レオーネとの別れ
馬車に乗った後、レオーネはミルフィをバスケットから出して自分の膝の上に乗せた。
ミルフィはその膝の上で伸びあがり、首筋にぐりぐりと頭をこすり付ける。
レオーネが片手でミルフィの体を支え、片手で頭を撫でてくれた。
もうすぐお別れだと思うとすごく悲しい。
ミルフィはレオーネの胸に頭を預け、ぼんやりと窓の方を見た。
熱が籠らないように、馬車の窓は少し開けられている。
馬車の車輪で巻き上げられる土埃は強い日差しの匂いを孕み、もう七月が来るのだとミルフィに感じさせた。
六月のデビュタントボールで初めて王宮に伺候し、その後、バウアーパークでレオーネに攫われて王宮住まいとなった。
王宮で過ごすうちに王太子妃殿下に関わる陰謀を偶然に知ってしまい、王太子ご夫妻や両陛下、マリアーナ公妃やブルーノ公子といった王族方にもお目にかかる事となった。
ミルフィが攫われてから、政治も大きく動き始めようとしていた。
王太子妃に毒が盛られている事が明らかになった事で、王家は今、全力で陰謀の解明に取り組んでいる。
一方、御前会議ではレドルス法の復活案が発議され、宮廷内は喧々囂々となっているようだ。
この先、モルド国の政は一体どのような方向に動いていくのだろうか。
ミルフィはレオーネの顔をそっと盗み見た。
今までレオーネに婚姻話はなかったが、王族の減少が議題として御前会議に上った以上、このまま婚約者も決めずに過ごす事は許されない。
近いうちふさわしい縁組が決まり、レオーネはそれを王族の務めとして受け入れる筈だ。
しょんぼりと王子の膝の上に丸まった時、ふと横から視線を感じた。
ん? とそちらを見ると、警衛のために同じ馬車に乗り込んでいた筆頭護衛騎士のフェルゼイがちらちらとこちらを窺っていた。
「なおん?」
訝しげに声を上げれば、王子もフェルゼイの視線に気づいたのだろう。
「どうした」とフェルゼイに問い掛けた。
「あ、いえ……」
フェルゼイは口ごもり、少し躊躇った後に口を開いた。
「ミリィ様をバウアーパークで遊ばせる事を反対している訳ではありません。
けれどご存じのように、あそこは広大な公園です」
「……そうだな」
「ミリィ様がはしゃいで走り回られたら、迷子になる危険が高いように見受けられます。
いつもパーク内では護衛のお任を解かれておりましたが、この度はミリィ様を伴っての散策です。
私もご一緒してはなりませんか」
そう言えば初めてレオーネ王子と会った日に、王子が一人で木陰に座っていたのをミルフィは思い出した。
道中の警護のためにフェルゼイはパークまでは従うが、トラに変態できるパーク内では護衛を解いているのだろう。
「お前は来なくていい」
「しかし……」
「必要ないんだ。ミリィは今日、ここで迷子になる予定だから」
「は?」
フェルゼイがぽかんと大きく口を開けた。
「お前には伝えておいた方がいいかもしれないな。
でないと血相を変えて、ミリィの行方を捜し始めそうだ」
レオーネは小さく溜め息を吐き、正面からフェルゼイを見つめた。
「ミリィは今日、バウアーパークで行方不明になる。それはもう、決定事項なんだ」
「それはどういう事でしょう」
「ミリィは飼い猫だったんだ。ある貴族が可愛がっていた猫で、だから今日、パークでミリィを返す手筈になっている」
「……どちらの貴族ですか?」
「知る必要はない」
王子は端的に答えた後、フェルゼイを宥めるように小さく笑んだ。
「トラ獣人に懐く猫は希少だ。この子を欲しがる輩は大勢いるだろう。
だからこの子を守るために情報を伏せる。この子を飼っていた貴族も、そうやってミリィを守ってきた。
私が勝手にパークから連れ帰った時も、彼らが騒ぎ立てなかったのもそのためだ。
だからお前にもその貴族の名は伝えない。
お前がこの子と会うのも、今日が最後となる」
フェルゼイの広い背中が心なしか丸まった気がした。
フェルゼイは泣きそうな顔でレオーネを見つめ、ミルフィに視線を移した。
「最後に……一度だけミリィ様の頭を撫でてもよろしいでしょうか」
レオーネ王子はちょっと嫌そうに顔を顰めた。
「本当は別の奴に触らせたくはないんだがな」
そうぼやきつつ、今回ばかりは仕方ないと諦めたようだ。
自分の膝の上にいたミルフィを抱き上げ、フェルゼイの手に渡してやる。
「ありがとうございます!」
ごつごつとした大きな手がミルフィをしっかりと受け取り、壊れ物を扱うようにそっと頭を撫でてくる。
訓練場での鬼ごっこは楽しかったよとミルフィは心の中で呟く。
お日様の匂いがする地面をあちこち駆け回り、皆がミルフィを追いかけた。
鬼ごっこの鬼になるのは初めてで、大勢のトラに追いかけ回されたらミルフィはビビっていただろうけど、皆が人型だったのでちっとも怖くなかった。
追いかけてくる手を躱して逃げ回ったあのわくわくする時間を、ミルフィはきっと一生忘れる事はないだろう。
「なおん(今までありがとう)」
ミルフィはフェルゼイの顔をしっかりと見つめ、心を込めてそう言った。
馬車の窓越しに、晴れ渡った夏空と真っ白な雲が見える。
家族四人でパークに来た時も、こんな風に空が晴れ渡っていたなとミルフィは懐かしく思い起こした。
けれどあの時とは日差しの強さが違う。
一気に季節を駆け抜けたように、街路樹から零れる陽光は輝きを増して、吹き渡る風にむせるような夏の匂いを感じるようになった。
確かに一つの季節が終わったのだと、ミルフィは思った。
混沌とするこの思いを、他にどう表現していいかわからない。
ただ、童話の中の王子様に憧れて無邪気に笑っていたあの日には、もう戻れない事だけはわかっていた。
「みゃあああああああん!」
懐かしい両親の姿を木陰の下に見つけた途端、ミルフィはレオーネの腕から飛び出して、まっしぐらに二人の方に向かって走っていった。
「ヴェル!」
メリージェン夫人が顔を歪めて走り寄り、胸に飛び込んできたミルフィをしっかりと抱き締める。
その後を遅れて近づいてきたタウジ伯爵が、我が子を抱いた夫人ごと、しっかりとその体をかき抱いた。
「ヴェル! 無事で良かった」
涙にくぐもった声でメリージェン夫人が我が子の名を呼ぶ。
「みょおおおん」
心配をかけてごめんなさい。
ミルフィは母の胸に頭を強く擦り付けた。
そもそも余り離れてはいけないと注意されていたのに、浮かれ切って遠出をした挙句、迂闊にも攫われてしまったのはミルフィの失態である。
翌々日には王太子殿下経由で兄に無事を伝えられたが、その間どんなに二人を心配させてしまったか想像もつかなかった。
しばらくはそのままひしっと抱き合っていた二人と一匹だが、ややあってタウジ伯爵がようやく腕の力を緩めて、ミルフィの顔を覗き込んできた。
「元気でいてくれて本当に良かった。
さあ、ヴェル。私にもその顔を見せておくれ」
ようやく落ちついたミルフィは母の腕の中から父伯爵を見上げ、「なおん」と鳴いた。
両親の顔を見るのは十二日間ぶりだ。
こんなに長く離れていたのは初めてで、人型であれば淑女である事も忘れて泣きじゃくっていたかもしれない。
早く人型になってお話がしたいわと目を輝かせていたミルフィは、ここら辺りでようやくレオーネの事を思い出した。
はっと気付いて後ろを振り向くと、何とも形容しがたい表情でこちらをじっと見ているレオーネと目が合った。
少し呆然としたその様子に、ミルフィは思わず、「みゅう」と小さな鳴き声を上げる。
タウジ伯爵とメリージェン夫人もレオーネ第二王子の存在をようやく思い出し、慌てて身を正して臣下の礼を取った。
深く頭を下げる二人に軽く頷いた後、レオーネは静かに夫妻に声を掛けた。
「あー……、タウジ家の猫とは知らず、勝手に連れ帰ってしまい、迷惑をかけた。
大変遺憾に思っている」
「いえ。こちらこそ、監督不行き届きでした。
殿下の手を煩わせました事、誠に申し訳なく思っております」
レオーネと父親とのそんな会話を聞きながら、さすが王族、軽はずみに謝罪はしないんだなとミルフィは感心した。
遺憾とは、自分が望ましく思っている状態に反していて残念だという意味合いだから、別に謝っている訳ではない。
でも、迷惑をかけた事が遺憾だと言っている訳だから、事実上の謝罪になっている訳である。
殿下は私の事、本気で捨て猫だと信じていましたものね……と、ミルフィは遠い目で心にそう呟いた。
しかも、トラが闊歩するバウアーパーク内に迷い込んだ間抜けな猫という認識だった。
まったく以って、失礼極まりない。
でも攫われてきてからはいつも優しかったなと思う。
いたずらをすると時々「こら」って叱られたけれど、本気で怒られた事はなかった。
時間があればミルフィの相手をしてくれて、居殿内の内庭も一緒に散歩した。
そんな感謝を込めてミルフィが「なおん」と声を上げると、タウジ伯爵と会話を交わしていたレオーネがすっとこちらに視線を向けた。
「家に帰れて嬉しいか?」
「みゅぅぅ」
「そうか。私はお前がいなくなって寂しい」
「みょん……」
そんな風に言われたら、ミルフィはどうしていいかわからなくなる。
困ったようにレオーネを見上げると、「まるで私の言葉がわかるように反応するんだな」とレオーネが寂しげに笑った。
それはミルフィが今まで見た事のない笑みだった。
何だか急に年を取ったような、痛みを堪えながら無理に笑顔を張り付けているようなそんな哀しい笑みで、見ていたミルフィは何だか心が痛くなった。
レオーネがどうしてそんな目でミルフィを見つめてくるのかがわからない。
きっと自分は何か大事な事を見落としている。けれどそれが何なのかはわからなかった。
「みゅう?」
混乱したようにじっと顔を見つめていると、レオーネはふと表情を改めてタウジ伯爵の方を向いた。
「タウジ家のご令嬢が、今度王宮にミリィを連れて来てくれると聞きました」
「はい。息子のイザークが王太子宮に詰めておりますので、バスケットを持って兄のところを訪れるようになるかと」
「そうですか。ではその日を楽しみにしています」
王子の言葉に、タウジ伯爵とメリージェン夫人が会釈を返す。
それに対してレオーネは小さく頷いた後、ミルフィに視線を向ける事もなく踵を返した。
「なおおおおおおん!」
ミルフィは呼び止めるように大きな鳴き声を立てたが、レオーネはびくりと肩を揺らしただけでミルフィを振り返る事はない。
そのまますたすたと去っていった。
「殿下は……気付かれたのかもしれないね」
タウジ伯爵の言葉に、ミルフィは「みゃ(何を)?」と尋ねた。
ミルフィの問いがわかっている筈なのに、タウジ伯爵は何も答えない。
「いや、何でもない。さあ、家に帰ろうか」
大きな父の腕に抱かれ、ミルフィは体に尻尾を巻き付けるようにして目を閉じる。
だんだんと遠ざかっていくレオーネの後ろ姿はどこか寂しげで、ミルフィの脳裏からなかなか消えてくれなかった。




