帰宅を促される
マリアーナ公妃が退室した後、場には何とも言えない空気が残された。
「あれのどこが、ただ美しいだけというだけの頭が空っぽなお色気女なんだ」
豊かな鳶色の髪をがしがしと掻き回し、そうぼやくのはミゼルである。
「レジナルド公は完全に騙されているだろ?
まあ、マリアーナ公妃を今まで見誤っていたのは私も同じなんだが」
溜め息を吐くミゼルに、レオーネがどこか遠い目で応じた。
「夜会に出席される時は、女性の体を強調するようなデザインドレスばかりを身に着け、話題と言えば、最新のモードか軽薄なゴシップばかりでしたからね」
「売れない俳優や音楽家のパトロネスになって、月の半分はオペラ通いだろ。
そういう姿しか見て来なかったから、まさか離婚についてあれほど具体的に考えているとは思ってもいなかった」
とても用意周到で、まるで夫君がレドルス法の復活を提議するのをずっと待ち構えていたかのようだ。
もしかしたら、離婚を先に考え始めたのはレジナルド公ではなくマリアーナ公妃の方だったのかしら……とミルフィが首を傾げていると、シャーロット妃が優しい手つきでミルフィを抱き上げ、その頭をそっと撫でてくれた。
「考えれば当たり前の事なのだけれども、マリアーナ公妃は随分レジナルド公を恨んでおいでのようね」
独り言のようにシャーロット妃は呟いた。
「王族は体面を保つのに莫大なお金がかかるものだけれども、レジナルド公はそれ以上に浪費家でいらっしゃる。
現在所有している財産の分与ではなく、これからもお金をどんどん生み出していく鉱山の権利の譲渡を望まれるなんて、マリアーナ公妃もよく思い付かれたものだわ。
レジナルド公にとってはこれ以上ないほどの痛手となるでしょう」
「父親は反対していると言っていたが、おそらくそう見せかけているだけだろうな」
そう口を挟むのはミゼルである。
「二つ返事で離縁を了承すれば、レジナルド公は絶対に鉱山を手放さない。できる限りごねて、譲歩を引き出したい筈だ」
それでなくとも今の重臣には保守派が多い。
改革を行うには多くの貴族達へ細やかな根回しをしておく事が重要で、レジナルド公は賛同者をできる限り集め、会議の流れを法改正へと導いていく必要があった。
その時に最大のネックとなるのが、マリアーナ公妃とその実父であるドルーソン侯爵に同情する者達だった。
辛い立場にあるマリアーナ公妃に対してレジナルド公が十分な誠意を見せ、父であるドルーソン侯爵もレジナルド公に賛同すれば、法の改正を支持する臣下も徐々に増えていくだろう。
「前回の会議ではレドルス法の復活に異を唱える者も多かったが、ドルーソン侯爵の動き如何によって、情勢は大きく変わるかもしれないな」
ミゼルは太い腕を胸の前で組んだ。
「いずれ立場を明確にしないといけないが、ともあれ私は猶予が欲しい。
シャーロット。ルナス伯爵夫人の件も、早々に片をつけるつもりだ。あのような女を傍に置くのは気分が悪いだろうが、今しばらく辛抱してくれ」
「敵が誰かわかっていれば、いかようにも対処はできますわ。ですので私の事はご心配なく」
さらりとシャーロット妃が答え、「君が私の妃で頼もしいよ」とミゼルがシャーロット妃の肩を抱き寄せた。
そのままシャーロット妃の髪を指で掬い上げたミゼルは、指に巻き付いた巻き毛に何度も愛おしそうに口づける。
え。ここでイチャイチャする気なの?
いたたまれなくなったミルフィは、慌ててシャーロット妃の腕を抜け出して、すたっと床に着地する。
お美しいシャーロット妃はともかくとして、ムキムキの体をしている王太子殿下がそういう雰囲気を醸し出すと、何だかとっても暑苦しい。
ソファーの下に逃げ込んでこっそり皆の様子を伺うと、レオーネもイザークもこういう光景に見慣れているのか、呆れたように視線を逸らしていた。
ひとしきり二人だけの世界に浸っていたミゼルは、最後にシャーロット妃の指先に軽い口づけを落として、ようやくイチャイチャを止めてくれた。
「シャーロットに盛られていた薬が完全に体から抜けるのに、半月からひと月かかると侍医が言っていた。
もし懐妊すれば、誰が一番焦るのだろうな」
独り言のようにミゼルが呟き、王太子夫妻に子が生まれるのを阻もうとしたのは誰なのだろうとミルフィは真剣に考えた。
怪しいのは断トツでレジナルド公である。
浮気はするわ、外で子どもを作るわ、挙句に自分都合で妻を離縁するためにレドルス法の復活を持ち出してくるわで、いいところが全くない。
次に怪しいのは、ルナス伯爵夫人を女官に推したという宰相閣下だろうか。
でも現宰相は、有能かつ清廉な人柄で知られていて、王が絶大な信頼を傾けている人物でもある。
そんな方がこんな恐ろしい犯罪に手を染められるかなとミルフィは首を傾げた。
そもそもレジナルド公は、レドルス法の復活を自分で思いついたのだろうか。
享楽的で目先の事しか考えないタイプのようだから、誰かに唆されたという可能性もある。
私って推理が冴えているかも……などと自分を褒めていると、「失礼」と王太子夫妻に断ったレオーネが、熱心にミルフィ用の椅子を調べ始めた。
「この高椅子はいいですね。
今までテーブルの上にミリィを乗せていましたが、専用の椅子があればスマートに食事が楽しめます」
感心したように呟くレオーネに、ちょっと待てとミルフィは思わず心の中で突っ込んだ。
今は国家の一大事を話している筈だったのに、この王子様は何に気を取られているのだろう。
じと目でレオーネを見たミルフィだったが、ふとその正面に座る王太子が何とも言えぬ顔でレオーネを見つめている事に気が付いた。
柔らかな眼差しに一瞬、痛みとも哀れみともつかぬ感情が走り抜けた気がした。
「作る必要はない」
「え」
淡々と落とされた兄の言葉に、レオーネは目を瞬いた。
「お前が可愛がっているそのミリィは別の貴族の飼い猫だ。そろそろ飼い主のところへ返してやらねばならん」
ミルフィは驚いて王太子の顔を見上げた。
あまりに唐突な発言で理解が追い付かなかったのだ。
「お前があまりにもその子を可愛がっていたから言い出せなかった。
だが、そろそろ潮時だ。王宮もきな臭くなってきたし、これ以上その子を王家の問題に関わらせる事はできない」
ミルフィがに獣人であるという事を知らぬレオーネにとっては、意味の通じぬ話であっただろう。
けれどミルフィは、今の言葉で自分の立場を理解した。
レオーネがただの猫を可愛がっているのであれば問題はなかった。
けれどミルフィは獣人だ。傍にいれば、王家が隠したい事情も自ずと知ってしまう。
シャーロット妃と朝の時間を過ごすようになったミルフィはシャーロット妃に毒が盛られている陰謀を知ってしまったし、今後もレオーネの傍にいれば、ミリィをただの猫だと信じ込んでいるレオーネからいろいろな情報を渡されてしまう事になる。
それは王家にとって、とてもまずい事態であるのだ。
今日ミルフィをこの場に呼んで、シャーロット妃に盛られていた毒の説明をしてくれたのは、この企みを暴いてくれたミルフィに対する王太子の最大の誠意であったのだろう。
そして、これ以上ミルフィを王家の事情に巻き込む訳にはいかないと王太子が判断した。
ミルフィはその言葉に従うしかなかった。
事情を知らないレオーネは当然反発した。
「ミリィは私の猫です。他に飼い主がいるなど信じません!」
王太子は重い溜め息をつき、傍らに控えている護衛騎士を呼んだ。
「イザーク」
「はっ」
「名を呼んでやれ。タウジ伯爵夫妻も、この子の帰りを首を長くして待っておられる筈だ」
ミルフィは思わず兄の顔を見た。
この瞬間を今の今まで待ち望んでいた筈なのに、何故自分の心は喜びで埋め尽くされる事がないのだろうか。
イザークは眼差しを和らげて、ミルフィを呼んだ。
「ヴェル、おいで」
ヴェルは、ミルフィが猫姿の時の呼び名だ。
ミルフィが猫に獣化する事を使用人達に知られてはいけないため、猫姿の時はミルフィは家族からずっとセカンドネームで呼ばれていた。
名前を呼ばれたミルフィは兄の顔を見て、それからレオーネに視線を向けた。
レオーネは泣き出しそうな顔で自分を見つめていた。
顔はひどく青ざめていて、こんなひどい顔をミルフィは今まで見た事がない。
「ヴェル、来い!」
再び兄に強く名を呼ばれ、ミルフィは一目散に兄の許に駆けて行った。
イザークが膝を落とし、両腕を広げる。
胸に飛び込んできたミルフィを、イザークがぎゅっと抱き締めた。
「ヴェル……?」
呆然とレオーネ王子が呟く。
「ああ。この子の名前はヴェルだ。
半月くらい前、タウジ伯爵夫妻がヴェルを連れてバウアーパークに行き、そこで行方が分からなくなったのだそうだ。
本当は、お前が初めてこの子をここに連れてきた時、イザークに返してやる予定だった。
お前があまりに嬉しそうな顔をしていたから、ついつい言いそびれたんだ」
いやそれ、微妙に事実と違うから……とミルフィは兄の腕の中でちょっと遠い目をした。
あの時、王太子はおそらくミルフィがタウジ家の獣人であるとレオーネに伝える気だった。
なのにその直前でレオーネが想定外の爆弾発言をしちゃったものだから、さすがの王太子もそれを告げる事ができなくなったのだ。
あれ? という事は、私が獣人である事はレオーネ王子に伏せる訳ね……とミルフィは気が付いた。
よくよく考えるとそれが無難かもしれない。
何と言ってもレオーネは女嫌いだ。単なる女嫌いというより、病んでいると言い換えた方が、この王子様の場合は適切だろう。
深い心の外傷を負ったレオーネは、未だに素手で女性に触る事ができない。
なのに、成人女性であるミルフィの体を胸に抱き締めたり、腹の匂いを嗅いだり、しかも素手で体中を撫で回して洗ったと知ったら、全身に発疹が出て卒倒してしまうかもしれない。
そこまで想像してミルフィはちょっとむかついた。
未婚女性であるミルフィの体を散々触った挙句、体中にぶつぶつを出して倒れられたら、こっちの立つ瀬がないんですけど……。
一方のレオーネは、目を見開いたままその場に固まっていた。
信じられない、と言うか、信じたくないのだろう。
縋るような目でミルフィの方を見ていて、その眼差しを見た途端、ぐっと心臓が締め付けられた。
ああ、これでお別れなんだ……。
レオーネの手がミルフィに向かって力なく伸ばされ、けれどすぐにその手は下ろされて、代わりに拳が固く握りしめられる。
「ヴェル……と言うのか」
「みゃおん」
ミルフィは小さく鳴いた。
「そうか……。捨て猫じゃなかったんだな。最初から私の勘違いだったんだ」
「みゅぅぅ」
確かに人迷惑な勘違いで始まった関係だった。
けれど辛い事ばかりではなかった。
レオーネは全霊でミルフィを可愛がってくれた。
夕食を勝手に横取りしても、訓練の邪魔をしても怒らなかったし、雷が鳴った夜はミルフィを案じて駆けつけてくれた。
いつも楽しそうにミルフィの相手をして、たくさんの思い出を作ってくれた。
夜の庭園散策の時、一緒に見た真っ白な常磐蓮華。
柔らかな闇に大輪の白い花がぽっかりと浮いて見え、熟れた果実のような甘ったるい香りが漂っていた。
そう言えば、あの花は一日で命を終えるのだと、レオーネが言っていた。
だからこそ余計に美しく、哀しみと愛着を覚えたのかもしれない。
終わりがあればこそ何事も美しいと言ったのは誰だっただろうか。
王太子殿下に命じられずとも、自分はいつかは王子の傍を離れなければならなかった。
いつまでも猫姿のままではいられない。
ミルフィはもう十五歳だ。社交界で立場を固めていき、その先には貴族令嬢としての婚姻が待っている。
「急に言われても、心の整理がつかないだろう。
今日一晩、時間をやる。十分に別れを惜しみ、明日の午後、ヴェルを連れてバウアーパークに行くように」
「バウアーパークですか?」
「ああ。お前が白猫を可愛がっている事は、王宮内で噂になり始めている。
もし王宮内で行方が分からなくなったら、形ばかり捜索をする必要が出て来るし、その結果、誰かが責任を負わなくてはならなくなる。
だからパークで行方不明になるのがちょうどいいんだ。
タウジ伯爵夫妻には先ほど使いを出した。
パークで落ち合い、お前が直接手渡してやるといい」
ミゼルは静かにそう言った。




