祖父の家で
ミルフィが両親と共にアマンテ伯爵家を訪ねると、昔からいる家令が待ちかねていたように三人を出迎えてくれた。
「旦那様が書斎でお待ちです。どうぞこちらへ」
案内されるまま長い廊下を進んで行けば、いつもは閉ざされている書斎の扉が今日は大きく開け放たれていた。
中に入った途端、古い本から発せられるどこか甘く、かび臭いような独特な香りがミルフィの鼻をついた。
中は少し薄暗い。
突き当たりには明り取りのための窓が広くとられていたが、大切な蔵書を傷めぬようにブラインドの角度が調整されていた。
窓の近くにはブラインド越しに庭園の景色を眺めている背の高い銀髪の男性が後ろ手を組んで立っており、覚えのあるその後姿にミルフィは思わず顔を明るくした。
「旦那様。タウジ伯爵夫妻とご令嬢がお越しになりました」
家令の言葉に、祖父のアマンテ伯爵がゆっくりとこちらを振り返る。
榛色の瞳がまずタウジ伯爵とメリージェン夫人の姿を捉え、続いてその後ろに立つミルフィへと向けられた。
ミルフィが病で寝付いていたと聞かされていたアマンテ伯爵は、顔色を確かめるように孫娘の顔をじっと見つめ、元気そうな様子にほっとしたように肩の力を抜いた。
三人はそのまま奥の応接スペースへ案内され、四人が席に着いたところで、先ほどの家令が仰々しいティーワゴンを押して現れた。
ワゴンの上には紅茶のセットと二段の菓子スタンドが載っている。
上の段には金粉が散らされたショコラやオレンジピールの砂糖漬けが、二段目にはクッキーやタルトといった焼き菓子が用意されていた。
甘いものに目がないミルフィはつい嬉しそうな顔をしてしまい、それに気付いた母のメリージェン夫人がミルフィを嗜めるようにこほんと軽く咳をした。
こんな事で感情を露わにしてしまうなんて、淑女失格である。
ここ最近ずっと猫姿でいたせいか、嗜みというものをすっかり忘れていた。
ミルフィは慌てて表情を取り繕い、それを見ていたアマンテ伯爵が堪えきれなくなったように笑い出した。
「構わぬよ。ここは身内だけだ。メリージェンも許してやりなさい」
伯爵は今年で六十五歳になるが、矍鑠として未だ病気知らずである。
一年前、最愛の妻に先立たれた時は一時期沈み込んでいたが、親族や友人らの励ましもあり、今はすっかり往時の元気を取り戻していた。
「もう体の方は大丈夫なのか?」
改めて祖父からそう問われ、ミルフィは何と答えていいものか迷うように両親の顔を見た。
書斎の扉は今は閉められていて、ここにいるのは古くから伯爵家に仕える年老いた家令だけだ。
それを目で確認したメリージェン夫人がゆっくりと口を開いた。
「お父様、ミルフィは病気で寝込んでいた訳ではありませんでしたの。こちらの夜会に出席する数日前、バウアーパークで第二王子殿下に拐われ、ずっと王宮にいたのです」
「第二王子に?」
思わぬ言葉に、アマンテ伯爵は瞠目した。
「いきなり行方不明になって私どもも随分心配しておりましたが、王太子殿下に仕えるイザークがミルフィの無事を知らせてくれました。ただ、その後もなかなか帰してもらえず、一昨日ようやく家に帰って来た次第です」
タウジ伯爵が言葉を足し、詳しい事情を一通り説明されたアマンテ伯爵は、「そういう事だったか……」と大きな溜め息をついた。
「何の流行り病かと聞いても返事をごまかして来るし、何かあったのではないかと案じてはいたのだが……」
苦笑混じりにそう言われ、ミルフィは改めて祖父に頭を下げた。
「せっかくお祖父様がドレスまで用意して下さっていたのに、大切な夜会を欠席するようになって本当にごめんなさい」
アマンテ伯爵家で開かれる夜会で、ミルフィは盛大に披露してもらう予定だった。
ファーストダンスも祖父と踊る予定で衣裳の色まで合わせていたのに、ミルフィの軽率な行動が原因で、結局、夜会自体を欠席する羽目になってしまった。
申し訳なさにじっと俯いていると、「もう顔を上げなさい」とアマンテ伯爵が優しく声を掛けてきた。
「無事であったのだからそれでいい。
それにしても、パークで第二王子に拐われるとはな……。もしかするとお前から近付いてしまったのか」
「はい。パーク内を冒険していた時、たまたま木立の下で王子殿下が座っておられるのを見たのです。
ひどく憂鬱そうな表情でいらしたので、どうしても気になって……」
と言っても、別に心配して近付いた訳ではない。
いけ好かない王子が何を落ち込んでいるのだろうという純粋な好奇心から傍に寄ってみたのだが、ここで馬鹿正直にそれを言う訳にはいかなかった。
「殿下がうち沈んでおられるという姿は想像できないな」
アマンテ伯爵は豊かな顎髭を撫でながらそう言った。
「王宮で何度となくお姿を拝見しているが、あのお方はご自身の感情をほとんど表に出されない。
どこかつまらなそうな笑みを口元に張り付け、日々淡々と王族の務めを果たしておられる」
「そうですわね。表情を余り崩されないので、冴え渡った美貌と相まって氷の貴公子などと呼ばれていますもの」
「そう言えば、そんな風に呼ばれていたな」
アマンテ伯爵は少し苦笑いし、
「だがまあ、派手な取り巻きや派閥を作らず過ごされているというのは、ある意味賢明な生き方なのかもしれないな。
お陰で、兄君であるミゼル王太子の対抗馬としてレオーネ王子を担ぎ上げようとする勢力も現れない。
性格も慎重で、豪放磊落であけっぴろげなミゼル王太子殿下とは対照的だ」
「確かに見た目も性格も正反対のお二人ですが、仲は良好のようです。殿下は常に兄君を立て、必要以上に自分が目立つような事はしておられません」
タウジ伯爵が言葉を足し、「それは重畳」とアマンテ伯爵は呵々《かか》と笑った。
「王家に生まれつくと、なまじ王位に近いだけに分不相応の望みを抱いて身を亡ぼす王族も往々にいるが、今代に限ってはその心配をしなくて済みそうだ」
祖父達の会話に耳を傾けながら、ミルフィはふと、レオーネの生き様に改めて思いを馳せた。
レオーネは文武両道で容姿も整っている。
如才なく立ち振る舞い、高位貴族やその令息らを味方に引き込んで一大派閥を作る事はおそらく可能であった筈だが、敢えて目立たない立ち位置に身を置いていた。
一種の保身だと言われればそれまでだが、兄君を蹴落として王位に就きたいという野心がそもそもないのだろう。
そしてその事実を王太子自身も知っていた。
ミゼル王太子の事を祖父は豪放磊落と評したが、それだけの人間ではないとミルフィは薄々気付いている。
暑苦しいほどの筋肉がついた外見を上手く利用して、親しみやすくざっくばらんな王太子を演じているだけで、あの方の本質はおそらく違う。
相応に頭も切れ、腹芸もおそらく得意である筈だ。
そしてレオーネは、そんな兄王子の本質を知った上で心から兄君を慕っていた。
だからこそ、レオーネの傍は心地良い。
もしレオーネが陰でこそこそと王位を狙うような男性であったなら、いくら外見が美しくてもミルフィは決して好ましいとは思わなかっただろう。
そんな事をミルフィがぼんやりと考えていると、アマンテ伯爵が不意にミルフィに声を掛けてきた。
「ミルフィ。第二王子に無理やり拐われたと聞いたが、危ない目には遭わなかっただろうな」
ミルフィは慌てて首を振った。
「大丈夫です。とても大切に扱っていただきました。
バスケットに入れられて王宮内を移動する時も、わざわざ護衛が付いたくらいです」
「護衛付きか。よほど大切にされていたのだな」
アマンテ伯爵は満足そうに目を細め、うまくごまかせたミルフィは心の中でほっと安堵の息をついた。
窓の下の出っ張りを伝って部屋を移動しようとしてうっかり死にかけたなど、ミルフィを心配している祖父や両親の前で言える筈がない。
助かったのは奇跡のようなもので、あの時ミゼル王太子が機転をきかせてくれなければ、ミルフィはとうに命を落としていただろう。
即応力が高いお方で良かったと、ミルフィは今一度、王太子殿下に強く感謝した。
「それはそうと、この子の社交はどうなっているのだろうか」
アマンテ伯爵がふと心配そうに娘夫婦の顔を見た。
「淑女の社交はデビュタントボールを終えてからだ。お茶会や昼餐会の招待を次々に断る形になっているが、困った事にはなっていないか?」
「お茶会の誘いが三つありましたが、いずれもこの子と仲の良い友人が開催したものでした。
流行り病になったと知らせ、相応の詫びの品を託けています。
一昨日ミルフィがようやく館に帰ってきましたので、改めて本人からも文を届けさせました」
タウジ伯爵がそう説明した。
「他の招待はなかったのか?」
「一番大きな招待がこちらの夜会でした。
その前にもう一つ、ボードン侯爵家から昼餐の誘いを受けておりましたが、こちらは妻が直々に詫びに伺っています。
親族なのであまり気を遣わないようにと、侯爵夫人から言葉をいただきました」
ボードン侯爵家と言ったらあのアドルフの家じゃないのと、ミルフィは思わず鼻に皴を寄せた。
一つ上の又従兄弟で、何かとミルフィに突っかかってきた虫の好かないあの男だ。
トラに変態した姿が見たいと毎回絡まれ、それだけでも鬱陶しかったのに、言い返したら突き飛ばされ、堪えきれずに涙を零せば泣き虫だと囃し立てられた。
ミルフィにとっては天敵と言っていい存在で、何かもう、名前を思い出すのも癪に障る。
「近衛隊に所属している嫡男もその昼餐会のためにわざわざ休みを取っていたようで、急遽ミルフィが不参加となった事を大層残念がられました」
「ああ、アドルフか。うちの夜会に参加した時も、ミルフィがこちらに来ているか開口一番に聞いてきたな」
それを聞いたミルフィは思わず眉を顰めた。
「ボードン家の昼餐会を欠席したから、文句でも言うつもりだったのかしら」
変態を断る度にしつこく絡まれ、嫌みを言われた幼少時を思い出し、ミルフィはうんざりと呟いた。
「私の事が気に食わないなら、近付いてこなければいいのに」
それを聞いた大人三人は思わず顔を見合わせ、それから何とも言えない顔でミルフィの方を見た。
「え。どうかなさったのですか?」
「いや。アドルフはその……別にお前の事を嫌ってはいないと思うぞ」
「そうなのですか?」
ミルフィは疑わしそうに父の顔を見た。
「お父様の言葉を疑う訳ではありませんが、私にはとても信じられません。
会う度に絡まれて、嫌みも散々言われましたもの」
ミルフィがギャン泣きしたあの一件以来、アドルフは多少おとなしくなった。
年下の女の子に言い掛かりをつけて、更には手まで出したのだ。おそらく相当親から怒られたのだろう。
それからは馬鹿の一つ覚えみたいに変態しろと口にする事はなくなったが、アドルフに話し掛けられる度にミルフィが敬語で応対したら、今度は「他人行儀な口をきくな」と逆切れされた。
言い返したら生意気だと突き飛ばされたから、丁寧に接してやったというのにあの男は一体何が不満なのだろう。
鬱憤が溜まったミルフィは兄に相談してみたが、イザークは「あいつは阿保か」と天を仰ぐばかりで頼りにならない。
挙句に「男には色々あるんだよ」と訳のわからない事を言ってきて、愚痴を親身に聞いてもらえなかったミルフィは不完全燃焼だ。
そのうちアドルフが騎士学校に進学して顔を合わせる事がなくなったので、ミルフィは心底ほっとした。
「あいつも不器用な奴だからなあ」
アマンテ伯爵がそう溜め息を吐き、ミルフィは首を傾げた。
「ボードン侯爵令息って不器用な方でしたっけ?
何でもそつなくこなし、見ていて安心だとお祖父様がおっしゃっていたような覚えがありますけれど」
アマンテ伯爵にとって、アドルフは亡き妹の孫息子に当たる。
幼い頃からやんちゃで、剣技や弓術に秀でていたこの姪孫をアマンテ伯爵は実の孫のようにかわいがっており、ミルフィは事あるごとにアドルフの自慢話を聞かされたものだ。
曰く、体が大柄のわりに身のこなしが素早く、大剣を軽々と振るう。
特に弓の腕に優れ、騎士学校では一、二を争う成績であったなどなど。
そう言えば去年、アドルフが新人騎士の部門で大会に出るから最前列で見ようと両親に言われていた事をミルフィは今更のように思い出した。




