貸し出しが始まる
さて、その翌日からミルフィは例の専用バスケットに入れられて、午前中だけ王太子の居殿に貸し出される事になった。
バスケットを捧げ持つのはレオーネの侍従のディールで、近衛騎士が二人、道中の警護につく。
王宮内を移動するだけなので、ディールだけでいいような気がしたが、一応ミルフィは第二王子の愛猫様だ。
何か事があってはいけないと、王子専属の近衛が護衛の任に当たる事となった。
「今日は私どもが警護を致します」
真面目腐った顔で近衛騎士二人に挨拶されたミルフィは、バスケットから顔を出して、「みゃあ」とお礼を言っておいた。
返事をしてもらった事が嬉しかったのか、そのうちの一人が気恥ずかしそうに「お手」と言って手を出してきたが、この騎士は完全に何かを間違っている。
そこまで付き合ってやる義理はないし……と思ったミルフィは、素知らぬ顔で耳の後ろを後ろ足で掻いた。
因みにその騎士は、先輩らしきもう一人の騎士に思いっきり後ろ頭をどつかれていた。
「お猫様で遊ぶんじゃない!」
その様子を横目で見ながら、猫じゃらしを持ってきたら付き合ってあげてもいいよと、ミルフィは上から目線で心に呟いた。
それにしても、護衛騎士を連れて王宮内を移動するなど、まるで王族にでもなった気分だ。
調子に乗ったミルフィは、誰にも見られないのを幸い、バスケットの中で腹を出してふんぞり返ってみた。
ものすごく行儀が悪いが、どうせ誰に見られる訳でもない。
バスケット越しに、宮殿を警護する騎士達がこちらに向かって頭を下げるのが見え、レオーネ王子の気分になって、「うにょぉぉ(楽にせよ)」などと言ってみた。
一人でするごっこ遊びはなかなかに面白い。
ただしその鳴き声をディールに聞かれたらしく、「ミリィ様、どうぞお静かに」と注意されてしまった。
ようやく王太子の居殿に着くと、シャーロット妃が待ちかねたようにミルフィを出迎えてくれた。
「ミリィ、良く来てくれたわね」
すぐにバスケットの蓋が開けられ、ミルフィはバスケットの中で前足をきちんと合わせ、「みゃん」と元気よく挨拶した。
今日通された部屋は、タウジ家で言うモーニングルームのようなところだった。
朝の陽ざしが差し込む小さめの部屋で、ミルフィの母のメリージェンが午前中に刺繍や読書をして過ごす部屋と雰囲気が似ている。
女性好みの瀟洒なデザインで統一されて、壁際には支柱やネックに金箔が張られたハープが置かれていた。
今日のシャーロット妃は淡いシェルピンクのタフタドレスを召されていて、オフショルダーとなった胸元には大粒のダイヤをあしらったネックレスが輝いていた。
すっきりとした鎖骨が女性らしさを際立たせ、色白の肌と相まって溜め息が出るほどに美しい。
王太子殿下に見初められる筈だわと、ミルフィは改めて心の中で呟いた。立ち居振る舞いはあくまでも優雅で、仕草の一つ一つに気品が感じられる。
シャーロット妃の事を高価な陶器人形のようだと評する方はいるけれど、その表現ではこの方の魅力を表わせていないわとミルフィは思った。
利発そうな瞳に浮かぶ弾けるような煌めきや、ふっと心をくすぐっていく天性の茶目っ気。
それがシャーロット妃の一番大きな魅力のような気がした。
シャーロット妃が浮かべる自然で朗らかな笑みは、この王宮が人の欲望が渦巻く欺瞞に満ちた世界である事を束の間忘れさせる。
だからこそ、ミゼル王太子はシャーロット妃を強く望まれたのかもしれなかった。
ミルフィはバスケットから丁寧に抱き上げられ、シャーロット妃の膝の上に降ろされた。
「ふふ。いい子ね」
白くほっそりとした手が愛おしそうにミルフィの頭を撫でる。
ミルフィは思わず目を閉じて、「にゃおん」と小さく甘えるように鳴いた。
もし自分にお姉様がいたらこんな感じなのかしらとミルフィは思う。
というか、こんなお姉様がいたら最高だ。
シャーロット妃の手首からは、瑞々しく爽やかな花の香がした。
スズランのトワレだろうか。香りはきつすぎず、仄かに鼻をくすぐる程度だった。
ふと周囲を見渡すと、場には三人の貴族夫人が控えていた。
いずれも髪を美しく結い上げ、流行のドレスに身を包んでいる。
デビュタントの時、ご挨拶させていただいた覚えがあるが、王太子妃の筆頭女官であるアンドレアス伯爵夫人しか顔と名前が一致しなかった。
他の二名は確か、バレルモ伯爵夫人とルナス伯爵夫人であった筈である。
部屋の中央にはどっしりとした樫の丸テーブルが置かれ、シャーロット妃が座っているのは一番奥側の広いソファーだった。
他の夫人方は、オーバル状の背もたれが付いた獣足の肘掛け椅子に腰を下ろし、丸テーブルの上には一冊の詩集が置かれていた。
四人のうちの誰かが詩を朗読し、皆で耳を傾けておられたようだ。
と、ミルフィが落ち着くのを待っていたようにシャーロット妃が口を開いた。
「ミリィ。紹介するわ。こちらの三人が私の女官なの。
一番手前が筆頭女官のアンドレアス伯爵夫人よ。私が王太子妃になるにあたり、父が是非にとお願いしてこちらに来ていだいたの」
五十前後の薄茶色の髪の女性が、穏やかに笑んで軽く頭を下げる。
髪をすっきりと結い上げていて、鋭角な顎のラインを持つ夫人によく似合っていた。
目は奥二重で、優しげなヘーゼルの瞳には深い知性が感じられる。
ミルフィは一目でこの夫人が好きになった。
「妃殿下。私達もミリィ様を抱かせていただいてよろしでしょうか」
アンドレアス伯爵夫人が弾んだ声でそう尋ね、シャーロット妃は構わない? と問いかけるようにミルフィの顔を覗き込んできた。
「なおん」
三人の女官が次々と立ち上がり、ミルフィの周りにやって来た。
三人とも興味津々にミルフィを見つめているが、昨日の騎士達と違って、がっついたような感じはない。
このくらいの熱量がちょうどいいわとミルフィは満足そうに心に呟いた。
「何て可愛い事」
「まあ。ごらんになって。毛が真っ白で美しいわ」
まず最初にアンドレアス伯爵夫人が抱き上げ、ミルフィの喉元を指で軽くくすぐる。ミルフィは目を細めて小さく喉を鳴らした。
「私も抱いていいかしら?」
そうミルフィに訪ねてきたのは、アンドレアス伯爵夫人よりも少し年配に見えるふくよかな貴婦人だ。
「にゃん」とミルフィが鳴くと、その夫人は嬉しそうに手を伸ばしてきた。
「バレルモ伯爵夫人よ」
シャーロット妃がそう紹介してきて、王妃様のご生家であるギムナ侯爵家ご推薦の方だとミルフィは思い出した。
現侯爵夫人の従姉妹に当たると耳にした事がある。
ミルフィの頭を撫でたり、ピンク色の肉球をぷにぷにと押したりしてひとしきりミルフィを堪能したバレルモ伯爵夫人は、隣にいた二十代後半の細身の女性にミルフィを渡した。
「ルナス伯爵夫人、どうぞ」
「ありがとうございます」
このルナス伯爵夫人はきれいな面長の顔をしていて目鼻立ちも整っているが、やや顎がしゃくれている。
先ほど席を立った時にも感じたが、かなり背の高い女性のようだった。
ミルフィを受け取ったルナス伯爵夫人は弾んだ声を上げた。
「まあ、真っ白な雲を集めて作ったような愛らしい子ですわね」
ルナス伯爵夫人は朗らかに笑い、ミルフィの体を持ち上げた。
そのままミルフィの体を優しく左右に揺らし、「みゃん」とミルフィが鳴くと、「泣き声まで愛らしい事」と楽しそうな笑い声を立てた。
一通り遊んだルナス伯爵夫人は床にそっとミルフィを下ろしてくれ、四人は楽しそうに歓談を始めた。
今、流行りの歌劇の演目や最近頭角を現し始めた舞台女優の事、最新のモードや先日宰相家で開かれた夜会についてなど、話題は多岐に渡っている。
何気ない世間話だが、社交場で生きる女性にとって情報はまさに命である。
ミルフィにも大変お勉強になる話だったので、ソファーの傍で腹ばいになりながら、耳だけ立てて話に聞き入った。
ひとしきり会話を楽しんだところで、シャーロット妃がミルフィに声を掛けてきた。
「そろそろお茶の時間にしましょうか。ミリィ、貴女も一緒にいただきましょうね」
え。私も一緒にお茶をいただけるの?
ミルフィは嬉しくなって、「みょん」と元気よく返事をした。
シャーロット妃のソファーの隣にはテーブルとほぼ同じ高さの椅子が一つ用意されていて、ミルフィは遠慮なくその椅子に飛び乗った。
ほどなく王宮のメイドがワゴンを二つ運んできて、ミルフィの目は一つ目のワゴンの上のお菓子に釘付けとなった。
おおおっ! デザートが三種もある。
クロテッドクリームが山のように盛られたスコーンに涼しげな洋梨のコンポート、そして艶々としたダークチェリーが飾られたカスタードクリームタルト。見ただけで涎が出て来そうだ。
もう一つのワゴンにはお湯の入った蓋付きのピッチャーやティーポット、茶缶などが置かれていて、ワゴンが定位置に置かれるのを待ってルナス伯爵夫人が静かに立ち上がった。
「ジュビエーヌは紅茶を入れるのが得意なのよ」
シャーロット妃がそう説明してくれ、ミルフィはルナス伯爵夫人の名前がジュビエーヌであるのだと知った。
シャーロット妃とは比較的年が近いため、彼女の事は名前で呼んでおられるようだ。
ミルフィが興味津々にルナス伯爵夫人の手元を見ていると、夫人は用意された三つの紅茶の缶の銘柄を一つ一つ確かめ、「今日はこちらに致しましょう」と一つの缶を手に取った。
「ジュビエーヌはそれぞれの茶葉やその日の気温に合った淹れ方をしてくれるからとても美味しいの。もう彼女以外が淹れてくれたお茶は飲めないと思えるくらい」
「そこまで褒めていただいては、却って恥ずかしくなりますわ」
ルナス伯爵夫人は朗らかに答え、手際よくお茶の準備を進めた。
「私は生家の領地が茶葉の産地でしたので、少し詳しいだけなのです」
こちらに背を向ける形で紅茶を入れているため、手元までは見えない。
けれどルナス伯爵夫人は砂時計を見ながら正確に茶葉を蒸らす時間を見極めているようだ。
お湯が注がれたポットにはキルトのティーコージーが被せられ、ミルフィはわくわくとその様子を見守った。
いよいよ紅茶が注がれ、ミルフィの許にも小さな器が運ばれたが、生憎ミルフィは猫舌だ。猫姿の時は、特にそれが顕著となる。
だから最初は口をつけず、香りだけをゆっくり味わわせてもらう事にした。
早速いただいたのは、クロテッドクリームが添えられたスコーンだ。
スコーンの外側はさっくりして中身はふわっと焼き上げられている。クロテッドクリームとの相性も抜群だった。
洋梨のコンポートは口の中で甘く蕩けるようで、鼻の奥にすうっと抜ける清涼感が感じられた。
おそらくカルダモンを使っているのではないだろうか。
最後に食べたダークチェリーのクリームタルトだが、これはもう叫びたくなるほどに美味だった。
ダークチェリーのしっかりとした食感とバニラビーンズの入ったカスタードクリームが見事に溶け合っている。
幸せを噛み締めながらお菓子を十分に堪能した後、ミルフィはようやく冷めた紅茶に口をつけた。
紅茶に茶葉の渋みはなく、風味だけがきちんと生きている。
こんな風に自分も淹れられるようになりたいと思いながら、ミルフィはちびちびと紅茶を味わった。
紅茶を美味しく淹れる事は、貴族令嬢や夫人にとって嗜みの一つである。
お茶会では、主催する夫人自ら紅茶を淹れる事は別段珍しくなく、テーマを決めてお茶を振る舞う事もあるくらいだ。
ミルフィも紅茶を淹れる練習を毎日していたから、ほどほど美味しく淹れる事はできる。
ただ、この種類の茶葉はこのくらいの時間でという手順書通りに淹れているだけなので、その年の茶葉の出来を考慮した事はないし、その日の気温に応じて蒸らし時間を変えるという事もない。
だから、それができるルナス伯爵夫人は純粋にすごいと思った。
ティータイムの後、ミルフィはメイドの一人に抱かれて洗面所に行った。
遠くから、ハープの音色が聞こえてきた。
シャーロット妃はハープを得意とされているから、おそらく妃殿下が弾いておられるのだろう。
洗面所にはすでにたくさんのメイド達が待機していて、盥の中に手を突っ込んで温度を確かめ、ミルフィの体をそっとお湯につけてくれた。
本当は人型に戻って自分で体を洗いたいが、それは当分許されそうにない。
ミルフィはおとなしくメイドに体を洗ってもらう事にした。
石鹸だらけのお湯を替えてもらい、盥に首まで浸かったミルフィはご満悦だった。
盥のふちに顎を乗せ、「にょおおん(いい湯だわ)」と気持ちよさそうに目を細める。
普通、猫って水に濡れたり、お風呂に入れられたりするのを嫌う筈なのに変わっているわね……とメイド達に不思議そうに見つめられていたが、ミルフィは全く気にしなかった。




