兄とお喋りする
イザークは左手にミルフィを抱き、マントで隠すようにして居殿内を歩いていた。
少し不自然な恰好になったが、見咎める者は特にいない。
向かう先は、王太子宮にあるイザークの部屋だった。
王太子に近しいイザークは、近衛隊の兵舎とは別に王太子宮に部屋をいただいている。
居間と寝室、洗面所があるだけの簡素な間取りだが、部屋を貸与されているだけで十分な栄誉だった。
部屋に着くと、ミルフィはすぐに洗面所を貸してもらった。そこにはミルフィの衣類一式が用意されていて、ミルフィはすぐに獣化を解いてドレスに着替える。
その後、手櫛で髪を整え、用意されていたリボンで後ろ一つに括って、洗面所の扉を開けた。
「お兄様、お待たせ致しました」
イザークが大きく腕を広げてきたので、ミルフィはその腕の中に飛び込んだ。
普通に暮らしていた頃はこの年で兄に抱き着くなんてあり得なかったが、兄にしっかりと抱き締めてもらうと、ようやく家族のもとに帰って来られたような気がする。
「たくさんご心配をおかけしてごめんなさい」
ミルフィが心の底からそう謝ると、イザークは「まったくだ」と笑いながら、ミルフィの頭に啄むようなキスを落としてくれた。
「いきなりいなくなって本当に心配したんだ。一体パークで何があったんだ?」
ウォールナットの肘掛け椅子にミルフィを座らせ、イザークはその斜め向かいにある椅子に腰を下ろす。
ミルフィは七日前に自分の身に起きた事について一から説明し始めた。
公園で元気のなさそうな第二王子を見つけ、好奇心からつい近付いてしまった事。
獣人を恐がらない猫に王子がすっかり執心してしまい、王宮に連れ帰ろうとされたので慌てて逃げ出そうとしたが、ジャケットを被せられてあっさり掴まってしまった事。
「殿下は私の事を捨て猫だと思い込んでいるのよ」
ミルフィは不満そうに兄に愚痴った。
「殿下の頭の中で、私はパークに迷い込んだ間抜けな猫みたい。失礼な話だと思いません?」
「うーん。間抜けじゃなくて、どんくさいだけなんだけどな」
イザークがそう返し、久しぶりに会えた妹にそこまで言う? とミルフィは横目で兄を睨んだ。
「それより、食事とかは不自由していないか?」
尋ねられたミルフィは思わず眉をへの字にした。
「一番最初は仕留めたばかりのドブネズミを出されたの」
「うわっ。確かに本物の猫なら喜ぶかもしれないな」
「次はぴっちぴちの生魚。あの時はもう溜め息しか出なかったわ」
ミルフィは当時を思い出し、遠い目になった。
「で、どうなった」
「殿下の晩餐についていって、勝手に殿下の皿に頭を突っ込んだの。お腹が空いて我慢できなかったから」
「叱られたか?」
「いえ。次の皿からは、私の分も料理が用意されるようになったわ」
寝る場所には衝立やバスケット、毛布などが用意され、食事に加えておやつまでもらえ、ミルフィは何不自由ない生活を送っている。
それを聞いたイザークは、心からほっとした笑顔を見せた。
「庭園の散歩もさせてもらったし、騎士の訓練場に連れて行かれた事もあったわ。
皆様、モフモフに飢えていて、私ものすごくモテたのよ」
「へえ。そりゃあ猫は可愛いだろうな」
人型だとそんなにモテないのになぁという、兄の正直な言葉が聞こえた気がして、ミルフィは思わずむっとした目で兄を見た。
どうせ、私はモテませんとも……!
「そう言えば、私は今どういう扱いになっているの?」
そろそろ婚約者を決めなくてはならない時期なのに、自分は王子宮に誘拐されてそのままだ。
王宮に来てからずっと気になっていた事を聞くと、イザークは小さく溜め息をついた。
「流行り病にかかって寝込んだ事になっている」
ミルフィが急に失踪したため、そうするしかなかったのだろう。
それまでに受けていたお茶会や昼食会の招待を軒並み断る形になっていて、今後ミルフィが貴族令嬢に戻った時、社交に誘ってくれる貴族がいるのか、ミルフィは若干の不安を覚えずにはいられなかった。
「まあ、そっちの方は何とかなる。
それよりも父上と母上を納得させる事が難しかった」
「納得させるって何を?」
「ほら、両陛下も王太子夫妻もミルフィの正体をご存じなのに、どうしてレオーネ王子殿下には伝えないのかって問い詰められた。
事情を話せばすぐに返してもらえる筈なのにどういう事なんだと聞かれ、ごまかすのが大変だった」
ミルフィは何とも言えない顔になった。
デリカシーに乏しいイザークだが、年頃の妹が王子から体を臭いと言われた挙句、破廉恥にも体中を洗われたとは、さすがに親に伝えにくかったようだ。
心遣いはありがたかったが、ミルフィにもどうも答えようもなく、軽く肩を竦めておいた。
翌日、兄と二人で朝食を済ませた後、ミルフィは再び猫に変態した。
今日のミルフィは、王太子から密命を受けている。その密命を果たそうと朝から気合い満々だった。
絶対に期待に応えてみせると自分に強く言い聞かせていると、「おい、右前足と右後ろ足が同時に出ているぞ。大丈夫か」とイザークから声を掛けられた。
「少し肩の力を抜け。張り切り過ぎだ」
「みょおん」
思わぬ陰謀を知ってしまい、かなりテンパってしまったようだ。
これではいけないと、ミルフィはとりあえず自分を落ち着かせる事にした。
部屋の隅にちょうどいい大きさの花瓶を見つけ、ミルフィはその中に体を潜り込ませた。
空間がぴったりと体に沿うこの感覚が堪らない。
花瓶から頭だけを出してしばらくきょろきょろと辺りを見渡していたら、何かの拍子にバランスを崩して花瓶が倒れ、花瓶ごと床を転がる羽目になった。
「うにゃああああ!」
高速で花瓶が回転し、中に入っていたミルフィは堪ったものではない。
何とか花瓶から這い出たが、完全に目が回ってしまい、ふらふらと斜めに歩いてほてっと転び、再び起きて二、三歩歩き、すぐにぼてんと床に沈んだ。
「何やってるんだ?」
呆れたように兄に声をかけられたが、返事をする気力もない。
見たらわかるでしょと、心の中で反論だけした。
朝から無駄に疲れた……と、ミルフィはぐったりと床にのびた。
でも、お陰で変な気負いがなくなったのは却って良かったかもしれない。
その日もシャーロット妃の居間にはアンドレアス伯爵夫人とルナス伯爵夫人しかいなかった。
シャーロット妃は普段と変わらぬ穏やかな笑みでお二人と談笑している。
やがてお茶の時間が来ると、ルナス伯爵夫人はごく自然に席を立ち、メイド達が運んできた紅茶セットでお茶を淹れ始めた。
ミルフィは昨日と同じようにマントルピースの上に飛び乗り、鏡の前で毛繕いを始めた。
今日ルナス伯爵夫人が身に着けているのは、薄紅色をしたハーフスリーブのドレスだ。
ドレスの袖と二の腕の間にすっと指を差し入れたルナス伯爵夫人は昨日と同じ形の紙包みを取り出すと、手早く中の粉をカップに入れた。
ミルフィがシャーロット妃に向かって、「みゃおう」と甘えるように鳴くと、シャーロット妃は軽く頷いた。
今日もルナス伯爵夫人がカップに何かを盛ったと伝わったようだ。
ルナス伯爵夫人が淹れたばかりの紅茶をシャーロット妃の前のテーブルに置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
シャーロット妃は自然な口調で答え、ふと思い出したように部屋の向こうを見た。
「ジュビエーヌ、向こうの肘掛け椅子の上にある手毬を取ってもらえないかしら。
後でミリィと遊びたいの」
「畏まりました」
ルナス伯爵夫人が背を向けた時を見計らって、アンドレアス伯爵夫人が自分のカップとシャーロット妃のカップをすっとすり替える。
ルナス伯爵夫人が手毬を手に振り返った時、シャーロット妃は先ほどテーブルに出された紅茶を口に含んだところだった。
それを目で確認したルナス伯爵夫人が笑みを深めたのをミルフィは見逃さなかった。
おそらくシャーロット妃も気付いておられる筈だ。
この日の午餐も、昨日と同じように王太子夫妻とご一緒した。
食事が終わり、テーブルに置かれているのが食後の紅茶とデザートだけになってから、ミゼルが徐に口を開いた。
「それで今日はどうだった?」
午前中の様子をずっと確かめたかったようだが、給仕の人間が何度も出入りしていたため、聞くのを我慢していたようだ。
今この場には、王太子夫妻とミルフィの他には、ミゼルが信頼する侍従長しかいない。
ここにいる白猫がタウジ家伯爵令嬢であると、王太子宮で唯一知っている人間だ。
シャーロット妃が事の顛末を話すと、「やはり仕掛けてきたんだな」とミゼルは唇を歪めるようにそう呟いた。
昨日、粉薬を飲ませる事に失敗しているのだ。むしろ何も仕掛けて来ない方がおかしかった。
「ジュビエーヌの部屋の探索はどうなっておりますの?」
そう問いかけたシャーロット妃に、ミゼルは小さく首を振った。
「午前中、夫人の部屋を探ったが、調べた範囲では見つからなかったと聞いている。
ただ、面白いものがあったそうだ。金の台座の上に卵型の入れ物が乗った珍しいオブジェで、鍵まで付いていたらしい。
後、チェストの一番上の引き出しにも鍵がかかっていて、その二か所が怪しいようだと報告があった」
「そうでしたの」
「午後、ミリィと一緒に母上の居室を訪問する際に、ジュビエーヌを随伴させてくれ。
母上付きの女官が夫人をもてなしたいと言っていた。
王妃と王太子妃、それぞれの女官が交流を深めておく事は重要だからな」
「わかりました」
そう言う名目でルナス伯爵夫人を王妃の居殿に引き留めるのだとミルフィにもわかった。
その間に王家の影が再びルナス伯爵夫人の部屋に侵入し、証拠を押さえる予定なのだろう。
午餐を終えたミルフィは、用意されたバスケットの中でそわそわと体を動かしていた。
今日は、シャーロット妃が王妃様の居室を訪れると、そこにたまたま王様が寛いでおられたという手筈になっている。
落ち着け、自分! とミルフィは自分を叱咤した。
この国を統べておられる王様夫妻とお会いすると思ってしまうから緊張してしまうのだ。
これから会うのは、ちょっと無神経でやたら匂いを嗅ぐのが好きな愛猫バカのご両親だと思えばいい。
あの愛猫バカ様は、今頃きっと視察先で至れり尽くせりの接待を受けているのだろう。
確か、国境騎士団には女性騎士が在籍していると聞いた事があった。
王子は女性嫌いだから無駄に鼻の下を伸ばすような事はないだろうけれど、あれだけ格好いいのだから絶対に女性騎士達から心の中できゃーきゃー騒がれている。
それを思うとちょっぴり気分が沈んだ。
レオーネの事を考えているうちに、いつの間にか王妃様の居室に到着したようだ。
手筈通り、王様も居室にいらっしゃるようで、シャーロット妃がお二人に向かって丁寧にご挨拶をした。
いよいよだわと、ミルフィはバスケットの中で体を固くした。
猫姿で会うのだから、別に御大層な挨拶を口にする必要はない。前足を揃え、いつも通り甘く鳴いておけばいい。
と思ったところで、ミルフィの顔からザーと血の気が引いた。
そもそも猫ってどう鳴くんだっけ?
「なおん」だっけ、「みゃおぅ」だっけ、それとも「にゃあ」だった?
「うにょう?」
ミルフィはパニクった。
バクバクと心臓が鼓動を打ち、ぶわっと毛が逆立った。
確か、右前足と右後ろ足は交互に出してあるくんだよね。でもって、尻尾はどうするのが正解なの?
一人で焦りまくっているミルフィに関係なく、バスケットの蓋が無情にも開けられる。
万事休す……!
ミルフィは心の中でひええええ! と叫びながら固く目を瞑った。




