再び訓練場へ
その後レオーネは、フェルゼイと連れ立って訓練所へと向かった。
六年前の事件のその後を知ったために気持ちが乱れ、体を動かす事でもやもやとした気分を発散したかったようだ。
ミルフィも問答無用で訓練所に連れていかれた。
いつものバスケットに入れられて、それを宝物のように捧げ持つのは侍従のディールである。
前回は訓練場の中を走り回り、騎士達を大いに翻弄したミルフィだが、今回また同じ事をされては堪らないとレオーネは思ったようだ。
首輪に長めのリードがつけられて、犬じゃあるまいし! とミルフィは大いにむくれた。
自由に散歩していいと言われたので、ミルフィはディールをお供にして訓練場の中を歩き回る事にした。
騎士達が鍛錬を行っている場所には草一つ生えていないが、隅の方に行けばそこそこ雑草も生えている。
やわらかな葉を前足で押し潰したり、白くて小さな花に鼻を近づけて香りを嗅いだりして、ミルフィはのどかな散策を楽しんだ。
おお! 草の上って気持ちいい!
ちょーご機嫌で歩き回っていたら、いきなり目の前で何か緑色の物体が跳ねた。
「み?」
ぴょんとミルフィの頭上を飛んだその物体は、ミルフィの後ろ側に着地する。
くるりと後ろを振り返ったミルフィは、そこにギザギザした足を持つ逆三角形の顔の虫の姿を見つけて凍り付いた。
「みょおおおおおおおお!」
ぶわりと毛が逆立った。
薄緑色の体を持つカマキリだ。
三角形の両端にある目はやたらでかくて黒い点があり、頭から触角が突き出している。前脚には鎌状のトゲトゲがいっぱいついていて、先端が妙に細っこいのも気持ちが悪かった。
恐怖のあまりカマキリをがん見するミルフィを見て、カマキリの方もミルフィを敵だと認定したようだ。
いきなり前脚の鎌を大きく振りかぶり、小さな体で威嚇してきた。
ひえええええええっ……!
人姿の時と違って、カマキリがやけに大きく見える。
元々人間の時だって、ミルフィは虫は苦手だ。
許せるのは蝶くらいで、兄様がときめくカブトムシもクワガタも大っ嫌いだし、正確に言うと虫ではないが、掌大の蜘蛛を初めて見た時は、恐怖のあまり失神しそうになった。
「みやぁ!」
パニクったミルフィは目を瞑ってカマキリを前足で攻撃し、それを避けたカマキリが死に物狂いで飛び跳ねる。
そして双方にとって不運な事に、カマキリはよりにもよってミルフィの背中に着地した。
「みぎゃああああああああああ!」
背中についたカマキリを振り落とそうとミルフィは草むらを転がった。
「ミリィ様! 落ち着いて下さい!」
リードの片方を持ったディールが慌ててミルフィを宥めようとするが、落ち着けと言われても落ち着けるものではない。
足掻きながらごろごろと草むらを転げまわり、あっという間にリードが体中に絡み付いた。
「で? ミリィは何をやっているんだ?」
大声で騒ぎ過ぎたせいか、剣の鍛錬を行っていたレオーネまでミルフィのところにやって来た。
因みに他の騎士達もぞろぞろと後をついてきている。
ミルフィはと言うと、足と言わず首と言わず雁字搦めに巻き付いた長いリードをディールが必死に解いてくれているところで、首と右後ろ足が不自然にくっついた格好のまま、哀れっぽい声で「みぃぃぃぃ」と鳴いた。
「草むらにいたカマキリに怯えられまして……」
そう説明するディーンに、レオーネはぽかんと口を開けた。
「え。こんな小さな虫が怖いのか? 猫は肉食だろ? 確か虫も捕食すると聞いているが」
それは本物の猫の話です!
絡まったリードと格闘しながら、「うにょお」とミルフィは抗議の声をあげた。
ミルフィは虫なんか食べないし、食べたいとも思わない。
そう言えば、タウジ家で猫に変態して厨房内の大冒険をしていたら、ゴキブリを口に咥えた猫と遭遇した事があったと思い出した。
茶色い翅と毛のついた足が一本、黒猫の口からぽろりと零れ、ミルフィは全身の毛を逆立てて悲鳴を上げたものだ。
あの時見たゴキブリに比べたら、今日のカマキリの方がまだかわいげがあるのかもしれない。
でも、訳のわからない大きな目で睨みつけられ、シャーと鎌を振り上げて威嚇してくるカマキリはものすごく怖かった。
「みょおおおお(おまけにあやつは空も飛ぶのですよ)!」
後ろ足に絡んだリードを解いてもらいながら、ミルフィは必死にレオーネに訴えかけた。
虫ならば六本ある足で移動しろ! とミルフィは言ってやりたい。
空を飛ぶなんて反則だ。
「本当にミリィは怖がりだなぁ。
ネズミも嫌い、カマキリもダメ。そういや、雷も苦手だったな……」
しみじみと語りかけてくるレオーネに、ミルフィは放っておいて下さいとそっぽを向いた。
そこで前足に泥が付いているのを見つけたミルフィは、目の前にあった布で手っ取り早く足を拭ったが、一拍遅れてその生地がレオーネの服であると気が付いた。
「みゅ?」
白いシャツにくっきりと泥の跡が付き、ミルフィはあっと固まった。
おそるおそるレオーネの顔を見上げると、レオーネは堪えきれなくなったようにぶっと噴き出した。
「まるで悪いとでも思っているような顔だな。
大丈夫だ、ミリィ。こんな事で怒ったりはしないよ」
大きな手で頭を撫でられて、ミルフィは「みょぅ」と一応謝っておいた。
レオーネはいつも優しい。
ミルフィがどんなに迷惑をかけても、決して声を荒げなかった。
初めて獣人に懐いた猫だから可愛いのだろうなとミルフィは思い、自分が獣人である事がちょっぴり辛くなった。
もし自分の正体を知ってしまったら、レオーネは猫のミリィを嫌悪するようになるのだろうか。
好きで騙した訳ではないけれど、ミルフィはずっと偽りの姿をレオーネに見せている。
猫姿でなければ、レオーネはこれほど心を許して接してくれる事はなかった筈だ。
レオーネが女嫌いだと知りながら、昨日はレオーネの布団の中で眠ってしまったし、今日は今日でレオーネの恥部でもある過去も詳しく知ってしまった。
もう嫌われる要素しか思いつかないと、ミルフィはしょんぼりとレオーネの腕の中から空を見上げた。
コバルトブルーの空はどこまでも明るく澄んでいて、刷毛で描いたような真っ白な雲が目に美しい。
あまりにきれいすぎて、ミルフィは何だか泣きたくなった。
レオーネと一緒にミゼル王太子の居殿に呼び出されたのは、その翌日の午後の事だった。
午前中に確認した限りでは、ルナス伯爵夫人は今日も粉薬をシャーロット妃のカップに入れていた。
いつまでルナス伯爵夫人を泳がす気なのか、そもそもあの粉薬は何なのだろうかと疑問をたくさん溜めていたミルフィは、逸る気持ちで王太子の居殿についていった。
「ルナス伯爵夫人がシャーロットの飲み物にずっと毒を入れていた」
人払いをされた部屋で、開口一番そう伝えられたレオーネは、「え」と呟いてその場に固まった。
咄嗟にその言葉が消化できなかったのか、正面に座すミゼルとシャーロット妃、そして後ろに控える護衛騎士のイザークにうろうろと視線を彷徨わせる。
「毒……。毒とは一体……?」
「体を害するものではない。子を孕ませないようにする、あるいは根付いた子を流産に導く類の薬だ」
ミルフィはあっと息を呑んで、思わずシャーロット妃の顔を見上げた。
結婚して三年が経つのに、シャーロット妃が懐妊する事はなかった。
シャーロット妃の体に問題があるのか、それとも原因は王太子の方にあるのだろうか。
悪意が織り込まれた噂話がじわじわとお二人を取り巻くようになっていて、そうした状況にミルフィも秘かに心を痛めていた。
けれどまさかシャーロット妃がそのような薬を盛られていたなんて、思いもつかぬ事だった。
「三日前に、偶然その事実を知った」
ミゼルはテーブルの上に置かれたシャーロット妃の手に手を重ね、ミルフィに向かって僅かに頷いた。
「昨日、王家の影を使って、ルナス伯爵夫人の居室を隅から隅まで調べ上げたんだ。
彼女は金や宝玉で飾られた卵型の小物入れを棚に飾っていてね。鍵師に命じて開けさせると、白い粉が入った薬包がいくつも入っていた。
薬包の中身を安全なものと取り換え、持ち帰った粉の成分を調べさせたら、子を孕ませぬようにする薬だとわかった」
「何という事を……」
レオーネがテーブルの上に置いた拳を握り締め、言葉を絞り出した。
「シャーロットの周囲は信頼のおける者で固めたと思い込んでいた。私の手落ちだ」
苦い口調で言うミゼルに、レオーネははっとしたように顔を上げた。
「ルナス伯爵夫人を義姉上の女官に推挙したのは宰相のエメス伯爵です。
まさか宰相がこの件に関わっていると?」
「エメス伯爵は実直で誠実な男だ。そのような陰謀に手を染めたとは信じ難いし、信じたくもない。
ただ、宰相自身はリベラル派だ。正嫡かつ獣人の男系男子しか家督を継げないというモルド国の現状に危機感を持っているのは確かだ」
「昨日の御前会議でも、レジナルド公に賛同していましたね」
レオーネは軽く唇を噛んだ。
レドルス法復活への賛同を集めるために必要なのは、王家の血が途絶えるのではないかという臣民の不安だ。
現在の絶対王政をモルド国に定着させたハリー王は、王家の存続を大義に掲げてレドルス法を制定した。
現王は二人の獣人男子を王家にもたらせ、先は安泰と思われていたが、王太子は結婚後三年経っても子に恵まれない。
レドルス法を復活させるに十分な下地が育っていると言えるだろう。
「リベラル派はずっと、レドルス法の復活を提唱してきた。
妻に獣人男児が生まれないせいで男系男児を持つ傍流に家督を譲るようになった貴族は多い。断絶に追い込まれた家も少なからずあった。
そうした貴族達の声に、王家はもっと真剣に耳を傾けるべきであったのかもしれない。こんな形で不満が噴き出すとは思ってもいなかった」
苦い顔でミゼルが言い、隣にいるシャーロット妃に真摯な眼差しを向けた。
「王家の事情に巻き込んで済まない。どんな悪意からも守り抜くと誓ったのに、足元が崩れかけている事にも気付かなかった。
私の落ち度だ。本当に済まなかった」
「殿下のせいではないわ。まさか私に仕える侍女が薬を盛るなんて、誰も思わないもの。
ねえ、ミゼル。私が王太子妃の座に就いたのは、貴方が守り抜くと誓ってくれたからではないのよ。私が自ら望んで貴方の妻となったの。
だから謝ったりしないで」
シャーロット妃はそう答えた後、レオーネの方に顔を向けた。
「悪意や裏切りは人の心を疲弊させるわ。
あの一件を知ってから私は人を信じる事が怖くなったけれど、それでも人を信じなければ前には進む事はできない。
レオーネ殿下。信頼していた人間の裏切りがどれほど心を傷つけるか、貴方は誰よりも知っている筈。
けれど貴方はこのモルド国の王族なの。いつまでもこの場に立ち止まっている事は許されないわ。
私の言う意味は分かるかしら」
アマーフィエの事件の事を言っているのだとミルフィには分かった。
そっとレオーネに視線を移すと、レオーネは唇を強く引き結び、シャーロット妃の言葉に小さく頷いた。
「過去ときちんと向き合い、今後、王族としてどうあるべきかをきちんと考えて参ります」
「期待しているわ」
シャーロット妃が微笑みながら頷き、傍らにいたミゼルも優しい目で弟を見た。
「お前に覚悟が付いたのならそれでいい」
それから気持ちを切り替えるように一つ大きく息を吐き出し、唐突に話題を変えてきた。
「それはそうとして、問題は今日の御前会議だ。
レジナルド公は王家の行く末を案じているなどときれいごとを言っていたが、要はマリアーナ公妃と離婚して、後継ぎをなせる女を正妃に迎えたいのだだろう。
獣人男児を産んだ今の愛人を正妻に据える気なのか、若く美しい令嬢を新たに迎える気なのかはわからんがな」
「実は今日、王太子宮にマリアーナ公妃をお呼びしているのよ」
静かな口調でシャーロット妃が言い、レオーネが驚いたように眉を上げた。
「マリアーナ公妃を、ですか」
「ええ。大臣達は法の是非ばかり議論しているようだけれど、その前に公妃のお気持ちを確かめておきたいと思って。
法が復活すれば、その影響を一番に受けるのがマリアーナ公妃ですもの。
妻側に瑕疵がないのに、不貞をした側からの一方的な申し立てによって廃妃が決まるというのは、同じ女性として余りに耐え難いわ」
レオーネはその言葉に賛同するように大きく頷いた。
「私自身も、公妃のお気持ちは考慮されて然るべきだと思います。
ただ、個人の気持ちは気持ちとして、この件は公平な目で検討されなくてはなりません。
レジナルド公が発言した通り、ここ百年の間に王家や貴族家が先細ってきた事は、紛れもない事実なのですから」
「お前はレドルス法の復活に前向きなのか?」
ミゼルの問いに、レオーネは「いえ」と首を振った。
「レドルス法は、妻に子が望めない場合、男性側が一方的に離縁を突き付ける事ができるという不公平な法です。
男性側の都合だけが優先され、離縁される女性に対する配慮が一切ない。何らかの救済策があればよいのではないかと……」
「お前の言う事にも一理あるな」
ミゼルは顎をゆっくりと撫でた。
「シャーロットが薬を盛られていた事で、私は冷静さを失っていたようだ。
国の今後にとって何が一番重要であるのか、今一度公平な立場に立って考えてみる事にしよう」
ミゼルは腕を組んでそう答え、隣に座っていたシャーロット妃も同意するように頷いた。




