パークで王子を見つける
という事で、話はミルフィが攫われた日に遡る。
六月のその日、空は遠く晴れ渡り、爽やかな初夏の風が木立を優しく揺らしていて、まさに絶好のピクニック日和だった。
ミルフィはこの日、朝から浮かれ切っていた。
ここひと月、デビュタントの準備で慌ただしい日々を送っていたが、先日王宮で無事に社交デビューを果たし、ご褒美にバウアーパークに連れてってもらえる事になっていたからである。
王太子殿下の護衛騎士をしている兄のイザークもこの日に合わせて休暇を申請してくれ、家族四人でパークに行ける事がミルフィは嬉しくて堪らなかった。
このバウアーパークは、王侯貴族が家族や恋人、あるいは友人と気ままな散策を楽しむために作られた公園だ。
国内では最大級の広さを誇り、大きな林が三つと池が七つ配されていた。
このパークでは獣化して自由に園内を駆け回ってもいいし、人姿でピクニックを楽しんでも構わない。
ただ、ここは王家が直轄する公園であるため、入園にはパークの管理事務所への事前申請が必要だった。
バウアーパークに来た貴族らはまずパークの管理事務所を訪れ、広々とした外縁に点在する形で作られたコテージの鍵を受け取るようになる。
その後、指定されたコテージまで馬車で向かい、そこから入園するという流れになっていた。
因みに、管理事務所が便宜上コテージと呼んでいるこの建物は、厳密に言えばコテージではない。
宿泊を目的としていないため寝室はなく、獣化するための更衣室が二つと暖炉付きのこじんまりとした居間、そしてトイレがあるだけだった。
ただ、内部は管理事務所によっていつも清潔に整えられていて、薪や火口箱ばかりでなく、ワインボトルやグラスなども備え付けられていた。
さて、母と一緒に女性用の更衣室に向かったミルフィは、扉が閉まるなり、待ちきれずにその場で獣化した。
トラに変態する両親や兄と違い、ミルフィは変態前に服を脱ぐ必要がない。
くたくたと床に落ちたドレスの襟部分から頭を出せば、お出かけの準備はそれで完了だった。
鏡の前でちょこちょこっと毛づくろいしたミルフィは、ドレスの前ボタンを外し掛けていた母のメリージェン夫人の方を振り向いて、「みょおおん(もうお出掛けしていい?)」と声を上げた。
一旦変態してしまえば、人間の言葉は理解できても喋る事はできない。
鳴き方で何となく意味は通じるが、完全な意思疎通はできず、それが不便と言えば不便だった。
鳴き声の方を向いたメリージェン夫人は、お出掛けを我慢できずに前足を交互にふみふみと動かしているミルフィを見てくすりと笑いを弾ませた。
「行ってらっしゃい、ヴェル。
自分で降りられないような高い木には登らない事。それから池や湖には近付かないでね。貴女は泳ぎが得意じゃないんだから」
猫姿の時はヴェルと呼ばれているミルフィは、元気よく「なおん」と母に返事をした。
そしてそのまま、獣用の入り口から駆け出して行った。
初夏の風には爽やかで甘い花の香りが混ざっている。
ミルフィはまず花が咲き乱れる花壇へ駆けて行き、甘い蜜の匂いを存分に楽しんだ後、その向こう側に広がる林の方へ足を向けた。
吹き渡る風がミルフィの毛をそっと撫でていく。
ミルフィは瞳を閉じ、生命の息吹を感じさせる草いきれを存分に肺に吸い込んだ。
家の庭園も悪くはないけれど、広々としたバウアーパークにはここにしかない独特の開放感がある。
ひとしきり木立の中を探検し、これぞと思う木に体を擦り付けた後、ミルフィは徐に毛づくろいを始めた。
猫姿になると、何故かこれをしないと落ち着かない。
前足を丁寧に舐め、それから前足でせっせと顔を拭く。それから背中部分やお腹を丁寧に舐めていった。
毛づくろいを終えて落ち着いたミルフィは、今度は何をしようと考えた。
木漏れ日が揺れるこの場所でしばらく転寝するのも楽しそうだけど、今日はせっかくパークまでやって来たのだ。
寝ていたらあっという間に時間が経ってしまいそうで、それも何だかもったいない気がする。
そうしてミルフィはパークの探検を続けていったのだが、後もうちょっと後もうちょっと……と足を延ばすうち、思った以上に遠くに来てしまったらしい。
立ち止まったミルフィは、これはまずいかもと少し慌て始めた。
ミルフィは帰巣本能があまり高くない。
本気で迷子になったら、両親や兄が見つけてくれるまで広いパーク内をさまよう羽目になりそうだ。
うろうろと辺りを見渡していた時、ミルフィはふと、一際枝を茂らせた大樹の陰で一人の青年が座っているのを見つけた。
大きな幹に背を預け、退屈そうに空を見上げている。
どうせ知らない相手だろうなと思いつつ、その顔を何気なく見たミルフィは、次の瞬間、うげっと声を上げそうになった。
第二王子のレオーネだ。
先日のデビュタントの時、お義理で踊ってもらったから、ミルフィは顔をよく覚えていた。
モルド国の王族は総じて美形だが、この王子だって負けてはいない。
目は切れ長で鼻筋はすっと通り、とにかく目鼻立ちのバランスがとても良かった。
面長の顔を柔らかな金髪が縁どっていて、瞳は神秘的な緑色をしていた。
ミルフィも初めて王子を見た時はその精悍さに思わずくらっとなってしまったが、いいのは外見だけだった。
今のミルフィにとって、第二王子はとにかくいけ好かない嫌な奴だ。
王族に対して不敬極まりない言葉ではあるが、心で思っているだけなので許してもらおう。
王太子殿下や他の王族の方はきらきらとした笑顔を振りまいているのに、第二王子だけはどうしてああも不愛想なのだろう。
ミルフィは心の中でぶつぶつと文句を言った。
デビュタントボールで対峙した時、こっちは本当の意味でのファーストダンスで緊張しまくっているのに、この王子はそうした令嬢に対する気遣いを微塵も見せなかったからだ。
儀礼的に二言三言話しかけてもらえたが、顔にはでかでかと『これは義務です!』と書かれていて、ミルフィは大いに傷付いた。
初めての王宮で、一世一代のデビュタントであったのに、あまりに悲しいダンスの思い出となった。
ミルフィの心を折ったその王子はと言えば、片足を軽く曲げる形で腰を下ろし、その膝の上に頬杖をついてぼんやりと何か呟いていた。
その無駄に美々しい容姿で腐るほどにモテまくり、人生を謳歌している筈の王子様が一体何をそんなに悩んでいるのだろう。
ミルフィはどうしてもその理由が知りたくなった。
普段なら、猫姿のミルフィは家族以外のトラや見知らぬ人間には決して近付かないのだが、この場合は、猫の好奇心が勝ってしまった。
非常に愚かな行動であり、後にミルフィはこの軽はずみな行動を幾度となく反省するようになる訳だが、この時はそうした未来を全く想定しなかった。
そして、慎重に距離を詰めていったミルフィの耳に聞こえてきたのは、予想を裏切る苦々しいぼやきだった。
「結婚なんか無理だ……」
この尊大王子様に結婚話なんて出ていたの? とミルフィは俄然興味を引かれ、一生懸命聞き耳を立てた。
「王族の義務って言われても無理なものは無理なんだ。誰が相手でもきっと我慢できない。
私に嫁がされる女性も可哀そうだ。お飾りの妻に仕立て上げられて、周囲からは子を早く生めとプレッシャーをかけられる。
不幸にするとわかっていて、話を進める訳にもいかないし……」
どうやら特定の相手はまだ決まっていないらしい。
それにしても結婚の何がそんなに嫌なんだろうかとミルフィは首を傾げ、無意識に足を一歩前に出していた。
ちょうどその場所に落ち葉に隠れた窪みがあったらしく、体勢を崩したミルフィはがさりと大きな音を立てた。
「誰だ!」
怒号と共にトラの強い殺気をぶつけられ、ミルフィは場に凍り付いた。
一方、ぎっとそちらを睨みつけたレオーネは、前足を軽く持ち上げた状態で固まっている小さな白猫を見つけてぽかんと口を開けた。
「え。猫……?」
「な、なおん!」
ミルフィはここぞとばかりに鳴き声を上げてみた。
ここにいるのは猫です。決して人間ではありませんとアピールするためだ。
「……何でこんなところに猫がいるんだ」
家族とピクニックに来ただけです、とミルフィは心の中で答えた。
でもって、虫が好かない王子が落ち込んでいる様子にものすごく好奇心を刺激され、つい近寄ってしまいました。
……などと考えているミルフィをしげしげと見つめ、レオーネは本気で首を捻っていた。
「バウアーパークに何で猫が紛れ込むんだ。
トラがいるようなパークに小動物は普通は近付かないだろ?
お前の生存本能はどこに行った?」
兄と同じような事を言うんだなとミルフィは思った。
とはいえ、兄の方は運動神経のなさを嘆いての言葉であり、この王子の言葉とは若干ニュアンスが違う。
「猫はいいよなあ。何にも考えてなさそうで」
「みゅ!(失礼な!)」
ミルフィだって悩みの一つや二つは持っている。と言うか、そもそも猫に変態してしまう事こそが、ミルフィにとっての目下最大の悩みだった。
「まるで私の言葉が聞こえるように反応するんだな」
レオーネは堪えきれなくなったように噴き出し、それからあーあというように大きく一つ伸びをした。
「お前に言ってどうしようもない事だが、もうすぐ私の結婚相手が決まりそうなんだ」
さようですかとミルフィは心の中で答えた。
まあ、この王子様は確か十八歳の筈なので、そろそろ婚約者が決まってもおかしくない。
兄君のミゼル王太子は、王国内で力を持つアルギ辺境伯の令嬢と三年前にご結婚された。
二人がご婚約されたのは王太子が十七歳の時で、レオーネ王子はすでにその年齢を超えている。
王家に獣人の男系男子が求められている中、第二王子に未だに婚約者がいないという事の方がむしろ不自然だった。
「私は第二王子だから、よほど身分の低い家の娘でない限り、好きに選んでいいと言われていた。
でも一向に相手を決めないものだから、父上ももう待てないと思われたようだ。
父上に王位継承権のある弟はいないし、兄上も結婚して三年が経つのにまだ子が生まれない。
お前も王家の一員として、次代に血を残せと言われてしまった」
レオーニはそう言って、はあっと重い溜め意をついた。
「父上のおっしゃる事は尤もなんだけど、私は結婚したくない……」
「みゅぅ(どうして)?」
「女が嫌いなんだ。気持ち悪い」
「みゃおおお!?(じゃあ、男が好きなの!?)」
「……勘違いするな。別に男の尻が好きなわけじゃない」
不思議だ。ちゃんと会話が成立しているとミルフィはちょっと感動した。
もしかすると、この王子様とミルフィの思考パターンは結構似ているのかもしれない。
「女の体には興味があるんだ。ちゃんと女で欲情するし、体的には正常だ」
「……」
いや、そういう生々しい話はちょっと遠慮したいです……とミルフィは露骨に顔を背けた。
ミルフィが聞いていい類の話ではないし、そういう事は宮廷医に相談した方がいいのではないだろうか。
「心的外傷だと宮廷医に言われた」
これまたミルフィの心の声に答えるように、レオーネがぽつんと呟いた。
「十二の時に猥褻な行為をされたために、心の奥の深いところが傷付いているんだと。
……私に手を出してきたあの女官の事、本当に信頼していたんだ。
姉上の腹心だったし、私も第二の姉のように彼女を慕っていた。
まさかそういう性の対象として私を見ているなんて、考えた事もなかった」
猥褻行為……。
という事は、兄様が言っていた夜這いをかけられた男の子ってレオーネ殿下の事だったんだとミルフィは愕然とした。
兄様は噂半分という感じで話していたけれど、どうやら本当に本当の話であったらしい。
「その時は半分寝ぼけていて、よく覚えていないんだ。
でも、妙に汗ばんだ胸を顔に押し付けられて、胸や腹の辺りを舐めまわされたのは覚えている」
うわあ……とミルフィは仰け反った。
気持ちよく眠っていたところに成人した異性が忍び込んできて、いきなり体を弄られたり、舐められたりするなんて、考えただけでぞっとする。
しかも信頼していた女官であれば、混乱はいよいよ深かった筈だ。
そりゃあ、心に深い傷も負うわよねと、ミルフィは初めてこの王子様に同情した。
「あれ以来、家族以外の女性が駄目なんだ」
膝に顔を埋め、くぐもった声でレオーネは続けた。
「それまでは普通に女官が着替えを手伝ってくれていたけど、あの日以来、他の女官にも嫌悪感を抱くようになって……。
だから世話係は全部侍従に変えてもらった。
舞踏会でのダンスも私にとっては最悪なんだ。女と手を取り合い、近い距離で見つめ合わないといけないだろ。
考えただけでぞっとする。嫌悪感を顔に出さないようにするのが精いっぱいで、本当は近付くのも嫌だ。
だから社交デビューしてから、自分からは誰もダンスに誘っていない」




