不愉快な提案
ブルーノはグラスのステムを三本の指で持ち、グラスを一気に傾けた。
部屋の隅で控えていたセバスが静かに歩み寄り、テーブルに置かれたグラスに新しいワインを注ぎ入れる。
「子は授かりもので、マリアーナ公妃に瑕疵はありません。法を変えてまで離婚を強行しようなど、クロウ叔父上には本当に困ったものです」
うんざりとした口調でブルーノが言い、そう言えばレジナルド公はクロウ・デメトリアスと言う名前だったわねと、ミルフィはぼんやり思い起こした。
クロウはともかく、デメトリアスって何だか変わった名前だなと思ったからよく覚えている。
「若い頃遊んでいた者は結婚すると落ち着くと母が言っておりましたが、叔父上の女癖の悪さは結婚前も結婚後も変わりません。
浮気だけならまだしも、ここまで話を大事にするとは思ってもおりませんでした」
いや、浮気だって十分ひどいでしょとミルフィは心の中で呟いたが、それより今は目の前に置かれているデザートの方が気になった。
器の中に、苺にブドウ、オレンジや、キウイといった果物のシロップ漬けがすっきりと盛られていて、まるで果物の宝石箱のようだ。
客人よりも先に手を出す訳にはいかないと思い、さっきからずっと我慢していたのだが、二人はワインを楽しむばかりでデザートには目もくれない。
艶々とした果物を見ていると口から涎が垂れそうになり、ミルフィはごくりと唾を飲み込んだ。
令嬢ならこんな時は我慢すべきだけど、猫ならば先に食べたっていいんじゃないかしら。
そう結論付けたミルフィは、果物が盛られた貝殻の形をしたガラス器に鼻先を近付けた。
どうやらシロップにはレモンリキュールが使われているらしい。
甘く爽やかな香りがふわりと鼻をくすぐり、我慢できなくなったミルフィは手前のオレンジにかぶりついた。
明るい夏を思わせるようなレモンの香りが口いっぱいに広がる。オレンジも糖度が高く、その美味しさにミルフィはうっとりと瞳を細めた。
嗚呼、何て美味しいの……!
思っていた以上にリキュールの匂いがきつかったが、甘味との相性が抜群だ。ミルフィは夢中になって次の果物に口を近付けた。
元々ミルフィは果物に目がない方だし、使われているフルーツはどれも完熟していて甘みも抜群である。それにシロップの仄かな甘みとリキュールの持つ芳醇な香りが加わって、まさしく至福の味わいだった。
あっという間に自分の分を食べきったミルフィは顔を横に向け、もの欲しそうにレオーネの前の器を見つめた。
ブルーノは相も変わらずワインを片手にレジナルド公への愚痴を垂れ流していて、レオーネは辛抱強くその言葉に耳を傾けている。
ミルフィが皿の方をじーっとしつこく見ていると、ようやくその視線に気付いたレオーネが、「これも食べるか?」と言って、自分の器をミルフィの前にずらしてくれた。
やった!
ミルフィは大喜びで器に顔を突っ込んだ。
今度は一粒一粒じっくりと味わい、至福の時間をできるだけ引き延ばす。
時間をかけて全部を食べきったところで、次はブルーノ殿下の分ももらえないかなと横目でちらりと確認したが、ブルーノの器はいつの間にか空っぽになっていた。
絶品のデザートはやや張り出しているお腹の中に消えていて、あーあと天を仰ぐミルフィである。
壁時計の方を見たレオーネが、「そろそろ夜も更けてきましたね」と暗にブルーノに退室を勧めた。
一通り愚痴も聞き終わり、もう十分だと思ったようだ。ちらりとミルフィの方に目をやったところを見ると、一刻も早く邪魔な客を帰らせてミルフィと遊びたいのかもしれなかった。
ミルフィも同じ気持であったので、どうぞお引き取りをという風に右前足をドアの方に向けてみたのだが、ブルーノは一向に席を立とうとしない。
酒で少し赤らんだ顔のまま、あーとかうーとか口の中でもごもご言っていたが、ややあって意を決したように前方に身を乗り出してきた。
「殿下……。そのアマーフィエの件ですが……」
アマーフィエというと、六年前にレオーネに夜這いをかけたという例の侍女だ。
ミルフィは思わず息を呑み、レオーネもまた不快そうに眉間にしわを寄せた。
「随分昔の話を蒸し返されるのですね。
申し訳ないが、今更その話をしたくありません」
「存じ上げています。父もあの女を王女殿下の侍女に推薦した事を今も深く後悔しています。まさかあれほど愚かな真似をしようなどとは……。
殿下が未だに婚約者を決めようとなさらないのも、あの女のせいであるのでしょう。
謝っても謝り切れないと、父がよく私に言っておりました」
レオーネの顎が強張った。
例の一件については緘口令が敷かれた筈だが、シャルトーレ公はおそらく事の真相を知っている。その上、迂闊にも息子にまでその情報を喋ってしまったのだ。
「お父君から何を聞かれたかは知りませんが、すでに終わった話です。
謝罪はすでにいただいておりますし、今更、聞きたい名前でもありません。
済まないと思う気持ちが少しでもあるのでしたら、その話はご遠慮願いたい」
「そうではあるのですが……」
ブルーノの物言いは緩慢で、歯切れも悪い。
そのまま黙り込んでしまったので、酔いで眠くなったのかしらとミルフィがブルーノの顔を見ていると、ブルーノは唐突に昔話を始めた。
「殿下。私の母には十七年前に亡くなった妹が一人おります」
「……そうですか」
「私にとっては叔母に当たる女性ですが、彼女は少し困った性癖を持っておりました。
母に対する対抗心が強く、母がシャルトーレ公妃となると決まった時には散々妬まれたと聞いています。
その後彼女は名門のドルジ伯爵家に嫁いでレイチェルという長女を産んだのですが、生憎、その時の産褥が原因で亡くなってしまいました」
ブルーノが何を話したいのかさっぱりわからない。
レオーネは膝の上で手を組み、ブルーノの真意を探るように瞳を眇めた。
「独り身となったドルジ伯爵はその一年後、舞踏会で出会った貴族令嬢と恋に落ちて後妻に迎え入れました」
「現在のレビナ夫人ですね」とレオーネが頷いた。
「獣人の男子を二人もうけたと聞いています。これでドルジ伯爵家も安泰でしょう」
「その通りです。ですが……」
と、ブルーノはそこでひくっとしゃっくりした。かなり酔いも回っているらしい。
「殿下。レイチェルは不憫な娘なのです。ドルジ伯爵は政略で迎え入れた前妻には大した思い入れがなかった。
一方の後妻は自分が見初めて家に迎え入れた女性です。だからどうしても、生まれた子ども達への愛情に温度差がありました」
「レイチェル嬢が虐待されていたとでも?」
そう尋ねたレオーネに、ブルーノは慌てたように手を振った。
「虐待と言えるような事はされていません。ただ、父親の愛情はすべて後妻の子どもにいき、後妻も先妻の娘に愛情を持てなかった、それだけの話です」
そう言って、ブルーノは再びグラスのワインを口に運んだ。
話を聞いていたミルフィは、シャルトーレ公妃レミリアやその妹君について、母や叔母が言っていた事を思い出した。
レミリア公妃は大層気が強く、プライドが高いお方だが、亡くなった妹君も同じような性格の持ち主であったらしい。
王族に嫁いだ姉と異なり、妹に用意されたのは伯爵家との縁談であったため、その妹君は結婚当初から夫を見下し、夫婦仲も最悪であったと聞く。
その妻が生んだ娘をドルジ伯爵が可愛がるとは考え難く、赤子の頃に母を失ったレイチェルという令嬢は確かにつらい生い立ちをしていたのかもしれなかった。
妻との関係がどうであれ、自分の子にはきちんとした愛情を注げばいいのにね……とミルフィが心の中で呟いたところで、ブルーノが再び口を開いた。
「レイチェルは二年前に社交デビューをしています。
その時は殿下にダンスを踊っていただいたのですが、殿下は覚えておいでですか?」
「ダンスの相手を私がした事は覚えています。シャルトーレ公妃から直々に頼まれましたから。
会話の内容はさすがに忘れましたが、とても積極的な女性であったと覚えています」
レオーネは女性から迫られる事に不快を覚えている。
だからいい印象は抱かなかったのだなとミルフィはすぐに気付いたが、酔っていたブルーノはその微妙な言い回しに気付かなかったようだ。
上機嫌で言葉を続けた。
「殿下が覚えていると知ったら、レイチェルはさぞ喜ぶ事でしょう。
あの日以来、レイチェルはずっと、殿下に叶わぬ恋を抱いておりましてね。
母にとってもレイチェルは亡き妹の忘れ形見です。父親や継母から粗略に扱われていると聞けば、いよいよ守ってやらねばという気になったようです」
話の流れの先がわかったのだろう。
レオーネが警戒するように唇を引き結ぶのがわかった。
「母がレイチェルを度々居殿に呼んで、何とかしてやって欲しいと私に頼み込んでくるものですから、私もつい口を滑らせてしまったのです。
殿下は強い女性嫌悪症を患っていて、結婚など到底無理な願望なのだと」
酔っていたからという理由で許されるような発言ではなかった。
レオーネの体からぶわりと怒気が立ち上り、ミルフィもまた、その場に凍り付いた。
この公子殿下は、自分がどんなに不敬な発言をしたのか気付いていないのだろうか。
無礼であるという以上に問題なのが、レオーネがモルド国で王位継承権第二位の王子殿下だという事だった。
その王子が女性を苦手としていて結婚も難しい状態であるなど、軽々しく口にしていい言葉ではない。
レオーネは感情を抑えるように大きく息を吐き、ブルーノを真っ直ぐに見つめた。
口元の笑みはまだ消えていない。
ただ、纏う空気が大きく変わった。
「勝手な憶測で私を侮辱するのは止めていただこう。それ以上妄言を口にするようなら、こちらにも考えがある」
「殿下。お間違えなきよう。
私どもはこの一件を他言する気は毛頭ありません。
殿下が妄言だと言われるのであれば、それを認めましょう。けれど、レイチェルの言葉だけはお聞き下さい。
彼女は言ったのです。私はお飾りの妃でも構わない。子までは望まないと。
正妃として殿下の傍に侍る事が許されるならそれで十分だと私に頭を下げてきたのです」
レオーネは怒りに顔を白くさせて口を開こうとしたが、ブルーノは口を挟む隙をレオーネに与えなかった。
「レイチェルは家族の愛情に飢えて育った娘です。だから多くを望んでおりません。
その覚悟を知って、私は悪くない話かもしれないと思うようになりました。
殿下が未だに婚約者を立てない事で、良からぬ噂が立ち始めております。その噂を払拭するためにも、レイチェルと婚約する事は殿下にとって利になるのではないかと。
殿下。ドルジ伯爵家は家柄も悪くなく、無派閥です。王太子殿下の立場を脅かすような高位貴族でなく、王子妃の条件を満たしている。
シャルトーレ公の義姪にも当たりますから、殿下との仲がどうであれ、宮廷内で蔑ろにされる事もないでしょう」
言いたい事をすべて言い終わり、口を噤んだブルーノを、レオーネは険しい目で暫く見つめていた。
張り詰めた静寂が続き、ややあってレオーネが静かに口を開いた。
「今の話は聞かなかった事にしよう」
なかった事にされては堪らないと思ったのだろう。
思わず口を開きかけたブルーノをレオーネは強い視線で黙らせた。
「私が女性嫌いである事を前提にして、それを我慢できる女性を宛がいたいという殿下のご配慮は十分に理解した」
事ここに来て、レオーネが激怒している事にようやく気付いたのだろう。
ブルーノは面白いほどに狼狽え、必死に弁明しようとした。
「え。あっいやっ、その……私の言葉が足らないせいで殿下にとんでもない誤解を……!」
ブルーノはそのままがばっと頭を下げた。
酔っていたせいで目算を誤まったのだろう。テーブルにごいんと額を打ち付け、ミルフィが乗っかっていたテーブルが揺れた。
ブルーノはおでこを押さえて悶絶したが、食べ終わった後の器をいじましく嘗めていたミルフィも、器と一緒にぐわんと頭を揺さぶられて結構なダメージを受けた。
嘗めきれていないシロップが顔のあちこちについてしまい、仕方なく舌を伸ばして毛についたそれを嘗めとる。
身ぎれいにしてから、未だにおでこを押さえているブルーノをきっと睨んでやったのだが、何故かそこにブルーノ殿下が二人いた。




