夜の散歩
シャーロット妃のところから戻ると、御前会議に出席していたレオーネが待ちかねたようにミルフィのところにやってきた。
「向こうでお菓子をいただいたんだって?
余り食べ過ぎると、そのうち豚猫になるんじゃないか?」
豚猫ですと?
開口一番放たれたあり得ない言葉に、ミルフィは毛を逆立てて「シャー」と威嚇した。
お帰りと優しく出迎えてくれるならミルフィだって喜んで甘えにいくが、そこまで言われては愛想を振りまく気にもなれない。
そのままふんとそっぽを向いていると、セバスがこっそりと王子の男心とやらを教えてくれた。
「殿下はミリィ様をシャーロット妃殿下に取られるのではないかと心配しておられるのですよ。
何と言っても殿下はミリィ様に夢中ですから、ミリィ様にとってもご自分が一番でいたいのでしょう」
だからって、人を(猫を?)豚扱いするとは失礼千万である。
確かに最近はろくな運動もせず、美食だけを味わっているが、お腹にはまだそんなにお肉はついていない……筈だ。
というか、そう思いたい。
「ああ。ずぶ濡れで、毛がぺったんとしたミリィも可愛かったのだがな。
もうこの手でお風呂に入れられないなんて、残念で仕方がない」
ミルフィを抱き上げてふんふんと匂いを嗅いだレオーネは、体中きれいに洗ってもらって仄かに石鹸の匂いが漂うミルフィにちょっぴりがっかりしていた。
どうやらミルフィの世話は全部自分がしたかったようだ。
「まあ、いい。とりあえず、昼を一緒に食べよう。
残念ながら午後は、プロヴァンス侯爵夫人のサロンに呼ばれているんだ。
晩餐まで帰れないが、おとなしく待っていてくれ」
プロヴァンス侯爵と言うと、王様の母方の従兄弟でいらっしゃる方よねと、ミルフィは頭の中から王家の家系図を引っ張り出した。
先の王妃様は二年前に亡くなられていて、その兄君の嫡男が現プロヴァンス侯爵だ。
領地の場所やその特産、親族や交友関係などをつらつらと頭に描き、記憶はまだ錆びていないとミルフィは内心でガッツポーズをした。
ここ数日の自堕落な生活のせいで、覚えていた事が脳から溶け出してしまわないか心配だったが、今のところ大丈夫のようである。
「その代わり、夜は一緒に遊ぼうか」
何も知らないレオーネが能天気にそう声をかけてくれ、「みゃおん(はぁい)」とミルフィは元気よく返事をした。
午餐が済んだ後、夕方までどうやって過ごそうとミルフィは考えた。
猫に変態して今日で五日目。とりあえず日常に戻るために必要な事はすべてやった。
自分の無事を兄に伝える事はできたし、後は折を見て令嬢に戻してもらうだけだ。
その折というのが、いつになるのかはわからないが……。
ここ五日、淑女の勉強を何もしていないなとミルフィは溜め息をついた。
歴史や修辞学といった教養や家の采配についての学び、令嬢にとって必須と言われるダンスや刺繍、楽器演奏。
それにも増して大事なのが貴族社会で人脈を作る事で、いくら頭の中に王侯貴族の名やその人間関係を叩き込んでいても、交流を持たなければ何の役にも立たない。
ミルフィはがっくりと項垂れた。
これがまだ、デビュー前ならば良かった。
呼ばれるお茶会は親族や知り合いの家に限っていて、出席を断っても大きな問題にはならない。
けれど今、家に舞い込んでいるお誘いはそうではなかった。
特に今日、出席する予定だった祖父のアマンテ伯爵主催の夜会は、ミルフィのお披露目を兼ねたものだった。
本当なら前日の晩から祖父の邸宅に泊まり、夜会の最終的な打ち合わせをする予定だったのが、それが全てお流れになってしまった。
準備をしてくれていた祖父も、かなりがっかりしているだろう。
夜会以外の招待状も、ミルフィの体調不良という理由ですべてを断っていると思われるが、そのうち病弱という噂が定着してしまったら、この先いい縁談がミルフィに持ち込まれる事はなくなってしまう。
家名を次代に繋げる事を第一義とする貴族家が、わざわざ体の弱い令嬢を妻に迎え入れたいとは思わないからだ。
お先真っ暗だわと、ミルフィは心に呟いた。
ミルフィだって、恋に恋するお年頃。
夜会でミルフィを見初めた令息から縁談を申し込まれるという夢を幼い頃からずっと温めてきたというのに、このままでは見初められる機会さえ失ってしまう。
しかも来月は行事が目白押しだった。王都の一大イベントである武闘大会や、国を挙げての建国際。
念願の社交デビューをようやく果たし、これからいよいよ婚活が始まろうかという大切な時期に、自分は一体何をしているのだろう。
それもこれも、自分をパークで拐ってきたレオーネ王子がすべて悪いのだ。
「うにょおおおおおおお(家に帰せ~)!」
床の上をゴロゴロと転げまわって鬱憤を晴らしていたら、おやつを運んできたセバスから、「お元気そうで何よりです」と微笑ましそうに声を掛けられた。
思わずきっと睨んだミルフィだが、器の上に盛られたアイスクリームを見つけ、不満はすべて消し飛んだ。
夏の時期の氷は大層貴重だ。
もしかすると金箔よりも値段が張るかもしれない。
アイスクリームを作るには、冬場の間に切り出されて氷室で保存されているそれを早馬で届けてもらい、それに卵や牛乳などを加えて作ると聞いた事があった。
勿論、タウジ家では出された事がない。
親族のお祝いに行った時に、一度だけ出された事があって、初めてアイスクリームを食べたミルフィはそのおいしさに身悶えたものだ。
王族か大貴族くらいしか普通は手に入れられないという『お氷様』を使って作った贅沢なアイスクリーム……。
ミルフィの目は、もうアイスクリームに釘付けである。
「王太子宮で出されるおやつよりも、こちらの方が気に入る筈だと殿下がおっしゃっていました」
「みょん(気に入りました)!」
どうやらレオーネ王子は自分の優位性をミルフィに見せつけたかったらしい。
お皿の前でミルフィは両足を揃えてきちんと座り、上品にアイスクリームを味わった。
……絶品だった。
レオーネに誘拐されて良かったと、初めて思ったミルフィだった。
その晩、ミルフィはレオーネに夜の散歩に誘われた。
「ちょうど常盤蓮華の花が咲いたとディールが教えてくれたんだ。
丸っこい花で昔は特別きれいだと感じた事はなかったんだが、ある年、夜に見たら、闇に浮かぶ白い花がとても幻想的でね。
以来毎年愛でるようになった。
一日花だから、今日咲いている花は明日には散ってしまうんだ。
だから一緒に見に行こう」
そう言って連れていかれたのは、三日前にトラ姿のレオーネと一緒に遊んだ内庭だった。
庭に出ると、甘ったるい果実のような香りが鼻をくすぐった。
「ほら、あそこを見てごらん。あの花だ」
木の高さはそれほど高くない。
楕円形の葉の間に隠れるように咲いていて、茶色がかった黄緑色の大きな萼の間から上品な花弁が顔を覗かせていた。
今宵はちょうど満月を二日三日過ぎたあたりで、少し歪な月が夜空に煌々と浮かんでいる。
月明かりに白く浮かび上がる花は周囲の闇をより際立たせ、哀れさを誘う艶めかしさをミルフィに覚えさせた。
一日で命を終えると知ればこそ、余計にそう感じられるのかもしれない。
「この花は夜に強く香るんだ。昼間はそうでもないのにね。
きっと何か理由があるのだろうな」
夜に香る花なのね……とミルフィはレオーネの腕の中から花を見上げた。
そう言えば、夜に香る花は多い。
そのほとんどが白い花ではなかったかしらとミルフィは思い出した。月明かりや星明りで光を反射させて存在を際立たせるためだと聞いた覚えがある。
月明かりの下、侍女と一緒に夜の庭園を歩いた事もあったけれど、今日この日ほど、夜の花を美しいと感じた事はなかった。
猫姿で、誰かに抱っこされて庭園を歩くのも初めてだ。
タウジ家で過ごしていた時も、ミルフィは庭園散策が大好きだった。
冬が過ぎて、一斉に命が芽吹く若い春。一雨ごとに葉の緑は鮮やかさを増して、やがて蕾は次々と膨らんで色とりどりの花が庭園を彩った。
照り付けるような夏の日差しの下、苛烈な暑さに負けずに咲き誇る花も美しい。
燃えるように赤く情熱的なサルビアやふんわりとした花弁をつけるグラジオラス、そして太陽に向かって真っ直ぐに伸びる大輪の向日葵。
秋は赤や黄色に色づく木々の下を散策し、冬は厳しい寒さの中で懸命に咲くクロッカスやスノードロップの花を楽しんだ。
そのどれもが優しい思い出だったけれど、今、自分を抱き上げてくれているのは、猫のミルフィを心から愛おしいと思ってくれている人間の腕だった。
だからとても温かい。
「ミリィも気に入った?」
レオーネが静かにそう尋ねてきて、ミルフィは「なおん」と小さく答えた。
レオーネはそれきり何も語ろうとせず、柔らかな静寂が二人を押し包んだ。
二人の耳をくすぐるのは、清涼な川のせせらぎだけだった。
風は甘やかな初夏の匂いを孕み、降り注ぐ月の光はどこまでも冴え冴えと澄み渡っている。
月明かりに照らされた庭園をミルフィは静かに見渡した。
まるでこの広い世界に、ミルフィとレオーネの二人だけしかいないようだ。
訳のわからな感傷が、ミルフィの胸を衝き上げた。
薄闇にぽっかりと浮かぶ大輪の白い花が美しすぎて、何だか泣きたくなる。
優しさに包まれながら花を見上げたこの夜の事を、きっと自分は一生忘れる事はないだろう。
嘘に塗れた自分が悲しいとミルフィは初めてそう思った。
レオーネは心から寛いで夜の散策を楽しんでいるが、その腕の中にいるのはレオーネが望む無邪気な猫ではない。
かけがえのないこの時を共に過ごしたのが自分が苦手としている人間の女性であったと知った時、レオーネは裏切られたと感じはしないだろうか。
常盤蓮華は不定期に咲く花で、これからもこの美しい花はレオーネの目を楽しませ続ける。
けれどその傍でミルフィが一緒に花を愛でる日は二度と来ない。
自分はいつまでも猫の姿のままではいられないし、本来の姿を取り戻してこの居殿を去る日は必ずやってくるからだ。
そしてそれは、おそらくそう遠い話ではなかった。




