ミルフィは家で寛ぐ
「ついうっかり、ねえ……」
あり得ないだろ? とミゼル王太子の唇が動いた。
「王家の嫡流を馬鹿にするにもほどがある。
お前が女性を嫌悪している事は、国家レベルの極秘事項だ。
それをたかだか伯爵令嬢の前で漏らすなど、脳みそに大鋸屑が詰まっているとしか思えん。
で、まさかお前はその申し出を受けはしなかっただろうな」
「早急に婚約者を作るよう求められている事は知っていますが、そんな情けない理由で妃となる女性を選びたくありません。
きちんと断りましたが、ブルーノ公子は納得していない様子でした。
そうこうしているうちにミリィが酔っぱらってしまったので、早々に帰ってもらったのですが」
「酔っぱらった?」
ミゼルは目を瞬いた。
「おい。お前、まさか体の小さな猫に酒を飲ませたのか?」
「いえ、レモンリキュール入りのシロップに漬け込んだフルーツを食べさせたら、どうも酒が体に回ったようで……。気付いたら斜め歩きをしていました」
「……」
「という事で話は中途半端に終わりましたが、私の結論は決まっています」
レオーネの言葉に、ミゼルはがしがしと頭を搔いた。
「お前が気持ちを定めているのはいい事だが、ブルーノ公子はしつこいぞ。
しつこいと言うより、あいつは重度のマザコンだ。
母のレミリア公妃が姪のレイチェルとお前の結婚を望む限り、ブルーノ公子も諦めないだろう。
ついでに言えば、そのレイチェルという女にも気を付けた方がいい」
「気を付けるとは?」
「シャーロットは茶会で何度かレイチェル嬢と顔を合わせている。
一言で言えば、ひどく拗らせている女性だと話していた。
おそらく生い立ちに関係しているのだろうが、身分の高い者に嫁ぐ事で父親や継母、異母弟妹らを見返してやりたいという欲求が強いらしい。
だから、お前の事情を知ったとしてもレイチェル嬢の熱が冷める事はない筈だ。
見栄や虚栄心を満たすには、王子妃の肩書は何より魅力的だからな」
「女性不信がいよいよ強くなりそうです」
レオーネが嫌そうに笑い、ミゼルは軽く肩を竦めた。
「まあ、うまくやり過ごせ。
こっちはこっちで忙しい。お前の女避けまでは手が回らん」
「わかりました」
そう答えた後、レオーネはふと口を開いた。
「その後ルナス子爵夫人の動きは如何ですか?」
「明日の午後、休みが欲しいと言ってきたようだ。
うまく黒幕と接触してくれればいいのだが、粉薬は数がまだかなり残っている。
一度や二度の尾行では、悪事を暴くのは難しいかもしれないな」
「黒幕は本当に宰相なのでしょうか」
レオーネがそう問いかけると、「どうだろうな」とミゼルは溜め息をついた。
「現行の法律では正嫡の男系男子の獣人しか家名の継承が許されず、そのせいで王家は先細りとなっている。
宰相はそれを憂え、法律改正を望んでいるんだ。
その宰相が王太子妃に薬を盛ったら、本末転倒だろ。それに誠実で忠義に厚い宰相が王家に弓を引くとは到底思えない」
「そうですよね……」
レオーネとミゼルはしばらく無言で顔を見合わせ、ややあってどちらからともなく溜め息を吐いた。
「ああ、癒しが欲しい」とレオーネが乱暴に髪をかき上げ、それを見たミゼルが疲れた声でそれに応じる。
「シャーロットと同じ事を言うな」
昨日、ミリィをタウジ家に帰すと決めたのはミゼルの独断であったため、あの後ミゼルはシャーロット妃から散々寂しいと嘆かれた。
そりゃあ、真っ白で小さい猫は可愛いからな……とミゼルは心の中で呟いた。
「イザークとは話を付けた。ただ、ミルルフィーヌ嬢が王宮を訪れるのは早くても五日後だそうだ」
「五日後? どうしてそんなに先なのですか?」
「お前が無理やり王宮に連れてきたせいで、ミルルフィーヌ嬢は母君の生家、アマンテ伯爵家が主催した夜会を欠席せざるを得なくなったんだ。
孫娘のお披露目という意味合いもあり、伯爵はその夜会に相当力を入れていたらしくてな。
その詫びもかねて、二、三日そちらに逗留するらしい。
明後日にアマンテ伯爵家の領地に出立すると聞いているから、王都の邸宅に帰ってくるのは早くてその三日後だ」
「そんな……」
「という事で、癒しはしばらくお預けだな」
ミゼルがあっさりと言葉を返し、兄の無情な一言にレオーネは撃沈した。
一方、十二日ぶりに我が家に帰ったミルフィは、久々に人型に戻って、ゆったりと湯船の中で体を伸ばしていた。
メイドが運んでくれたお湯の中に肩まで浸かり、入浴を満喫する。
泡の立ったお風呂の中で頭から足の先まで洗ってもらい、最後に新しいお湯で体全体を流してもらい、火照りがおさまったところで久々のドレスに袖を通した。
「ああっ、最高!」
思わずガッツポーズをすると、
「ほいほいと知らない人について行ったりするからです」
着替えを手伝っていた侍女のヒルダがそう苦言を呈された。
「どうして攫われるような羽目になったんです?
知らない獣人には近付くなと、旦那様や奥様からあれほど注意されておりましたのに……」
館に帰って来てから、ヒルダには耳にタコができるほど小言を言われた。
でもまあ、ミルフィが悪いのだから仕方がないのだけれども。
両親や兄は目の色を変えてミルフィを探し回る事になり、事情を知らされたヒルダと家令のランツィもミルフィの不在をごまかすために必死に動いてくれていたようだった。
因みにミルフィは、質の悪い夏風邪に罹り、自室で療養していた事になっていた。
今日ようやく家に帰れたので、病状も落ち着いて湯あみもできるようになったと使用人達に伝えられたそうである。
「それにしても、私が部屋にいない事をどうやってごまかしていたの?」
ミルフィが不思議そうに尋ねると、
「私がこの部屋にずっと籠っておりました」とヒルダは小さく溜め息をついた。
「お嬢様の看病をしているという理由でここから離れず、食事やお湯などは控えの間で受け取って、掃除のメイドも中には入れませんでした。
幸いな事に、皆、品物だけを渡してそそくさと逃げていきました。質の悪い病気が移っては堪らないと思ったんでしょうね。
この十日余りで私が会話をしたのはランツィさんくらいのものです」
「まあ。それじゃあ、気が滅入ってしまうわね。大丈夫だった?」
「ご無事だと知るまでは、身も細る思いでしたよ」
「本当にごめんなさい」
ミルフィはヒルダの腰に抱き着いて心からそう謝ったが、以前よりヒルダの腰回りがしっかりしている気がして、んん? と首を傾げた。
「気のせいかしら。
痩せてはいないみたいだけど」
「はっきりおっしゃって結構ですよ。以前より太りましたから」
ヒルダはあっさりとそう言って軽く肩を竦めた。
「四日目にイザーク坊ちゃんからお嬢様が無事だと知らせが来て、そこからは食事が喉を通るようになったんです。
それに毎日、私の分とお嬢様の分の食事が部屋に運ばれてくるんです。
自分の分は勿論食べますけれど、お嬢様の食事に全く手をつけないというのも変でしょう?」
「手付かずで返したら、料理人達が心配するものね」とミルフィは頷いた。
「食事は毎回一人前半。
その上に食べて寝の生活ですからね。太りも致します」
ヒルダはそう言って、恨めしそうに自分のお腹を見下ろした。
「あまりにも暇だったので、ランツィがこっそり差し入れてくれた冒険譚やミステリー小説を山ほど読む羽目になりましたよ」
「……」
あら。じゃあ意外と楽しい数日を送っていたのかもしれないわとミルフィは思い直した。
「さっさとお帰り下さればよろしいのに、何をされていたんですか?
デビュタントを済ませていよいよ社交が始まろうとするこの時期に、病弱なんて噂が立ったら取り返しがつきませんのに」
「ええっとまあ……、色々とあったのよ」
「色々、ですか」
「そう、色々。本当に色んな事があったの」
レオーネ王子に体中を洗われた事は黙っていようとミルフィは思った。
余りに破廉恥すぎるし、ヒルダが知ったら卒倒しかねない。
「それよりもお祖父様には悪い事をしてしまったわ。
私のための夜会みたいなものだったのに、欠席する事になってしまって」
「誠心誠意お謝りになる事ですね。
まあ、大旦那様はお嬢様に甘くていらっしゃるから、すぐに許して下さいますわ」
「……ねえ、ヒルダ。お祖父様はどこまでご存じなのだと思う?」
「文に迂闊な事は書けませんから、流行り病だとお伝えしている筈です。
会った時に本当の事を話されるのではないでしょうか。
大旦那様はお嬢様の事情もご存じですし、今回この秘密が王家に知られてしまった事についてもご相談なさるのかもしれません」
「私が誘拐されちゃったばかりに大変な事になっちゃったわね」
しゅんとなったミルフィに、「まあ、ものは考えようですわ」とヒルダは優しく慰めてきた。
「この度、王家に事実をお伝えできた事は却って良かったのかもしれません。
黙っていた事へのお叱りもなく、旦那様が心配されていたように王立研究所に連れて行かれる事もありませんでしたし」
「そうね。お父様やお母様が罰せられなくて本当に良かった」
「明後日には、大旦那様の屋敷にご挨拶に伺うそうです。
明日はゆっくりお体を休めてと言いたいところですが、ここ半月近くお勉強から遠ざかっておいででしたから、その分を挽回しなければなりません。
座学やダンス、ハープやチェンバロの練習をするよう旦那様から言われております。
気を抜かずに精進なさって下さいね」
「うわっ。帰っていきなりそれなの?」
大げさに嘆くミルフィを見て、ヒルダは小さく笑った。
「大旦那様は、ミルフィお嬢様の来訪に合わせ、親族や近隣の知り合いを邸宅に呼ばれるそうですわ。
お披露目に、皆の前でチェンバロを演奏するよう言われるかもしれません。
そこで恥をかくのはお嫌でしょう?」
「チェンバロって、長らく弾いていないと指が動かなくなるのよね。
ダンスは体が覚えていると思うけど……」
ミルフィは自分の指を見つめながら溜め息を付いた。
「近隣の知り合いを招くっていう事は、小晩餐会を開くご予定なのかしらね。
いずれにせよ、そこで失敗はできないわ」
「その通りです」
「やだ。緊張してしまうかも」
ミルフィは椅子に腰かけたまま、わざと子どものように足をばたばたさせた。
「お嬢様!」
呆れたようにヒルダが叱ってきて、ミルフィは大人しく椅子に座り直した。
「ふふふっ。向こうではちゃんと猫を被るから心配しないで。
あら。猫を被るって言い方はおかしくない? 猫が猫を被る事になっちゃう」
「猫に変態する時点で、お嬢様は十分変わっておいでですわ」
ヒルダはくすりと笑いながらミルフィの後ろ側に回り、濡れた髪をタオルで丁寧に拭いて乾かし始めた。
「お祖父様にお会いするのが楽しみだわ」
髪の手入れをしてもらいながらミルフィは嬉しそうに言った。
「そう言えば、お祖父様の家って邸宅と言うよりお城って感じがしない?
石造りで窓も小さめだから、夏でも空気が少し冷たいの。
邸宅内には隠し通路もあるって従姉妹から聞いたけど、本当かしら」
「どうでしょうね。
お嬢様が小さい頃は私もお供をしておりましたけれど、確かに広々として立派な邸宅でしたわね」
ヒルダは懐かしそうにそう言った後、改めてミルフィに釘を刺してきた。
「ですからお嬢様も向こうで迷子にならないで下さいね。
そしてもう、二度と知らない人についていってはなりませんよ」
帰って以来、同じお小言を山のように聞かされていたミルフィはちょっぴり頬を膨らませ、「わかっているわ」とすねたように言い返した。




