不穏な噂
翌日はレオーネと一緒に朝餐を済ませた後、いつも通り王太子の居殿へと向かった。
「ミリィ、いらっしゃい。待ちかねていたわ」
シャーロット妃がすぐにテーブルから立ち上がり、バスケットに入っていたミルフィを優しく抱き上げてくれる。
テーブルの上には刺繍糸や針山、刺繍途中の布などが置かれている。
どうやら皆で刺繍をしながら、話に花を咲かせていたようだ。
「今日はバレルモ伯爵夫人は休みを取っているの。
ご令嬢のご結婚が間近だからいろいろ忙しいようね」
シャーロット妃の言葉に、バレルモ伯爵令嬢は三つ年上の侯爵令息に輿入れされるのだったわとミルフィは思い出した。
「王太子妃殿下自らが刺繍されたサシェをいただけるなんて、ご令嬢は幸運なお方ですわ」
ルナス伯爵夫人がそう言い、傍らに座るアンドレアス伯爵夫人が微笑みながら頷いた。
「婚家でもさぞ喜ばれる事でしょう。ご令嬢にとって何よりの箔付けとなりますもの」
王太子妃手ずから刺繍をしたサシェには計り知れない価値がある。令嬢にとってはこれ以上ないお祝いになるだろうとミルフィはシャーロット妃の手元を見た。
用意されていたのはゼニスブルーの生地で、布には薄く図案が描かれていた。
蔦と花が絡み合ったようなデザインで、花びらがようやく一つ仕上がったところだ。
テーブルには、淡い紅赤色から鮮やかな真紅まで様々な色合いの赤が取り揃えられていて、シャーロット妃はそれを見事に使い分けていた。
「あの、妃殿下。
バレルモ伯爵夫人がお休みをとられている時で申し訳ないのですが、今日は午後からお休みをいただいてよろしいでしょうか」
申し訳なさそうにルナス伯爵夫人が口を開き、刺繍の手を留めたシャーロット妃が「勿論ですとも」とにっこりと笑った。
「今は忙しい時期ではないし、アンドレアス伯爵夫人がいるから大丈夫よ。
貴女はいつも半日しか休みをとらないけれど、もう少し長いお休みを申請してくれても構わないのよ」
「そうよ。貴女ほどではありませんが、私も紅茶くらい淹れられますからね」
アンドレアス伯爵夫人がそう声を掛け、「滅相もございません」とルナス伯爵夫人が笑う。
「私は好きでさせていただいているだけですわ。
皆様に楽しんでいただけて、これほど嬉しい事はありませんの」
「そろそろ目も疲れてきたから、お茶休憩にしましょうか。ミリィはどう思う?」
シャーロット妃の言葉にミリィがすさかず「なおん」と合いの手を入れ、場の皆が噴き出した。
「あら。ミリィ様もおやつに賛成のようですわね」
アンドレアス伯爵夫人が笑いながら、刺繍の道具をテーブルの脇に片付け始めた。
この日のおやつはクリームが挟まれた絶品のビスキュイだった。
ミルフィは行儀よく足を揃え、お上品にお菓子をいただいていたが、お茶会の話題は和やかとは到底言い難い類のものだった。
「ここだけの話ですけれども、どうやらレジナルド公に不穏な動きがあるようです」
一口目の紅茶をいただいてから、アンドレアス伯爵夫人がそう話を切り出した。
「妃殿下にはご不快な話題かもしれませんが、そういった動きがある事だけはお心に留めておかれた方がよろしいかと思いまして」
「どうやら、いい話ではないようね」
シャーロット妃は小さく溜め息をついた。
「構わないわ。どうぞ話してちょうだい」
「今度の御前会議で、レジナルド公は王位を継承できる男性王族の減少を議題に出されるつもりのようです」
シャーロット妃が思わず息を呑んだ。
成婚後三年が経つが、シャーロット妃には未だ懐妊の兆しがない。
その事は廷臣らの間でひそかな話題となり始めていて、そうした現状に一番心を痛めているのがシャーロット妃本人でもあった。
「ただ議題に出して終わるつもりはないでしょう。レジナルド公は何を望んでおられるのですか」
やや険しい顔でそう尋ねたルナス伯爵夫人に、アンドレアス伯爵夫人は小さな溜め息を零した。
「レジナルド公が望んでいるのは、五代前のハリー王が暫定的に施行したレドルス法の復活です」
「レドルス法の復活……」
シャーロット妃が動揺を隠すように瞳を伏せた。
ハリー王は高い統治力とその残虐性で後世に名を残した王で、領土を広げ、絶対王政をモルド国に確立させた立役者でもある。
英雄色を好むと言われるが、ハリー王もまた奔放な女性関係で知られていて、王妃以外の女性に複数人庶子をもうけていた。
ただし王妃は子を身籠る事ができなかった。
モルド国では正嫡の男系男子の獣人にのみ継承権を許していて、正妃との間に子をもうける事ができなかったハリー王は、年を重ねるごとに危機感を募らせていったらしい。
王には同母の弟がおらず、継承権を持つ従兄弟は複数名いたが、正嫡の男児をもうける事ができたのは一人だけだった。
このままでは王統が絶えてしまうと案じたハリー王は、王族の数を増やすために王侯貴族の離縁を許可する法律を制定した
その法律こそが、世に言うレドルス法だった。
ハリー王はその後、法令に準じて王妃を離縁し、次に迎えたグラディシア妃との間に二男五女をもうけた。そしてグラディシア妃が三十代後半になると二度目の離縁をして、すでに王の男児を一人生んでいた側妃アニスを次の王妃に据えた。
アニス妃はその後更に、二男三女をもうけたと史書に記されている。
これにより王家存続の危機は回避されたが、女性を余りにも蔑ろにしたこのやり方には反発も大きかった。
ハリー王の死後、このレドルス法は廃止され、以来法の是非が審議された事はない。
「レジナルド公は、ハリー王に通じるところもございますから」
どこか皮肉げな口調でアンドレアス伯爵夫人が言い、ああ、そうかとミルフィはようやく気が付いた。
レジナルド公の発言は王家嫡流の先細りを憂えたものではなく、自分の欲が優先されたものだ。
レジナルド公もハリー王と同様、正妃マリアーナとの間に子がいない。
だからこそ子を孕めないマリアーナ公妃を離縁して、跡継ぎをもうけたいのだろう。
「何と恥知らずな……!」
ルナス伯爵夫人が声を荒げた。
「今まで散々マリアーナ公妃を蔑ろにしてきて、その挙句に離縁ですか。
公妃のお父君であるドルーソン侯爵も、そのような横暴をお許しになる筈がありません」
そう言えば、レジナルド公とマリアーナ公妃の仲の悪さは有名だったわとミルフィは思い出した。
長身痩躯で洒落者のレジナルド公と、抜けるように白い肌をした色香に溢れる美貌のマリアーナ妃は、当初これ以上ない似合いの夫婦だと言われていた。
が、二人の間にはなかなか子ができず、そうこうするうちに元々色好みだったレジナルド公が大ぴらに浮気を始めた。
気に入った使用人を口説くようになり、相手が靡かなければ力づくで寝所に連れ込んで欲望を満たす。
最初の一、二年は、子ができぬ自分にも責任があるのだと公妃は不満を呑み込み、何とか夫婦生活を維持していた。
けれどレジナルド公はそうした公妃の寛容さに胡坐をかくようになり、だんだん大っぴらに浮気をするようになっていった。
愛人関係にある未亡人を平気で夜会に伴うようになり、公妃がその場にいても素知らぬ振りだ。
更には無垢な貴族令嬢にも興味を示し始め、経済的な支援と引き換えに、その女性を愛人として居殿に迎え入れた。
その後、その愛人との間に獣人男児が生まれ、レジナルド公は狂喜乱舞したと聞いている。
ただし、レジナルド公がどれほどその子どもを可愛がろうと、所詮は愛人の子だ。
その子は愛人の生家の名を名乗り、レジナルド公は自分が持つ王族としての恩恵をその子どもに与える事は叶わなかった。
そうした事情もあって、レジナルド公はマリアーナ公妃の存在自体を疎むようになったらしい。
マリアーナ公妃は身の危険を覚えるようになり、王宮外の別邸に居を移し、現在は公式な行事がある時だけ夫と行動を共にするようになっていた。
夫からの毒殺を恐れているようだと専らの噂だった。
「もしこの事を知ったら、ドルーソン侯爵はどう動くかしら。
マリアーナ公妃の現状を誰よりも苦々しく思っていらっしゃるのはあの方だわ」
「そうですわね……」
シャーロット妃の言葉にアンドレアス伯爵夫人はちょっと考え込んだ。
「離縁ともなれば、マリアーナ公妃は王族妃としての身分や名誉、それに伴うすべての恩恵を失う事になりますから、受け入れ難い話である事は確かです。
一方でドルーソン侯爵は、大事な娘が夫からの暗殺に怯えて暮らすという現状を憂えておいででした。
いわゆる保守派はこの法の復活に強硬に反発すると思われますが、ドルーソン侯爵はどうでしょうか。
広い視野でマリアーナ公妃の今後を考え、この発議に賛成する可能性もない訳ではありません」
「そうね」
シャーロット妃は小さく溜め息をついた。
マリアーナ公妃の喉元に突き付けられた今回の提案は、そのままシャーロット妃に向かう刃でもある。
離縁が認められていないモルド国でこの立場が脅かされるなど考えた事もなかったが、レドルス法が復活すれば、シャーロット妃を引きずり降ろそうとする動きが方々から出てくるのは必至だった。
「アンドレアス伯爵夫人、この件を教えてくれてありがとう。
私も少し考えてみる事に致しましょう」
シャーロット妃はそうやって会話を終わらせ、何事もなかったように、次回王宮で開かれる夜会の招待客について皆の意見を聞き始めた。
心の中で嵐が吹き荒れていても、決して穏やかな笑みを崩さない。
すごいお方だと、ミルフィは改めて尊敬の念を強くした。
御前会議はゼロと五のつく日に行われると聞いているから、まだ日にちに余裕がある。
けれど、いずれレジナルド公は会議にこの議題を持ち出し、王宮は大いに荒れるだろう。
まずやり玉に挙げられるのは王太子夫妻だが、第二王子のレオーネも無関係ではいられない。
王国第二位の王位継承者として、その婚姻が大いに注目されるようになる筈だ。
元々、成人した第二王子に未だ婚約者がいない事の方が不自然なのだ。
今までは、急ぐ事ではないと王太子殿下が庇っておられたようだが、これからはそうもいかなくなるだろう。
レオーネ王子が特定の令嬢を居殿に招くようになった時、自分はどうすればいいのだろうとミルフィはふと考えた。
愛玩動物であるミリィと婚約者候補とではその重みが全然違う。
ミリィなど二の次で、候補となった令嬢に優しくするレオーネの姿を想像しただけで、ミルフィは胃の腑がずんと重くなった。
美味しい筈のビスキュイがまるで砂を食むような舌触りに変わり、ミルフィはしょんぼりと椅子の上で丸まった。




