ミルフィはちょっぴり運動音痴
という事で、ミルフィが猫に獣化するという事実は固く秘される事になった。
秘密を知っているのは両親と兄の三人、それにタウジ家の忠実な家令ランツィとミルフィ付きの侍女のヒルダだけだ。
人型が取れるようになったミルフィは、これでようやく母方の祖父母のところに遊びに行けるようになり、大喜びした。
半端者の姿では、どこにも行く事ができなかったからである。
母の実家アマンテ家はタウジ家と同じ伯爵家だが、建国時には王から盾を賜ったという逸話を持つ名門で、件の盾は城とも見紛う大邸宅のエントランスホールに堂々と飾られている。
王都中心部から少し離れた場所に馬鹿でかい屋敷を構えていて、邸宅の前方には噴水やガゼボのある広々とした庭園があり、邸宅の裏側にはこれまた広大な林が広がっていた。
ようやく完全な人型をとれるようになったミルフィは、両親と兄に連れられてアマンテ伯爵家を訪れ、母を溺愛する祖父母に初お目見えした。
何かあった時のために、メリージェン夫人は両親にミルフィが猫に変態した事を伝え、アマンテ伯爵夫妻は驚きつつもその事実を受け入れてくれた。
と言うか、真っ白な子猫に変態した孫娘の可愛らしさにあっという間に骨抜きとなり、文字通り猫可愛がりするようになったのである。
こうして力強い味方を得たミルフィだが、祖父母以外の親族には決してこの秘密を喋らないよう、両親からは耳にタコができるほど言い聞かされた。
もしこの事がばれれば、怖い研究所に連れて行かれ、家族とも会えなくなってしまうかもしれない。
そう脅されたミルフィは、仲良くなった従兄妹や又従兄妹達から「変態して林を駆け回ろうよ」と幾度誘われても、頑なに首を振り続けた。
付き合いが悪いと従兄妹達からは散々文句を言われたが、ミルフィはそれどころじゃなかったのだ。
幸い、従姉妹の中に少し体が弱い子がいて、ミルフィはその子と一緒にボードゲームをしたり、人形ごっこをしたりして遊ぶ事ができた。
兄のイザークも、ミルフィは家の中で遊ぶのが好きな子だからと庇ってくれ、ほとんどの従兄妹達は納得してくれたのだが、一人だけ性懲りもなくミルフィに絡んでくる嫌な奴がいた。
それがアドルフ・ボードンという、見た目だけは抜群にいい三つ年上の又従兄弟だった。
このアドルフはミルフィが従兄妹と仲良く遊んでいると必ず傍にやってきて、「俺達と遊ぶのがそんなに嫌なのか」とねちねち嫌味を言ってくる。
「何で獣化しないんだよ。もしかしたらお前、半端者なんじゃないか?」
「半端者なら、獣耳と尻尾が生えているわよ。馬鹿じゃないの」
ミルフィは嫌な事を言われて泣き寝入りするようなおとなしい子ではない。
言われた分にはきちんと反論したし、それでも絡んでくる時は公然と無視をしてやった。
なのに、そのいじめっ子は諦めない。
会う度にミルフィに嫌味を言ってきて、うんざりしたミルフィが「私に構わないで他の子と遊びなさいよ!」と言い返したら、「お前生意気なんだよ」と言って、いきなりミルフィを突き飛ばしてきた。
ミルフィは机の角で肩を思いっきり打ち付け、驚きと痛みで思わず涙が零れた。
それを見たアドルフは鬼の首を取ったように「やーい泣き虫!」と囃し立て、さすがのミルフィも我慢できずに泣き出してしまった。
当時の事は思い出すのも業腹である。
その後、親からこっぴどく怒られたそいつはミルフィに謝罪し、多少おとなしくなった。
ミルフィとしてはもう二度と会いたくない相手であったが、親族であれば顔を合わせる機会はどうしても出てくる。
そしてそいつは性懲りもなく、会う度にミルフィに絡んできた。
口を開けば上から目線のからかい言葉で、言われるたびにムカッとする。
だからミルフィは明らかに作り物と分かる笑みを顔に張り付け、慇懃に対応してやった。
やがてその又従兄弟は騎士学校に進学し、あまり顔を合わせる事もなくなった。
ミルフィもまた年を重ねていき、十四歳を過ぎる辺りから、プチ茶会に出席したり、親族が内輪で開く舞踏会に顔を出したりして、アドルフについては思い出す事もなくなった。
女性は十五歳で社交デビューするので、内輪の会への出席はその予行練習のようなものだ。
騎士学校に進む令息らと違い、令嬢達に教育を施すのは母親を含めた親族と外から招いた家庭教師だけである。
外の人間と知り合う機会が極端に少ないため、デビュタントが近付いた令嬢達は親族が催す昼餐会やお茶会に出席して人脈を築いていくようになっていた。
モルド国の貴族女性の平均結婚年齢は十七、八だ。
ミルフィも社交デビュー後に様々な婚約話を受けるようになると思うが、トラではなく猫に変態してしまう娘を誰に嫁がせればいいのか、両親はかなり頭を悩ませている様子である。
ミルフィも困った……と内心思っていたが、悩んだところで猫がトラに変われる訳でもない。
まあ、どうにかなるだろうとかなりお気楽に考えていた。
外見だけを言えば、ミルフィの容姿はそう悪くない。
白銀に近い艶やかな金髪をしていて、瞳は透き通るようなブルーである。
肌は抜けるように白く、体つきも華奢で、ほっそりと可憐な容姿をしていた。
従姉妹達と過ごす時もいつも家の中でおとなしく遊んでいたため、か弱くてお淑やかな令嬢だと周囲からは思われていたが、本質はぶっちゃけその真逆だ。
好奇心は人一倍旺盛で、刺繍や読書、楽器の練習などをして過ごすより、猫姿になって邸宅内を探検する方が好きだった。
勿論ミルフィが猫に変態する事は固く伏せられていたため、変態したミルフィは便宜上、家令ランツィの飼い猫のヴェルという事にされていた。
ヴェルというのは、ミルフィのセカンドネーム、ヴェルシェからとった名前である。
使用人達は皆、獣化できない平民なので、猫のヴェルが近付いても誰も不思議に思わない。
あざとく「にゃおん」と泣いて甘えると、皆が口々に可愛いと言って抱き上げてくれるので、ミルフィは大層ご機嫌だった。
という事で、日々の生活に何の不自由も感じていないミルフィであったが、唯一困った点はミルフィが重度の運動音痴だという事だった。
だから、危ない真似は絶対にしないようにと家族から強く諫められていた。
そのどんくささたるや、兄のイザークから「お前、本当に猫か?」と本気で首を傾げられるほどだったのである。
普通の猫であれば、少々高いところから下に飛び降りるのはお手の物だ。
空中で上手に体を捻り、四本足でしゅたっと着地する。
落ちる距離が短すぎてうまく体を捻れない時は、丸まった背中側から落ちて、無意識に体に受ける衝撃を最小限にしようとするものだ。
ところがミルフィはそのどちらもしなかった。
着地姿勢を取ろうか、背中から無難に落ちようかと空中で思案し、どうしようと迷う内にそのままべたんと腹落ちした。
……痛かった。死ぬかと思った。
そんなミルフィなので、普通の猫のように窓枠から庇に飛び移り、そこから木の枝にダイブして、上手に地面に下りるなどというコンビネーション技はとてもできない。
いや、できるかもしれないが、数回に一回はどこかでバランスを崩して痛い目を見る気がする。
痛い目で済めばいいが、下手をすればあの世行きだ。
だから二階の窓から降りる時は窓枠のところでまず後ろ向きになり、前足で窓の桟を掴むようにしてぶらーんとぶら下がり、なるべく地面までの距離を短くする。
がりがりと後ろ脚で壁を引っ掻きながら落ちるタイミングを計っていると、先に下りていた兄が獣姿で蹲ってくれ、まずはそこにぼよんと落ちてから、小さく跳ねて地面に落下する。
「お前、本当に生き抜く力に欠けてるよなあ」
兄のイザークからは呆れたようによくそう言われた。
「これじゃあ誰かに攫われた時、逃げ出す事なんてできないぞ」
イザークは口は悪いが、心底妹の事を案じている。
というか、子猫姿のミルフィを愛でる内にモフ欲というものに目覚めたらしく、暇さえあればミルフィをモフモフするようになっていた。
まさに猫可愛がりという言葉がぴったり当てはまるような溺愛ぶりだ。
「わざわざ私をモフらなくても、友人のトラ毛を堪能したら?」
ある時そう提案してみたのだが、「トラは撫でても可愛くないし」とイザークはそっぽを向いた。
「(猫姿の)ミルフィはものすごく可愛い。
どこにも嫁がせずに、一生愛でていたいくらいだ」
ある日酔ったイザークは外でそんな事をぽろっと漏らしたらしい。
お陰で、モテモテだった兄の株はその日から急落した。
とんでもないシスコン野郎だと周囲から思われたようである。
ミルフィの目から見ても、兄は十分に格好良かった。
すらりと背が高く、ハンサムな上に武術にも秀でている。
おそらくは、母の腹の中でこの兄がミルフィの分の運動神経まで全部持って行ったのではないだろうかと、ミルフィは秘かに思っていた。
騎士学校時代は学年で一、二位の剣技の腕を誇り、卒業と同時に近衛隊に引き抜かれた。
この近衛隊は、武術は勿論大事だが、それ以上に見た目が重要視される。
国の顔となる存在であるため、容姿端麗である事が最低条件なのだ。
背が低い男性は、それだけで近衛隊の候補から落とされるし、こればかりはいくら実力があってもどうしようもない。
幸い兄は父譲りの長身をしていて、かつ、同学年であった王太子殿下とも仲が良かった。
将来の国王の側近候補として順風満帆な未来が開けていると思われていたが、思わぬところで人気を落としたものである。
でもまあ、兄はモテなくなった事をむしろ歓迎している様子だった。
近衛隊の訓練場の近くに貴族令嬢達がたむろしてキャーキャーと黄色い声で騒がれ、やたら体を触られたりタオルやお菓子を押しつけられたりして、いい加減嫌気が差していたらしい。
「こっちは真剣に訓練しているというのに本当に鬱陶しい。
わざと私の目の前でふらついて、手を差し出されるのを待っているようなあざとい女もいるんだぜ」
「えー。それはちょっと面倒くさいかも」
ミルフィはバッサリと切って捨てた。
「だろ。獣人の血が強い女性は特に積極的だ。さすがに結婚までは純潔を守るけれど、それ以外は何でもありだからな」
イザークはうんざりとした口調でそう言った。
「そう言えば、十やそこらの子どもに夜這いを掛けた世話係の女性がいたと聞いた事もあるぞ。
何でもとても美しい子であったから、欲望を抑えられなかったんだとさ。
その子どもも可哀そうに。
気持ちよく寝ていたら、信頼していた女性にいきなりのしかかられて体を撫で回されただなんて、恐怖以外の何ものでもなかっただろうな」
「ひどい話ね」
話を聞いたミルフィは思わず眉を顰めた。
「そんな事をされたら悪夢に魘されそうだわ」
「そうだろうな。まあ、それはともかくとしてお前の話だ」
「……私の? まさか、私が夜這いされる事を心配しているの?」
「夜這いの話は忘れろ。そうじゃなくて、一般的な話だ。
本格的に社交デビューしたら、お茶会だの夜会だのいろいろお誘いが入ってくるようになると思うが、出かける時には必ず護衛をつけろよ。
貴族は獣人だから襲われないなんて過信をするな」
「相手が獣人だと知って襲ってくるような人間が本当にいるの?」
こてんと首を傾げてそう問うと、イザークは小さく溜め息をついた。
「数は少ないが、皆無じゃない。
モルド国は周辺国に比べれば治安がいい方だが、貴族を狙った身代金事件は実際に起きているんだ」
「攫われたら、獣化すればいいのではなくて? 着ていた服は破れちゃうけど、トラになったら人間なんて赤子の手をひねるようなものでしょ」
「奴らはターゲットの貴族に、鉄製の首輪を嵌めてくるんだ。そんな状態で変態なんかしてみろ。あっという間に首が絞まって、即、昇天だ」
「うわぁ」
ミルフィは思わず眉を顰めた。
「大型獣なら心配ないって思ってたけど、そうじゃないのね。じゃあ、私は猫で良かったのかも」
「お前なら首輪なんてすぐに抜けられるだろうが、トラより断然、猫の方が攫いやすいんだぞ。
猫姿の時、迂闊に人間に近付かないように気をつけろ」
「そうするわ」
お気楽にそう返事をしていたミルフィだったが、しょせん誘拐なんて他人事だった。
あの時の兄の言葉をもっと真剣に聞いておくべきだったと心の底から後悔する日が来るだなんて、その時のミルフィには思いもつかぬ事だった。




