王太子の居殿を訪れる
翌日、いつものように二人(一人と一匹?)で昼食を取っていると、レオーネがしみじみとミルフィに話しかけてきた。
「知っているか、ミリィ。兄上とシャーロット妃は大恋愛で結ばれたんだ。
兄上は数人の婚約者候補がいたんだが、どの令嬢ともしっくりこなくてね。
だけどある日、父親のアルギ辺境伯と一緒に王城を訪れていたシャーロット嬢と偶然廊下ですれ違い、兄上が一目惚れをしたんだ」
「みゃう(存じ上げています)」
この白魚のベニエ、すごくおいしいと思いながら、ミルフィはそう返事をした。
当時の王太子殿下には婚約者候補が三人いて、それぞれの推挙人は、王の従兄弟に当たるシャルトーレ公とレジナルド公、それに王妹であるプロヴァンヌ侯爵夫人であったと聞いていた。
どの令嬢も甲乙つけ難く、王夫妻は三人をそれぞれミゼルと交流させ、一番相性がいい相手を婚約者に据えようと考えておられたようだが、十四歳だったミゼル王太子はその当時、王城を偶々訪れていたシャーロット嬢に心を奪われてしまった。
シャーロットは国境沿いに領地を持つアルギ辺境伯の娘で、その家格の高さと政治的な意味合いで、いずれは隣国の高位貴族に嫁すようになるだろうと目されていた令嬢だ。
曾祖母は前王の大叔母に当たり、今更王家と縁を繋ぐ必要もない。
更に、国境沿いに生活の拠点を置くアルギ辺境伯は中央の政治とは無関係で、宮廷内に権力基盤を持っていなかった。
そのため、シャーロット嬢の立妃に反対する廷臣も多かったのだが、当時から臣民に人気のあったミゼル王太子が強く望んだという事で、結局は周囲が折れる形で婚約が調う事となった。
筆頭女官に選ばれたのは、父である辺境伯の遠縁にあたるアンドレアス伯爵夫人で、残り二名は王妃の生家ギムナ公爵家が推薦したバレルモ伯爵夫人、もう一人は宰相であるエメス伯爵の縁戚に当たるルナス伯爵夫人である。
いずれも社交に慣れた夫人ばかりで、王宮の事情に詳しくないシャーロット妃を、陰になり日向になりお支えする事ができるだろうと言われていた。
「お子が生まれれば、地位も安定すると思っていたのだが、お二人にはなかなかお子ができない。
そのせいでシャーロット妃はかなり苦しい立場に追い込まれているんだ。
本当はミリィをどこにも出したくないけれど、義姉上のためなら仕方がない。今日は王太子宮に行ってくれ」
「にゃあん(了解です)!」
ミルフィも先日のデビュタントの時、シャーロット妃から言葉を掛けていただいていた。
あのお優しい妃殿下のお慰めになるのならば、猫姿でお愛想するくらい何て事はない。
ミルフィはやる気満々でピンと尻尾の先を立てた。
昼餐後、レオーネはいつものように居間でミルフィを構い始めた。
猫じゃらしでミルフィを跳ね回らせ、時折抱き上げてはその腹に顔を埋める。
「ああ、何て可愛いんだ」
「にょん(嗅ぐな)!」
渾身の猫キックを頭にお見舞いしてやった時、腹の匂いを嗅いでいたレオーネがふと微妙な顔をした。
「お前なんか臭わないか」
王子を軽くあしらっていたつもりのミルフィはガーンとショックを受けた。
臭う……。私が……?
凍り付いているミルフィに気付かず、レオーネは再度ミルフィの体を嗅いだ。
「うん。やっぱり少し臭う」
繰り返すなぁっ……!
ミルフィは思わず涙目となった。
うら若い女性に、その言葉は禁句だった。
ミルフィは本物の猫に比べて毛繕いが下手糞だ。だって半日を超えて猫姿で過ごした事は一度もない。
パークで散々遊んでも、人間姿でお風呂に入れば汚れも取れるからだ。
一昨日攫われてきて、丸二日お風呂に入っていないので自分でも気持ち悪いと思っていたが、まさか若い男性から臭いと言われるなんて……。
「義姉上のところに連れていく前に体を洗っておいた方がいいな」
放心状態だったミルフィは、レオーネのそんな言葉をうっかり聞き逃した。
だから更なる悲劇が自分に訪れようとしているとは思いもしなかった。
気付いた時、ミルフィの前にはなみなみとお湯が張られた盥が用意されていて、その正面にはスポンジを持ち、腕まくりをしたレオーネがいた。
「みぎょ!?」
そこでようやく正気に返ったが、すでに遅い。
ミルフィの体はどぼんとお湯につけられ、お湯の中で簡単に汚れを落とした後、石鹸の泡を体に塗りたくられた。
「ぬおおおおおおん」
久しぶりのお風呂は気持ちいいが、体中を触られまくったミルフィは羞恥にじたばたと暴れまわった。
「こらこら。騒ぐんじゃない」
「みぎぁぁぁぁぁぁ(お願いだから触らないでぇ)!」
「殿下。ご衣裳が濡れてしまいます。代わりましょうか?」
そう声をかけてきたセバスに、レオーネは上機嫌で答える。
「この子の体は私が洗ってやりたいんだ。
こら、ミリィ。あんまり暴れるとお湯に落ちてしまうよ。じっとして」
ミルフィの抵抗は軽々と押さえつけられ、そのまま問答無用で体中を洗われた。
耳から足の裏まで一通り石鹸で洗われた後は次々にきれいなお湯が運び込まれてきて、泡だらけになったミルフィの体は丁寧にお湯で流された。
ようやくふかふかのバスタオルで全身を包まれた時、ミルフィはもう息絶え絶えだった。
お父様、お母様。
ミルフィは乙女として何か大事なものを失った気が致します……。
兄に会えたら自分がタウジ家の令嬢だと王子に伝えてもらい、そのまま家に帰らせてもらうつもりだったが、裸を撫でまわされた今となっては、自分の正体をレオーネに知られる事が怖い。
けれど伝えてもらえなければ、自分は毎日、この王子様に体を洗われる事になってしまう。
どうすればいいのよ……。
この先の自分の未来がどこに繋がっているのか、ミルフィにはもう、想像する事もできなかった。
ミルフィは蓋つきの籐のバスケットに入れられて粛々と持ち運ばれていた。
抱えているのはレオーネの後ろに従うセバスである。
網目が荒いため、中は完全な真っ暗ではなく、空気の通り道も十分にあった。
だから普通であれば、網目の隙間から見える外の景色を楽しんでいたかもしれないが、今のミルフィにそんな心の余裕はこれっぽっちもない。
猫姿とは言え、若い男性に体中を洗われてしまった。
今までたくさん撫で回されて、腹にも顔を埋められたが、まさか裸体を石鹸で洗われる日が来ようだなんて思ってもいなかった。
この悲劇を自分の中でどう処理していいのかわからない。
悶々と考える内に、ミルフィはいつの間にか王太子の居殿に到着したようだった。
レオーネ王子一行は居殿の使用人達に丁重に出迎えられ、ミルフィの入ったバスケットはセバスから王太子の侍従長の手へと渡された。
「兄上、この度はお招き頂きましてありがとうございます」
「ああ。待っていた。そちらのバスケットに例の子がいるんだな」
「はい。人目を引かぬよう、バスケットに入れて連れて参りました」
ミルフィの入ったバスケットは何かの台の上に置かれたようだ。
その後、上を覆っていた蓋が外され、いきなり目に飛び込んできた明るい光にミルフィは「うにょ?」と目をしばたたいた。
「まあ、何て可愛い白猫なの!」
と、朗らかな声が横から掛けられて、ミルフィは思わずそちらを振り返った。
そこにはデビュタントで一度ご挨拶をした事のあるシャーロット妃が、にこやかに笑んでミルフィの方を見つめていた。
白い肌はしっとりとして瑞々しく、細面の顔を縁取るのは陽を紡いだような鮮やかな金髪だ。
青い双眸は透き通った湖水を思わせ、その瞳に真っすぐに見つめられたミルフィは、思わずどぎまぎと視線を揺らしてしまった。
お顔立ちだけを見れば楚々として儚げな印象を与えるシャーロット妃だが、ほっそりとした肢体とは裏腹に胸はやたらでかい。
何を食べればあんなに胸が育つのかしらと、初めて遠目にお姿を拝見した時は、その豊満な胸から目が離せなくなったほどだ。
見かけは楚々として儚げな美人、かつ巨乳。
まさに男性の理想を詰め込んだような容姿を持つシャーロット妃だが、男性に対する嗜好はちょっぴりと言うか、かなり変わっていた。
辺境伯として国境を守る父伯爵や兄の姿を見て育ったせいか、男性は筋肉ムキムキで逞しくあるべしというアルギ伯爵家の薫陶を素直に受けてお育ちになったからだ。
当世の流行りは、脱げばすごいという感じのすらりとした中性的な美貌を持つ男性なのだが、シャーロット妃はそうした流行り廃りには全く無関心でいらっしゃる。
たまたま父伯爵に連れられて王宮を訪れた時、王宮を闊歩する一人のマッチョを見つけて初めての恋に落ちてしまった。
これがミゼル王太子である。
一方の筋肉だるまも、初めて見たシャーロットの美しさにのぼせ上り、仕事も手につかなくなるほど心を捕らわれてしまった。
まさに需要と供給が見事に一致した典型例だと言えるだろう。
その後、結婚に至るまでは紆余曲折あったが、二人は何とか恋を成就させて、今こうしてこの場にいる。
「みゃん」
確か兄は、割れ鍋に綴じ蓋だと言っていたような……と思いながら、ミルフィはバスケットから首だけを出してお二人に挨拶をした。
「ミゼル様からお聞きしていたけれど、本当に愛らしいわ。
ふふっ。猫なのにトラ獣人の王族を怖がらないのね」
紅茶を運んできた侍従が、傍らに置かれた瀟洒なアイアンテーブルの上に盆を置き、紅茶の準備を始める。
茶葉を入れたティーポットに沸かしたてのお湯が注がれ、ふんわりとした爽やかな香りがミルフィの鼻をくすぐった。
別の侍従が取り皿とカトラリーをテーブルに配っていき、続いて二段の菓子スタンドが中央にテーブル中央に置かれた。
下段にはパンやスコーンが、上段には三種類の焼き菓子と陶器のカップに入ったチョコレートプディングが置かれていて、今まで目にした事もない菓子置きにミルフィは目を輝かせた。
そしてすぐに菓子の数を数えた。
ちゃんと四個ずつあるわ。
ここには三人しかいないから、最後の四個目はきっと私の分よねと、ミルフィは満足そうに心で呟いた。
ちゃんとミルフィの分も用意して下さるなんて、何て素敵なご夫妻なのだろうか。
ミルフィがお菓子に釘付けになっていると、後ろの方からごほんと言う咳払いが聞こえた。
聞き覚えがある声に、ミルフィは思わずそちらを振り返る。
「みやぁぁん(お兄様!)」
王太子殿下の近衛である兄が壁際で控えていた。
サーベルを下げ、近衛服を纏った姿を見るのは久しぶりだ。
たった二日しか離れていないのに、もうずっと会っていないような気がした。
いつもミルフィをからかってばかりいる兄のイザークだが、何だか今はすごく格好良く見える。
私を迎えに来てくれたのよねとじっとその目を見つめると、兄が小さく頷いた。
「みゃん」
イザークとミルフィの様子を眺めていた王太子ミゼルが吐息を零した。
白猫がタウジ家の令嬢で間違いないと確信したのだろう。
お茶の配膳を終え、壁際に控えていた侍女達に声をかけた。
「三人でゆっくり話をしたいから皆は下がってくれ。
ああ、護衛のイザークだけはそのままそこに待機するように」




