とんでもない現場を見る
もやもやする思いを抱えながら、ミルフィはレオーネの居殿に戻った。
「ミリィ、お帰り」
執務室から戻ったレオーネが待ちかねたように近付いてきて、ミルフィの体を大事そうに抱き上げる。
「向こうでもいい子にしていたか?」
「にゃぁん」
レオーネの広い胸にミルフィは頭を擦り付けた。
それからこっそりとレオーネの匂いを嗅いだ。ここ数日嗅ぎなれた匂いなので、この匂いに包まれていると何だか安心する。
この王子の変態要素が自分に移ってきたようで、別の不安が頭を擡げてくるが、これだけ餌付けされたらどうしてもそうなるだろうと自分を納得させた。
「見てみろ、セバス。ミリィが初めて自分から私に甘えてくれたぞ!」
小躍りしそうな声でレオーネが言い、「それはよろしゅうございました」とセバスが淡々とそれに応じる。
それからいたずらっぽく笑んで、ミルフィに話しかけてきた。
「ミリィ様もすっかりこちらの生活に慣れて来られたようですね。
ミリィ様。殿下は大層おモテになる方です。
気をつけないと、ご寵愛を取られてしまうかもしれませんよ」
「みゅ?」
セバスのちょっとした冗談だとわかっていたが、ミルフィの心は強くざわついた。
レオーネ王子ってやっぱりモテるんだろうな……とミルフィは頭を上げてレオーネを見た。
レオーネは王妃様譲りの顔立ちをされていて、見た目が申し分なくいい。
目元は涼やかで鼻筋がすっと通り、全体的にシャープな顔立ちをしていた。
特に色気を感じるのが唇だ。ラインがくっきりとして、小ぶりで形が整っている。
見てくれは童話の世界に出てくる白馬の王子様そのもので、これといった瑕疵が見当たらなかった。
ミルフィを勝手に捨て猫扱いした、思い込みの激しい勘違い男のくせに……とミルフィは心の中で小さく毒づいた。
誘拐した上に屈辱的な首輪をミルフィにつけ、花も恥じらう乙女の体を触りまくった変態だが、猫のミリィに対してはあくまで一途で、だからどうしても絆されてしまう。
そう言えば王子の格好悪いところはあまり見てないなとミルフィは思った。
剣の腕も相当なものだったし、弓だってうまかった。寛いでいる時もどこか品があって、所作の一つ一つが美しい。
そりゃあくさるようにモテる筈よね。
何だか面白くなくなってきたミルフィは、レオーネの腕の中からぴょんと飛び降りた。
格好良く着地を決めるつもりが、レオーネの袖口のレースに後ろ足の爪が引っかかり、体がぐるりと反転する。
「にょ?」
次の瞬間、爪がレースから外れ、ミルフィは体勢を整える間もなく、そのままべたんと落下した。
「ミリィ!」
床に伸びたミルフィをレオーネが慌てて抱き上げる。
「今、盛大に腹打ちしなかったか! 大丈夫か?」
ミルフィは痛みに悶絶していた。
高さは余りなかったが、まったく受け身をとれずに腹から落ちたため、その衝撃はかなりのものだ。
「うにょおおおおおおおお!」
ミルフィは痛みを散らすように大きく叫んだ。
それもこれも、ミルフィを攫ってきたこの王子が悪い!
そうでも思わなければ、とてもやっていられなかった。
翌日はいつものようにバスケットに入れられ、王太子の居殿へ連れていかれた。
いつもは午前中だけこの居殿で過ごすが、今日は違う。
レオーネは、ひと月前から決まっていた国境騎士団の視察に泊りがけで出かけていき、ミルフィは今日一日、こちらの居殿に滞在する予定になっていた。
夕食後に王子の居殿に戻されてもどうせレオーネはいないから、もしかしたらこちらの居殿にお泊まりになるのかもしれない。
王太子殿下の護衛をしている兄様の部屋に泊まらせてもらえたらいいなと、ミルフィは密かにそんな野望を膨らませた。
今日もバレルモ伯爵夫人は場にいなかった。
明日の午前中までお休みをいただいているようで、シャーロット妃の傍に控えるのはアンドレアス伯爵夫人とルナス伯爵夫人だけである。
いつものようにルナス伯爵夫人が紅茶を淹れ始め、何もする事がなかったミルフィはマントルピースの上に飛び乗り、その上に飾られた鏡の前で体操を始めてみた。
お尻を床につけたまま、前足を思い切り伸ばして伸びのポーズ。
次は人間気分に戻って後ろ足で起立した。胸の前で前足をクロスし、今度は体を思い切り右に捩じってみた。
体が伸びて気持ちが良かったが、鏡で見ると格好が何だか間抜けである。
誰も見てやしなかっただろうなとミルフィは慌てて周囲を見渡したが、幸いシャーロット妃達は刺繍に夢中で、ミルフィのこの奇行には気付いていない様子だった。
鏡の方に視線を戻せば、サイドテーブルでお茶を入れているルナス伯爵夫人の姿が見えた。
ルナス伯爵夫人はテーブル席に背中を向ける形でお茶の準備をしているため、いつも手元が全く見えないのだが、ちょうどこの位置からは鏡越しに良く見える。
砂時計で時間を計っていた夫人がカップを温めていたお湯を壺の中に捨て、すっと袖口に手を滑らせた。
取り出した紙包みを素早く開き、一つのカップの中に白い粉を入れ、何事もなかったように空の紙包みを袖の中に戻す。
今、この方は何をしたの……?
ミルフィは鏡の前で凍り付いた。
夫人は何事もなかったように紅茶ポットを手に取り、ティーストレーナーを使ってカップに紅茶を注ぎ始めた。
最後の一滴まできちんとカップに注ぎ、銀の盆にカップを乗せて、シャーロット妃の待つテーブル席へとお茶を運ぶ。
「ミリィ、いらっしゃい。一緒にお茶をいただきましょう」
シャーロット妃がそう声をかけてくれ、ミルフィは金縛りから解けたようにテーブルの方に体を向けた。
ルナス伯爵夫人が柔らかく笑んで、シャーロット妃の前に紅茶カップを置く。
いかにも善良そうなその笑顔が今は恐ろしかった。
自分が何かを混ぜた紅茶を、ルナス伯爵夫人は平然とシャーロット妃に飲ませようとしている。
あの白い粉が何であるのかはわからなかったが、絶対に阻止しなければならないと思った。
ミルフィはシャーロット妃の許に駆けて行き、その胸の中にぴょんと飛び乗った。
「まあミリィ、どうしたの?」
優しく問いかけてくるシャーロット妃に甘えるように頭を擦り付けながら、ミルフィは尻尾をわざと紅茶の中につける。
「みぎゃあ(熱っ)!」
思ったよりも深くカップに浸かってしまい、余りの熱さにミルフィは悲鳴を上げた。
熱さを散らそうと思わず尻尾を振ってしまい、毛についていた紅茶が飛び散って、場は瞬く間に騒然となった。
「何てお行儀の悪い猫なの!」
ルナス伯爵夫人が怒ったように叫び、ミルフィは慌ててシャーロット妃の膝から降りて、身を伏せた。
シャーロット妃は驚いたようにミルフィを見つめている。
この面々の中で唯一ミルフィの正体を知るシャーロット妃は、やんちゃに見せかけたミルフィの行動に何らかの意図を感じ取ったようだ。
ミルフィはテーブルの上のカップに視線を向け、それから再びシャーロット妃と目を合わせて、「みゃおん」と小さく鳴いた。
この紅茶は飲んではいけないとミルフィが警告した事に気付いたのだろう。
シャーロット妃は小さく息を呑み、軽く頷いた後、優しくミルフィに手を伸ばしてきた。
「ミリィ。怒っていないからこちらにいらっしゃい」
ミルフィはほっとしてシャーロット妃の膝の上に飛び乗った。
「妃殿下。よろしければ、私のお茶をどうぞ」
アンドレアス伯爵夫人がシャーロット妃のカップを脇にやり、自分のカップを差し出した。
それから呼び鈴を引き、飲めなくなったカップをメイドに下げさせ、新たに紅茶を一人前持ってくるように命じた。
「ミリィ。怪我はない?」
猫なで声で問い掛けてくるのはルナス伯爵夫人だ。
先ほど感情のままにミルフィを罵ってしまったので、挽回しようと思ったのだろう。
その顔は笑みを湛えているが、目は笑っていない。計画を台無しにされ、ひどく腹を立てているようだった。
あの白い粉は何だったのだろうとミルフィは考えた。
こっそりと紅茶に混ぜるくらいだから何か良からぬものである事は確かだが、即効性の毒であったとは考えにくい。
紅茶を飲んですぐに妃殿下が倒れられたら、疑いは真っすぐにルナス伯爵夫人に向かうからだ。
ルナス伯爵夫人の袖口には、粉を包んでいた紙包みが隠されている。
その場で拘束されれば言い逃れはできよう筈がなく、そのような愚かしい事をするとは思えなかった。
ルナス伯爵夫人は誰と繋がっているのだろう。
そしてその何の目的であのような事をしたのだろうか。
平和であった王太子宮が、急に陰謀の渦巻く恐ろしい場所のように思えてきた。
言い知れぬ不安を覚えながら、ミルフィはシャーロット妃の膝の上で体を丸める。一刻も早く誰かにこの事を伝えたかったが、猫の身ではどうする事もできなかった。
その日の午餐はミゼル王太子とシャーロット妃の三人(二人と一匹?)でいただいた。
ミゼルは午後の公務を入れておらず、午餐の後はシャーロット妃とのんびり過ごされるようだ。
王太子妃の居間ではなく、王太子が客人を招く百合の間に場所を移動した時、兄イザークの姿を見かけた。
兄を見るのは四日ぶりだ。
部屋にはまだ王太子の侍従長が残っていたが、ミルフィはもう我慢がならなかった。
シャーロット妃の腕の中から飛び降り、矢も楯もたまらずイザークの胸に飛び込んでいく。
「みゃあああん(兄様)!」
何やら布に包まれたものを手にしていたイザークは、片手で起用にミルフィを受け止め、ほっとしたように額にキスを落としてくれた。
「みょうおおぉん」
甘えるようにミルフィが鳴き、それを見ていたミゼルが小さな溜め息をつく。
「おい、イザーク。私の弟の前でそれをするなよ。
怒り狂って何をするかわからんぞ」
その言葉に、イザークは思わず苦笑する。
「おや。それほどにレオーネ殿下はこの子がお気に入りなのですか?」
「この子がいないと、夜も昼も明けないという感じらしい。
いつもは公務に文句を付ける事などないのに、今朝は出かける時に散々渋ったという話だ」
そう言えばそうだったなとミルフィは思い出した。
とにかく出かける直前までミルフィを離そうとせず、ひたすらモフられ、匂いを嗅がれまくった。
他の人間には懐くなとか、簡単に餌付けされるなとか、一刻ごとに私を思い出せとか、十個くらい訳のわからない事を言われた覚えがある。
あれだけ別れを惜しまれると、ミルフィだって悪い気はしない。
殿下も気を付けてねと、つい人間のように右の前足を持ち上げ、「いってらっしゃい」ポーズを披露してやった。
サービスの大盤振る舞いだ。
どや顔でレオーネを見ると、感激のあまり固まっていたレオーネがいきなりがばっとミルフィを抱きしめてきて、容赦ない抱擁に危うく絞め殺されるかと思った。
「ぎょえ!」と悲鳴を上げるミルフィを見たセバスが慌ててレオーネを止めてくれ、何とか腕から抜け出す事ができたが、あのまま締め付けられていたら酸欠を起こしていたかもしれない。
そんな事をつらつらと思いだしている間に、いつの間にか侍従長もいなくなって、王太子夫妻とイザーク、そしてミルフィだけの四人になっていた。
ミゼルがイザークに目配せをすると、イザークがミルフィの首輪を外してくれた。
「みゃお?」
首を傾げるミルフィに、イザークは手にしていた布包みを軽く振ってやる。
「お前の着替えだ。なるべく一人で脱ぎ着できるドレスを用意させた。
衝立の向こうで着替えて来い」
え。人型に戻っていいの?
ミルフィはぱあっと顔を輝かせた。




