王宮を去る日
「みょああああああん」
カーテンの布越しに朝日が差し零れる中、ミルフィはくわあっと大口を開けて欠伸をし、唐突に目覚めた。
何だかぽかぽかとしていやに気持ちいい。
いつも顎までかけているバスタオルはなく、代わりに何か温かいものに包まれていた。
あれ? ここはどこ?
見慣れぬ天井を見上げて、ミルフィは目をぱちくりさせる。
目に映るのは豪華な天蓋だ。
真四角な天蓋は白地に金で細やかな刺繍がされ、そこから垂れる薄い紗のカーテンがドレープを作りながら三方を覆っていた。
明らかに貴人の寝所である。ついでに言えば、ミルフィはこの寝室の内装に見覚えがあった。
ミルフィは冷や汗をかきながらおそるおそる横を向き、至近距離でこちらをじっと見つめているレオーネとばっちり目が合って、思わず体を仰け反らせた。
「うにょぉ!」
間抜けな雄叫びを上げたミルフィに、
「おはよう。ミリィ。気分はどうだ?」
レオーネ王子が上機嫌で尋ねかけてくる。
可愛いミリィを抱いて一晩を過ごし、モフ欲が満たされて大層幸せそうだ。
寝起きだけあって、レオーネの髪はやや乱れている。
さらさらとした金髪が額に掛かり、ふっくらとした珊瑚色の唇は僅かに開き、朝から無駄に色っぽかった。
よくよく見ればレオーネの寝衣の襟元が乱れ、逞しい胸板がちらりと覗いていた。
乙女のミルフィには刺激が強過ぎ、私は見ていませんよ~とアピールするためにミルフィは勢いよく壁の方を向いてみた。
令嬢姿であれば、きゃあっと叫んで顔を覆っているところだ。
ところがそんなミルフィの態度はレオーネのお気に召さなかったらしい。
「こら、ミリィ。何を余所見しているんだ?」
少し気だるげな声で囁いてきたレオーネが長い手でミルフィの体を引き寄せる。
そしてぎゅっと胸に抱き込んできたため、結果、半裸の胸に頭を直に押し付けられる形となったミルフィは思わず「うぎゃああああああん!」と悲鳴を上げた。
朝から破廉恥すぎる!
王子の寝所で寝てしまったのは二回目だが、あの時は寝所からさっさと退散させてもらえたので、あまりダメージは覚えなかった。
でも今回のこれは、まるで後朝の別れを惜しむ恋人達の朝である。
これはまずいと、さすがのミルフィにもわかった。
お父様、お母様、ごめんなさい。ミルフィは成人男性の寝室で二回も夜を過ごしてしまいました。
心の中で密かに両親に謝ったミルフィは、レオーネの肌に爪を立てないよう気をつけながらじたばたと暴れまくり、何とか腕の中から逃げ出した。
逃がすまいとするようにレオーネの手が伸びてきたので、ミルフィはすさかずその手を搔い潜ってベッドから飛び降りる。
そして気持ちを落ち着かせるために床でせっせと毛繕いを始めた。
体を丸めてわき腹や首の後ろを嘗め、前足を丁寧に嘗めとってから、首の辺りの毛を後ろ足で撫でつけた。
毛並みが整ううちにだんだんと気分も落ち着いてきて、最後に仕上げとばかりに片方の後ろ足をかぱっと上げて腿の毛を嘗めていたところで、ミルフィははっと我に返った。
おそるおそる顔を上げると、寝台に肩ひじをついたレオーネ王子が面白そうにこちらを見つめている。
「うにょ!」
私、今あられもない恰好をしていなかった?
しかも、よりによって寝台の方を向いて毛繕いをやっていた。
という事は、丸見え……!
ざっと顔から血が引き、ミルフィは慌ててお座りのポーズをとった。
澄ました顔で小首を傾げると、それを見ていたレオーネが耐え切れなくなったように噴き出した。
「朝から元気だな。
まあ、これだけ元気なら、二日酔いの心配はしなくていいだろう」
言われてミルフィは、昨日フルーツをたんまり食べてから、ものが二重に見えたり、足元がふらつくようになったりした事を思い出した。
二日酔いを心配されたって事は、あれが酔っぱらったという事なのね。
貴族令嬢は成人前に酒を嗜む事はない。
先日デビュタントを済ませたミルフィは、これから少しずつお酒に体を慣らしていこうと思っていたところだった。
それがまさか、リキュールに漬け込んだフルーツだけで酔っぱらってしまうなんて、自分でもびっくりである。
まあ、猫に変態していたため、体が小さい分、余計にお酒が回ってしまったのかもしれないが。
レオーネと最後の夜を楽しく遊んで過ごす筈が、いきなり訪問してきたブルーノ公子のせいで台無しになったわとミルフィは心に呟いた。
おまけにブルーノ公子が、自分の従姉妹にあたるドルジ伯爵令嬢を王子妃にと勧めていた事を思い出し、胃の中に小石を詰められたような気分になった。
「なおん」
何だか寂しくなったミルフィは、うるうるとした目でじっとレオーネをじっと見上げ、小さく鳴いてみた。
「ミリィ、どうした」
レオーネがすぐにベッドから降りてきて、床に座り込んでいたミルフィを優しく抱き上げてくれる。
「午前中はいつも通り書類仕事があるが、急ぎの案件だけ片付けて早めに帰ってくる。
今日はミリィとここで過ごす最後の日になるし、午餐まで部屋の中で遊ぼうか」
その約束通り、レオーネは早めに執務を切り上げてミルフィの待つ居間に顔を出してくれた。
手にはセバス特製の猫じゃらしを持っていて、それを見たミルフィは顔を輝かせた。
レオーネは猫じゃらしの使い方がとても上手い。夢中になって二人で遊び、ミルフィの息が切れたところでお遊びはおしまいになった。
ミルフィを抱っこしたレオーネは天鵞絨張りの肘掛椅子に腰を下ろし、ミルフィの顎の下を優しく指で撫でた。
ミルフィはごろごろと喉を鳴らし、レオーネの胸に頭を擦り付ける。
「今日からお前がいなくなってしまうのか……。
お前を帰してやらなければならないのはわかっているが、いなくなったらさぞ寂しいだろうな」
「みゅうぅ」
ミルフィは小さく鳴いて、レオーネの膝の上から室内をゆっくりと眺め渡した。
肌触りが抜群のぺリル産の毛の長い絨毯。
緑がかった灰みのソファーの脚はちょっと短めで、ミルフィが潜りむのにちょうどいい高さだ。
樫の木でできた重厚なマントルピースの上には大きな鏡があって、その左側の壁にはちょび髭のご先祖様の肖像画が飾られている。
最初の頃は、ミルフィがどっちに行っても肖像画の視線が追いかけてくるような気がして怖かったのだけれど、いつの間にかそれにも慣れてしまった。
ミルフィは部屋の隅に置かれた明るい色味の籐のバスケットを見た。
ゆっくりと眠れるようにと、セバスとディールが用意してくれたミリィ専用の寝床だ。
仰向けで寝るのが好きなミルフィはここで夜を過ごした事はなかったけれど、二人の優しい気遣いはとても嬉しかった。
そう言えば初めてここに連れて来られた日の晩、昇天したばかりのドブネズミを献上されたのよねと、ミルフィは懐かしくその日の事を思い出した。
ネズミの次に出されたのが新鮮な生魚で、きゅるきゅると鳴るお腹を抱えながら、しょんぼりとソファーの上に丸まったのを今も覚えている。
今日でこの居殿ともお別れなんだわ。
そう思うと、目に映るものすべてが愛おしく感じられて、ミルフィは込み上げてきたものを呑み下すようにぎゅっと口を引き結んだ。
家に帰れるとわかった途端、この場所が恋しくなるなんて馬鹿だなあとミルフィは思う。
ここには十日ちょっとしかいなかったけれど、優しい思い出が幾重にも上書きされ、すっかりこの場所が好きになっていた。
ミルフィがいなくなった後も、王子は時々私の事を思い出してくれるかしら。
そうであったらいいなとミルフィは心の中で呟いた。
感傷を振り払うように、ミルフィは大きく伸びをした。
うじうじ考えても仕方がない。自分は猫として一生を暮らす訳にはいかないのだから、こことはもうお別れた。
タウジ伯爵家のミルルフィーヌに戻り、本来の自分の人生を生きていく。
それだけの事だった。
「なおん(お世話になりました)」
いよいよ出発の時間が迫り、ミルフィはレオーネの腕の中から、セバスとディールに挨拶をした。
急にミルフィがやってきて、仕事が余分に増えて大変だった筈なのに、二人は迷惑がらずにいつもミルフィの世話をしてくれた。
事情を知るらしいセバスはどこか痛みを堪えた目でミルフィを見つめ、何も言わずにただ優しく微笑んでくれた。
ディールにはまだ、猫のミリィがいなくなる事は説明されていないようだ。にこにことわらってミルフィを送り出してくれた。
今までありがとう。
これだけ可愛がってもらったのに、何も返せなくてごめんなさい。
「みゃおおおおん」
最後にひと声大きく鳴いて、ミルフィはおとなしくバスケットの中に納まった。
蓋が閉じられ、一気に視界が暗くなる。
編み上げの隙間から差し込む薄明かりが、ミルフィが丸まっているバスケットの内部を優しく照らしていた。
何だか寂しくて堪らない。
ミルフィはばらばらになった温もりをかき集めるように体を丸め、尻尾を体に巻き付けた。
別れはあまりにもあっさりとしていて、思い出ばかりがどこまでも優しかった。




