酔っぱらう
この人、いつの間に二人に増えたの……?
ミルフィは目を瞬いた。
見間違いかと目をこすってみたが、やっぱりブルーノは二重のままだった。
殿下。ブルーノ殿下がおかしな事になってませんか?
そう思ってレオーネに視線を向ければ、レオーネも同じように二人になっていた。
あれえ?
ミルフィは首を傾げた。
どうしてこんな事になっているのか、さっぱり意味が分からない。
その間にも、ブルーノはレオーネに向かって必死に言い訳を始めていた。
「そうではなく、レイチェルは本気で殿下を慕っているんです。
母も何とかしてやってくれと毎日私をせっついてきますし、どうかレイチェルを心の隅に留めておいてもらえませんか。
レイチェルは聡明で我慢強い子です。語学も堪能でマナーも申し分ない。殿下の傍に並び立つのに、何の遜色はないと思っております」
レイチェルレイチェルってうるさいわねと、ミルフィは目を眇めて二重にぶれるブルーノを睨んだ。
さっきまでは、レイチェル嬢の気の毒な境遇に同情を覚えていたが、ブルーノがレオーネとの婚約話を持ち出したあたりから、何だか気分がむかむかしてきた。
語学ならミルフィだって得意だもん。マナーだって家庭教師に褒められたもん、と心に呟いて、もんもん煩いなあとミルフィは自分で自分に突っ込んだ。
おかしい。頭がほわほわとして何だか思考が定まらない。
ミルフィはよろよろとテーブルの端に寄り、床に向かってジャンプした。
すたっと着地を決めた筈が、何故か足がもつれてよたよたと尻もちをついてしまう。
んんん?
これはどうした事?
後ろ足をだらんと伸ばし、尻もちをついたままの格好で、ミルフィはぼんやり辺りを見回した。
心なしか床がゆっくりと揺れている。
「殿下が女嫌いだった事は私の早とちりだったと、レイチェルにはよくよく言い聞かせます。このような失態は二度と犯しませんから、どうぞ怒りを鎮めて下さい」
ブルーノが何やらくどくどと言っているが、もう雑音にしか聞こえない。
それよりも床が揺れている事の方が問題だった。
右に左に家具が大きく揺れる。地震でも起こっているの? とミルフィは辺りを見渡した。
「うにゃあ?」
ミルフィは小さく鳴いて、そのまま前に歩き始めた。
ところが今度は体が右へ右へと引っ張られてしまう。そしてそのままこてんと転がった。
ミルフィは首を擡げた。
何だか足に力が入らない。もう一度立ち上がって前に進もうとしたが、さっきと同じように体が右側に引っ張られ、横へ横へと傾いでいった。
「おやぁ。この猫、斜め歩きをしているぞ」
不思議そうなブルーノの声に、そうか、これが斜め歩きだ! とミルフィは拳でもう片方の掌をぽんと叩きたい気分になった。
人生初の斜め歩きだ……などと自分に感動していると、「ミリィ!」と慌てたようにレオーネから名を呼ばれた。
「どうした、ミリィ」
ミルフィを抱き上げたレオーネがミルフィに顔を近付けて、くんと匂いを嗅ぐ。
「え。お前、酒臭いぞ」
「みょおう(こんばんは)!」
レオーネに抱き上げられ、ミルフィはあっという間にご機嫌になった。
右前足をすちゃっと上げて挨拶をすると、何故かレオーネが凍り付く。
それからはっとしたように空になったガラスの器を鼻に寄せ、「しまった。リキュール入りか……」と額を押さえた。
「セバス!」
レオーネは焦った声でセバスを呼び、すぐに湯冷ましを持ってくるように命じた。
「とにかく、体の中のアルコールを薄めてやるしかない。
ミリィ。いい子だから水を飲んでくれ」
場にはディールも駆けつけてきて、大騒ぎとなる。
気まずそうに席に座っていたブルーノは、これ以上ここに居てもまともな話はできないと踏んだのだろう。
レオーネがミルフィに気を取られている間にもごもごと挨拶し、そそくさと戸口から出て行った。
「なおおおおん!」
逃げるように去って行ったその後姿をふんとばかりに見送って、高らかに勝利宣言を上げるミルフィである。
これでやっと邪魔者が帰りましたね! とどや顔でレオーネを見上げたが、レオーネの眉間の皴はそのままだった。
何が不満なのかしらと思っているうちに、不意にふわあっと欠伸が口をついて出た。
頭がかくんと落ちかけて、ミルフィは眠気を飛ばそうとぶるんと首を振る。
あっ。完全に目が回った。
自分で自分にとどめを刺したミルフィは、ぐったりとレオーネの胸に頭を預けた。
「食べたのは二皿分なんだが、そんなに酒が強かったのか?」
問われたセバスは、いいえと否定した。
「こちらで味見はしましたが、さほどアルコール分の高いものではありませんでした。
体が小さいので、余計に堪えたのかもしれません」
「みょみょおん(ご心配なく~)」
ミルフィはていっと前足を上げた。
それよりもブルーノ公子を追っ払った事を褒めていただきたい。
ミルフィはふんぞり返ろうとしたが、思うように頭が持ち上がらなかった。
「完全に酒が回っているな。
可哀そうに。二日酔いにならなければいいのだが」
ディールが持ってきてくれた湯冷ましを、ミルフィはちびちびと飲んだ。
眠たいだけで別に気分は悪くない。それに大層気分が良かった。
やがて、ミルフィが落ち着いたのを見てディールは下がっていき、部屋にはミルフィを見つめるレオーネとセバスだけが残された。
レオーネの手が優しくミルフィの背中を撫でている。
「殿下。兄君のところで何かありましたか」
ややあって、セバスが口を開いた。
セバスはレオーネが幼少の折から仕えている侍従だ。王太子宮から帰ってからレオーネの様子がおかしいととうに気付いていたのだろう。
そんなセバスを見て、レオーネは降参したように吐息をついた。
「セバス。ミリィと過ごせるのは今日が最後なんだ」
「それはどういう……」
「ミリィは別の貴族の飼い猫だった。今日の昼、兄上からそう言われた」
「……どちらの家で飼われていたのですか?」
「タウジ伯爵家だ。兄上の護衛騎士の中にイザークという貴族令息がいただろう? ミリィはその家の飼い猫で、家族からヴェルと呼ばれていたらしい」
セバスは合点がいかぬというように僅かに首を捻った。
「何故今日になってその事が伝えられたのでしょう。
ミリィ様が王太子殿下の居殿に行き、両殿下と顔を合わせたのはもう何日も前の話です。
王太子殿下付きの護衛騎士ならば、連れて来られたミリィ様がすぐに自分の家の飼い猫だと気付いた筈ですが」
「私があまりにもミリィを可愛がっていたから、その場で言い辛かったと説明された」
レオーネはミルフィの首の下を人差し指でそっと撫でた。
「最初は信じなかったし、信じたくもなかった。
だけど、イザークがミリィに向かって、ヴェル、おいでと声をかけたら、ミリィが名前に反応したんだ。
申し訳なさそうに私の方を振り返り、それからイザークのところにまっしぐらに駆けて行った」
「……」
「腕の中に飛び込んできたミリィをイザークは慣れた手つきで抱きとめた。
普通の獣人は小動物に懐かれる事に慣れていない。
あんな風に胸に飛び込まれたら過剰な反応をするものだが、イザークは当たり前のようにミリィを抱き上げて頭を撫でていた。
だからイザークの家の飼い猫だとすぐにわかった」
セバスはしばらく黙っていたが、ふと思い出したようにレオーネに問いかけてきた。
「あそこには確か、ご令嬢がいらっしゃるのではありませんでしたか?」
何の脈絡もない言葉に、レオーネが訝しげに目を細めた。
「ああ、妹が一人いる。先日、デビュタントボールに参加していて、ファーストダンスの相手を私がした。……何故、そんな事を?」
「少し気になっただけです。タウジ伯爵夫人は希少な白虎であったとお聞きしておりますが、ご令嬢もそうなのでしょうか」
「さあな。ただあの令嬢は、母君と同じで白銀に近いプラチナブロンドをしていた。だからそうなのかもしれないな」
「名前は何とおっしゃるのですか?」
「いやにタウジ家伯爵令嬢が気になるんだな」
レオーネ王子は思わず苦笑いした。
「ファーストネームはミルルフィーヌだ。セカンドネーム以下は覚えていないが……」
「そうですか……」
セバスは考え込むように視線を伏せた。
「このままミリィに会えなくなるのは嫌だと言ったら、兄上が責任を持って機会を作ってやると約束してくれた。
タウジ家のご令嬢がバスケットにミリィを入れて兄のイザークを王宮に訪ね、イザークが兄上の許に連れてくる運びになっている」
「飼い猫のためにご令嬢がわざわざ王宮に足を運ばれる訳ですね」
「ああ。ご令嬢には手間をかけて申し訳ないとは思うが、それが一番目立たないやり方だ」
「そうですか」
ミルフィはうとうとしながら、レオーネとセバスの会話を聞いていた。
「……殿下。ミリィは猫らしくないと思った事はありませんか?」
「一般的な猫を知らないから何とも言えないが……。そうだな。トラ獣人を恐れない猫は初めて見た」
「ミリィ様はネズミの死骸を見て悲鳴を上げられました。それに、生魚もお嫌いです。
虫も大層苦手でいらっしゃり、訓練場でカマキリを見た時は、パニックになって暴れ回り、リードが体に巻き付いたと報告を受けています」
「ああ。ミリィは大層なビビりだ。飼い猫で良かったと心底思うよ。あんな怖がりでは、野良では到底生きていけないだろう」
「そうですね。ミリィ様を見ておりますと、手を掛けて育てられたというのがよくわかります。
それにミリィ様はトラ姿の殿下を見ても驚きませんでした。その時に強い違和感を覚えたのを今でも覚えております。
人の顔色を窺う事も上手で、私は時々、ミリィ様は人間の言葉がわかるのではないかと思ったものです」
もしかしてセバスはミリィが獣人かもしれないって疑っているのかしら。
まさかね……と思いながら、ミルフィはレオーネの胸の中であくびをした。
「人の言葉がわかる……か。随分突拍子もない事を思いつくんだな」
レオーネが苦笑し、
「愚にもつかぬ事を申し上げました」とセバスが頭を下げた。
頭を撫でる手が気持ち良い。
ミルフィはレオーネの胸にぐりぐりと頭を擦り付け、一番居心地の良い場所を見つけて顔を埋めた。
レオーネからは深い森林を思わせる清浄で爽やかな香りがする。
毎日レオーネと一緒にいたから、ミルフィはすっかりこの匂いに慣れてしまった。
この腕はミルフィを裏切らないし、あらゆる危険からミルフィを全力で守ってくれる。
ずっとこの香りに包まれている事ができたらいいのにと、ミルフィは夢現でそんな事を心に呟いた。




