これでお出かけ準備完了である。
殿下にお会いするのも久しぶりだわ。
ミルフィはドキドキと高鳴る胸を鎮めようと、その場で少しだけ毛繕いをした。
洗面所から姿を現すと、ミルフィに気付いたイザークがすぐに両脇を持つように抱え上げ、狭いバスケットの中にそっと下ろしてくれた。
「じゃあ、出かけようか」
そう声を掛けられたミルフィは狭いバスケットから上を見上げ、「なおん!」と元気良く兄に返事をした。




