レオーネは気付く
その晩、レオーネは兄のミゼルの許を訪ねた。
ミゼルは夕食を終え、ちょうど湯あみを済ませたところのようだった。
ゆったりとした黒いバスローブに身を包み、傍らにはレモン水のグラスを盆に載せた侍従長が控えている。
暗い赤褐色の髪はまだしっとりとしていて、完全には乾ききってはいなかった。
「どうした、急に。
ミリィを手放して、人恋しくなったのか?」
唇の端を上げ、からかうように問い掛けてくるミゼルに、「いえ」とレオーネは言葉を濁す。
「兄上にどうしても伺いたい事があって……」
「人に聞かれたくない話か?」
レオーネが頷くと、ミゼルは盆からグラスを受け取り、一気にそれを飲み干した。
空になったグラスを盆に返した後、周囲にいた侍従達に下がれと手で合図する。
波が引くように傍仕え達が部屋を去って行き、広々とした室内にはミゼルとレオーネだけが残された。
「で、何が聞きたい」
「今日、バウアーパークでミリィをタウジ伯爵夫妻に返しました。
その時の夫妻の喜びようが何と言うか……、可愛がっていた愛玩動物が手元に帰ってきたというのとは違って見えました。
生き別れていた娘にようやく会えた、そんな感じの喜び方だったんです」
ミゼルは何も答えない。続きを促すように軽く首肯し、レオーネは再び口を開いた。
「その時にふと、昨日交わしたセバスとの会話を思い出しました。
セバスはミリィについて変な事を言っていました。ミリィはまるで人の会話がわかるようだと。
その時は笑って聞き流しましたが、よくよく考えればミリィは猫としては確かに変でした。
トラ獣人を全く恐れず、平気で近付いてくる。
捕食対象であるネズミや虫を極度に怖がり、どんなにお腹が空いていても生魚には口をつけませんでした。
それに私が話し掛けると、まるで相槌を打つように鳴いてくるんです。まるで人の言葉がわかるように」
「ふうん。それで?」
「宮殿に帰ってから、タウジ伯爵令嬢の正式な名前を確認しました。
名は、ミルルフィーヌ・ヴェルシェ・イメルダ・タウジ。
あの白猫がヴェルと呼ばれていたのは、ミルルフィーヌ嬢のセカンドネームがヴェルシェであったからでしょう」
「……」
「勿論、娘のセカンドネームの愛称をそのまま猫につけたという可能性もあります。
けれどもし、ミリィがただの猫でないのであれば、すべての辻褄が合うのです。
荒唐無稽な話だと、自分でもわかっているのですが……」
「……ミリィがただの猫でないと言うなら、何だと思っているんだ」
静かな声で問われ、レオーネは深く息を吐き出した。
「ミルルフィーヌ嬢は獣人です。
トラ以外の動物に変態する者は今までいませんでしたが、もしかして彼女は猫に変態してしまったのではありませんか?」
ミゼルは逞しい腕を組んだまましばらく無言でいた。
その表情からは一切の感情を読み取る事ができない。
ややあって、それで? というようにレオーネを見た。
「もし可愛がっていたミリィがタウジ家の令嬢だったとして、お前はその事実を受け入れられるのか?
散々ミリィを撫で回し、確か風呂にも入れてやったのだったな。
まあ、今更気持ちが悪いと言われても、どうしてやる事もできないが」
ミゼルの言葉に、レオーネは唇を引き結んだ。
「……ミリィの正体が何であれ、ミリィはミリィです。
温もりに癒されたのは事実ですし、あの子を傍に置く事で、私は気鬱や孤独から解放されました。
もしミリィがタウジ家の令嬢であったとしても、私はやはりミリィに会いたい」
「そうか」
「それに、ミリィも私に懐いてくれました。
パークで捕獲した時は散々嫌がって逃げ出そうとしていたけれど、だんだん私に心を許してくれるようになったのです。
部屋の中で一緒に戯れ、内庭を一緒に散歩しました。私が視察旅行から帰ってきた時、ミリィは待ち詫びていたようにまっしぐらに私の許に駆けてきました。
ミリィの正体が何であれ、一緒に過ごしたあの時間は、私にとってかけがえのないものでした。
今もあの子の事を心から大事に思っていますし、この気持ちが消える事はありません」
ミゼルは表情を緩め、吐息のような笑いを零した。
「……お前の気持ちが定まっているならそれでいい」
それから一つ大きな息を吐き、真っ直ぐにレオーネを見た。
「お前が疑っている通り、あの猫はタウジ伯爵令嬢ミルルフィーヌだ。
家内ではミルフィと呼ばれているが、猫に変態した時に同じ名で呼べば疑念を抱く使用人が出て来る。だからセカンドネームの愛称で呼ぶようにしたと聞いている」
「そうでしたか……」
レオーネはそっと瞳を伏せた。
ミリィが獣人の女性だとはっきり肯定され、ほんの少し心はざわめいたが、思ったほどの動揺はなかった。
女性に対する不信や嫌悪は根強く残っているが、共に暮らしたミリィに対する愛情と愛着に揺らぎはない。
レオーネはそんな自分自身に対し、深い安堵を覚えた。
「お前がミリィに会いたいなら、近いうちに王宮に呼んでやろう。
ただ、お前がミリィの正体に気付いた事については知らせないでおく。
もし伝えたいのであれば、お前の口から話すといい」
「はい」と、レオーネは頷いた。
話を終えたレオーネはそのまま兄の許を辞そうとしたが、踵を返しかけたところで、兄に伝えておくべき事柄があった事を思い出した。
「そうだ、兄上。一つお耳に入れておきたい事があります」
「何だ」
「昨晩、ブルーノ公子が先触れもなしに私の居殿を訪れました」
ミゼルは瞳を眇めた。
「ブルーノ公子が? お前に一体何の用だ」
「昨日の午後、兄上がマリアーナ公妃を居殿に呼ばれたでしょう? あの場に私もいましたから、公妃の様子がどうだったかを探ろうとしたようです」
ミゼルは嫌そうに顔を顰めた。
「あの公子は父同様、ガチガチの保守派だ。
不貞した挙句、レドルス法を復活させて離婚しようと目論んでいる叔父の事がどうにも許せないらしい。
夫の行動にマリアーナ公妃が傷付いているという言葉を、お前から引き出したかったのだろう」
「そのようです。ですから余計な情報は与えませんでした」
「色々なところで動きが活発になって来たな」とミゼルは嫌そうに髪をかき上げた。
「法律を変えるというのは容易な事ではない。
国の今後を思えば、レドルス法の復活もあながち悪い話ではないが、提言者がレジナルド公というのはこれ以上ない悪手だな。
母上が噂を聞き集めた限りでは、かなりご婦人方の顰蹙を買っているようだ」
「それはそうでしょう。
子を授からなかったというだけで、特段の非がない妻を離縁しようとしているのです。義憤を覚えている人間は多いでしょう。
当のマリアーナ公妃はレドルス法の復活を歓迎しているようですが……、さすがに今の空気の中では言えないでしょうね」
「今しばらくは大人しくしておられるだろうな」とミゼルは唇を歪めるように笑った。
「だがそのうち、ご婦人らの同情を集める形で動かれるだろう。
夫の不貞や火遊びに鬱屈を溜めているご婦人は多いから、動きようによっては一気に局面が変わる可能性もある。
そうなれば陛下にも流れは止められない。
国の根幹に関わる問題だから、できれば時間をかけて是非を議論したいのだが……」
兄の言葉に、レオーネは大きく頷いた。
「レドルス法復活の是非はともかくとして、……と言うか、少し関わりがある事かもしれませんが」
レオーネはそう前置きした上で、言葉を続けた。
「私が女性嫌いになった事について、ブルーノ公子から改めて謝罪をされました。
どうやらシャルトーレ公が息子に情報を垂れ流したようです」
「はあっ?」とミゼルは思わず声を上げた。
「あの御仁は何と言うか……。
害がなさそうな顔をして面倒ごとばかりを起こす天才だな」
ミゼルはげっそりとした顔で天を仰いだ。
「同感です。ただこの話には続きがあるんです」
「続きだと?」
「ええ。ブルーノ公子は私に縁談を勧めてきました」
「……相手は誰だ」
「ドルジ伯爵令嬢レイチェルです」
「レミリア公妃の実姪か……」
ミゼルは鼻を鳴らした。
「父親に蔑ろにされているという噂のあの令嬢だな」
「兄上はドルジ家の内情についてどれだけご存じなのですか」
「大した事は聞いていない。
ただ、ドルジ伯爵が後妻を重んじ、後妻との間に生まれた子どもを可愛がっているらしいという噂は、かなり昔から耳にしていた。
だからと言って、噂を鵜呑みにはできん。
レイチェル嬢は十分な教育を与えられているし、身に着けている物も一級品だ。
デビュタントの時には盛大なお披露目をしてもらっていたし、蔑ろにされているという印象は受けなかった」
「私は彼女がデビュタントの時にファーストダンスの相手を務めましたが、野心家で押しが強いという印象を持ったのを覚えています」
「上昇志向が強い人間であるのは確かだな。
社交場でも、自分がレミリア公妃の姪だという事を何かにつけて口にしている」
そう言った後、ミゼルは皮肉っぽく唇の端を上げた。
「で、その令嬢をお前の妃に推挙したいと。
お前が女嫌いになったあの事件をわざわざ謝罪した上でこの縁談を勧めてくるという事は、名ばかりの妃でいいからレイチェルを妻に迎えて欲しいとでも言ってきたか?」
相変わらず勘がいい方だとレオーネは思わず苦笑した。
男でも惚れ惚れするような三角筋と上腕二頭筋を持つミゼルは、周囲から脳筋と勘違いされている。
力に溢れているが行動が単純で、駆け引きや計略が苦手、物事の深読みができないので担ぎ上げるにはちょうどいい神輿だなどと陰口を叩く輩もいたが、レオーネに言わせれば笑止千万だった。
ミゼルはわざと聡明さを隠し、慢心した者達が襤褸を出すのをいけしゃあしゃあと待っている。
そんな腹黒さや計算高さもきちんと持ち合わせていて、国にとっては非常に頼りになる王太子だった。
「おっしゃる通りです。
ブルーノ公子曰く、レイチェル嬢は二年前にデビュタントのダンスの相手を務めた私に一目惚れをしたのだとか。
何とかしてやって欲しいと母妃から散々せっつかれ、ついうっかり、私の事情を母妃とレイチェル嬢に話してしまったと言っていました」




