雷の夜
王様の許を退去した後、ミルフィはその足でレオーネの居殿に帰った。
途中、回廊から見た空には、西から黒っぽい雲が近付いてきていた。
もう少し天気がもつといいけれど……とミルフィは不安そうに空を見上げた。
この時期の雨は街路樹も見えなくなるほどの土砂降りになる事があり、そうなると往来自体が危険になる。
視界の悪さはそれだけでも事故に繋がりやすいし、ぬかるみに馬車の車輪が填まれば身動きが取れなくなってしまう恐れもあった。
祈るような気持ちで空を見上げていたミルフィだが、自分が居殿に戻って一刻もしないうちに、外はバケツをひっくり返したような大雨となった。
風も先ほどより強くなり、窓ガラスに容赦なく雨が叩きつけられる。
殿下が無事に帰ってきますように。
ミルフィが願うのはそれだけだ。
雨はその後も弱くなったり強くなったりを繰り返しながら降り続け、ミルフィは当てどもなく部屋の中を歩き回った。
時刻は十七時を過ぎ、そろそろレオーネが帰ってきてもいい頃なのに、未だ到着の知らせがない。
じりじりと待つ時間は長く、ミルフィはソファの足の下に蹲るようにしてじっと窓の外を見つめ続けた。
夕闇が濃くなるにつれて、それでなくても薄暗かった空がいよいよ暗くなっていく。
「みゅぅぅぅぅぅ」と心細い声を漏らした時、不意に扉がばんと開け放たれて待ち侘びていた声がミルフィを呼んだ。
「ミリィ!」
ミルフィはがばりと体を起こし、レオーネに向かって一目散に駆けていった。
「みゃあああああああん!」
ミルフィが飛びつきやすいようレオーネが片膝を落としてくれ、ミルフィは広げた腕の中に飛び込んだ。
「ただいま、ミリィ。元気にしていたか」
抱き締められたレオーネの体からは雨の匂いがした。
王子宮に帰ってすぐ、着の身着のままでミルフィに会いに来てくれたようだ。
「みゃん(お帰りなさい)!」
ミルフィは喜びを全身に弾けさせながら返事をした。
何よりも一番に自分のところに顔を見せてくれた事が嬉しい。
ミルフィは甘えるように頭を擦り付けた後、首を伸ばしてレオーネの顎の下をぺろぺろと嘗めた。
いつもならここまでサービスはしないのだが、ずっと心配していた分、感情の制御ができなかったのだ。
「ミリィ! こんなに私の帰りを喜んでくれるなんて……!」
塩対応される事が多いレオーネはものすごく嬉しかったらしく、ミルフィをひしっと抱きしめてきた。
これではまるで引き裂かれていて恋人同士のようである。
ミルフィもしばらくじーんと余韻に浸っていたが、そのうち抱き締められる事に飽きてきたので、身を捩って腕の中から逃げ出した。
レオーネは残念そうに自分の腕を見つめていたが、気を取り直して尋ねてきた。
「いい子にしていたか?」
「にゃん(勿論ですとも)」
「そう言えば、今日は父上や母上にお会いしたのではなかったか?」
「みゃおん(会いましたよ)」
お会いするまでは心臓がバクバクしていたけれど、いざ会ってみたらレオーネを彷彿とさせる猫大好きご夫婦だった。
優しいお方でしたよとミルフィは心の中で言葉を続けた。
とにかく全力で撫でまわされて匂いもいっぱい嗅がれました。
それから、殿下が以前より明るくなったと王様からお礼を言われました。王様は殿下の事を本当に大切に思っていらっしゃるんですね。
それと、シャーロット妃に関わる陰謀に気付きました。ルナス伯爵夫人がシャーロット妃の紅茶に薬を盛る瞬間を私が見たのです。
これってすごい事だと思いませんか?
本当はいろいろな事をおしゃべりしたかったけれど、猫姿なので何もしゃべれない。
まあどちらにせよ、国家機密に関わる事だから、おいそれと人に話せはしないのだが。
だからミルフィは「うにゃあああぁ(別れている間にいろいろな事があったんです)」と話をまとめ、大きく一つ伸びをした。
いろいろ気にかかる事は多いけれど、取り敢えずレオーネが無事に帰ってきてくれて、ミルフィはそれだけで満足だった。
その晩はレオーネと夕食を共にし、視察中にあった出来事を一から十まで聞かされた。
嬉しそうに話して来るレオーネを見ているうちに、ミルフィはふと、自分の子ども時分を思い出した。
ミルフィの世話をするのは基本的に乳母であったから、たまにお母様が子ども部屋に姿を見せると、ミルフィはお母様のドレスの裳裾に纏わりついて、今日あった事を一生懸命話したものだ。
ああ、おしゃべりがしたい! とミルフィは思う。
元々ミルフィはおしゃべり好きで、一日中誰かとしゃべっていても平気な質だ。
猫になって何が不満かと言えば、人と自由におしゃべりができなくなった事だった。何を言っても「にゃおん」か「なおん」になってしまい、ミルフィの言葉を誰も理解してくれない。
猫語通訳機とかいうものがこの世にあればいいのにと思いながら、ミルフィはいつものようにバスケットの横に寝そべった。
だらーんと大の字に横たわり、お腹が冷えないようにタオルをお腹に掛けて目を瞑る。
今日は内容の濃い一日だったな……と思う内に、あっという間に揺蕩うような眠りへと引き摺り込まれていった。
覚醒は唐突だった。
「ドォオオオオオオオオオオオォン!」
耳を劈くような雷鳴が轟き、気持ちよく眠りを貪っていたミルフィは文字通り飛び上がった。
「ぴぎゃ?」
慌てて窓の外を見ると、すさまじい雨が窓を叩きつけている。
再び閃光が空を切り裂き、三又に割れた光が枝葉を広げるように分かれしながら木々や建物の向こう側に落ちていくのが見えた。
「うにゃあああああああ!」
次に来るのは雷鳴だ。
ミルフィは怯え切り、我知らず部屋の中を駆け回った。
耳を塞ぎたいが、猫の身ではそれも叶わない。
足の短いソファーの下に潜り込み、できるだけ身を小さくして丸まった。
時を置かず、地響きのような雷鳴が響き渡り、ミルフィは再び悲鳴を上げた。
ミルフィは雷が大っ嫌いだ。
子どもの頃、ミルフィの寝室から見える高い木に雷が直撃した事があって、あの時の身の毛もよだつような恐怖は言葉では言い表せない。
閃光が大木を真っ二つにすると同時に、すさまじい衝撃がミルフィを襲い、そこから先の記憶がなかった。
雷の衝撃で窓ガラスは割れたが、幸い、ミルフィがいた場所は窓から離れていたため、ガラスで怪我をする事はなかった。
駆けつけてきた侍女のヒルダが床で倒れているミルフィを見つけてくれ、ヒルダの胸の中に顔を埋めてわんわんと泣いた事を今でも覚えている。
あの日からミルフィは雷が嫌いだ。
特に夜の雷が怖い。あの日の事を思い出してしまうからだ。
家にいる時は、恐くなればすぐにヒルダを呼び、雷が遠ざかるまで手を握ってもらっていた。
誰かが傍にいてくれると恐さも和らぐ。
もう成人したのだから雷くらい一人で我慢しないといけないと頭でわかっていたが、これは自分ではどうしようもなかった。
本能的に身が竦み、訳もなく叫びたくなる。
「みぎゃああああああああああ!」
ソファの下に蹲って狂ったように叫んだ。
恐い、恐い、恐い、恐い……。思うのはただそれだけだ。
どのくらい時間が経ったのか、不意に居間の扉が開け放たれ、誰かが部屋に駆け込んできた。
「ミリィ……!」
その影は焦ったようにミルフィを呼ぶ。荒い息遣いが聞こえ、寝所から焦って駆け付けてくれたのがわかった。
「みゃああああああああああん」
ソファの下に蹲っていたミルフィは弾かれたように飛び出した。
そしてその胸を目掛けて大きくジャンプする。
「ミリィ! 良かった」
力強い腕がミルフィを抱きしめ、ミルフィはその胸に縋りついた。
仄かなシダーウッドの香りがミルフィを包み込む。
ミルフィはレオーネのガウンに軽く爪を立てながら、強くしがみついた。
「ミリィ、恐かっただろう。もう大丈夫だ」
レオーネの心臓はどくどくと鼓動を打っていた。
雷で目が覚めるなり、ミルフィが心細がっているのではとすぐに気付き、夜着の上にガウンだけを羽織って駆けつけてくれたのだろう。
「みゅうううぅ」
ミルフィは頭をぐりぐりと胸に擦り付けた。
ミルフィの体温とレオーネの体温が入り交じり、籠ったような温もりにほっとする。
再び雷鳴が轟いたが、レオーネがあやすようにミルフィの頭を撫でてくれたのでちっとも怖くはなかった。
「しばらく雷が続きそうだな……。おいで、ミリィ。今日は私と一緒に過ごそう」
一人きりにされたくなかったミルフィは、「なおん」と小さく返事をした。
年頃の自分が王子の寝所に行くなんて慎みのない行為だとわかっていたが、幸い今は猫姿だ。
とにかく雷の恐怖から逃れたかったミルフィは、おとなしくレオーネに抱かれて寝所に向かった。
居間を出ると、入り口脇に騎士が控えていた。
ミルフィを抱いているレオーネの姿に瞠目したが、何も言わずに一礼をする。
王子の寝所に着くと赤毛の騎士が一人で扉を守っており、レオーネを見て軽く頭を下げた。
今まで付き従ってくれていた騎士は扉の前で止まり、赤毛の騎士の隣に立つ。
そう言えば数日前、王子が獣化のために寝所を訪れた時も、やはり今のように二人の騎士が寝所の入り口を守っていた事をミルフィは思い出した。
王子宮全体には厳重な警護が敷かれているが、寝所は特に王子が無防備となる場所だ。
だから昼夜を問わず、見張り役の騎士が詰めているのだろう。
寝所に入ったレオーネはベッドの枕元にミルフィを下ろした。
それから纏っていたガウンをソファの背に掛け、上掛けを捲って広々としたベッドに身を横たえる。
「ミリィ、おいで」
レオーネは上掛けを広げてミルフィを誘ってくれたが、さすがにそこに潜り込む訳にはいかない。
ミルフィは一応未婚の貴族令嬢で、レオーネは成人男性だ。
なので、捲ってくれた上掛けの反対側まで歩いていき、そこで体を丸めた。
「え。そこでいいのか?」
不思議そうに言われたが、淑女たるもの、男性のベッドにもぐりこむなどというふしだらな真似ができる訳がない。
「みゃおん(大丈夫です)」
令嬢っぽくお淑やかにそう返事をしたミルフィだったが、何とそのタイミングで再び閃光が夜空を切り裂いた。
「みょ……」
上掛けの上でミルフィは固まった。
この後きっとアレが来る。絶対来る。きっとすごく大きなやつだ。来る来る来る来る……。
ドオオオオオオオオオオオオオオオオォン!
雷鳴が部屋全体を揺るがして、堪らずにミルフィはレオーネの布団の中に潜り込んだ。
「ぶへっ!」
いきなり首の上に乗っかられた上、尻尾で顔を叩かれたレオーネが間抜けな声を上げた。
レオーネの顔に尻を向けて布団に潜り込んでいたミルフィは震える足を叱咤してレオーネの布団から這い出た。
それから謝るようにレオーネの首の傍で伏せをした。
「ミリィ……」
レオーネは、ミルフィに顔を向ける形で横向きになった。右手を枕の下で折り、「おいで」と手招きする。
「みゃん」
おそるおそる胸の中に入り込むと、レオーネは左手を回してミルフィの腰の辺りを抱きしめてくれた。
ちょうど目の前に来た二の腕に、ミルフィは前足と頭を預けた。
「もう寝るぞ」
そのままレオーネは目を閉じ、ミルフィはレオーネの腕の上に顎を乗せたまま、「みゃあ」と小さく鳴いた。
視察の疲れもあったのだろう。
レオーネはほどなく寝息を立て始め、それにつられたようにミルフィはふわあっと欠伸をした。
腕から伝わるレオーネの体温が心地よい。
窓の外ではまだ雷が鳴り響いていたが、ミルフィの傍にはレオーネがいた。
もう何も心配は要らないのだと心が納得し、ミルフィはいつの間にか夢の世界に旅立っていた。




