九死に一生を得る
「ミリィ! ミリィ!」
気付けば必死になって名前を呼ばれていた。
ぼんやりと目を開けたミルフィは、「ミリィ、良かった!」とその声の主に思いっきり強く抱きしめられ、思わず「ぐえぇ」と間抜けな声を上げていた。
「うにょぉ(一体何が起こったの)?」
石畳に叩きつけられて昇天したつもりになっていたが、どうやらここは現実世界であるらしい。
バランスを崩して落下し始めた時の事は朧げに覚えている。
このまま腹ばいで落ちるのはまずいと本能的に思ったミルフィは空中で体勢を変え、背中から落ちたのだが、そのまま石畳に叩きつけられる事はなく、何だか柔らかいものの上に落ちてどこぞに弾き飛ばされていた。
そこから先の記憶はない。
激しい恐怖と緊張でそのまま気を失ってしまったのだろう。
「ミリィ! お前が助かったのは間一髪だったんだぞ!
セバス達が広げた布が何とか間に合って、石畳で叩きつけられずに済んだんだ。
何でこんな危ない真似をした!」
レオーネに強く叱責されて、ミルフィは「なおん」と項垂れた。
自分の居場所を兄に知らせようと決死の冒険に挑んだのだが、自分の運動神経を甘く見ていた。
お陰でうっかりあの世に行ってしまうところだった。
レオーネの腕から顔を上げて横を見ると、やや青ざめた面持ちのセバスやディールが自分を覗き込んでいた。
心配を掛けた事が申し訳なくて、ミルフィは二人に向かって「みゃぉん」と小さく鳴いた。
それにしても死ななくて良かった。
うっかり誘拐された挙句、こんなところで人知れず死んでしまったら、お父様やお母様、ついでにお兄様にも申し訳が立たないところだった。
今更ながらに生きている喜びを噛み締め、必死に自分を助けようとしたレオーネに感謝を伝えようとしたミルフィだが、レオーネの顔を見上げたところで何か違わなくない? と思い直した。
そもそもミルフィを決死の冒険にまで追い込んだのはこの王子様だ。
パークで無理やりミルフィを攫うような事さえしなければ、今頃ミルフィは安全な我が家でぬくぬくと過ごしていた筈なのだ。
ミルフィが密かに怒りを溜めていると、「無事で良かったな」と反対側から声が掛けられる。
誰かいるの? とそちらを振り返ったミルフィは、そこに筋骨隆々とした美丈夫の姿を認めて、あっと仰け反った。
デビュタントで一度お会いしただけだが、我が国の王太子の顔を見間違える筈がない。
レオーネ王子の兄君に当たるミゼル王太子だった。
ミゼル王太子は父王譲りの鳶色の髪と榛色の目を持つ長身の男性で、お顔立ちは大層ハンサムでいらっしゃる。
ただ筋肉がものすごかった。首は太く、肩から上腕にかけて肉が盛り上がり、太腿の辺りもムキムキだった。
トラ獣人というより、むしろ熊……? と言いたくなるような体形で、ついでに言えば父君である現王陛下も同様の体形をされていた。
そのためお二人が立ち並ぶと、何と言うか非常に暑苦しかった。
そう言えば、ミゼル王太子が王子宮を訪ねられていたのだと、ミルフィは今更ながらに思い出した。
兄は一緒についてきていないのかしらとミルフィは王太子の後ろに目を走らせたが、付き従っている騎士二人は見覚えがない顔をしていた。
がっかりしたミルフィは、「みょん」と小さく鳴いて尻尾を体に巻き付けた。
と、その様子をじっと見ていたミゼルが徐に弟に話し掛けた。
「なあ、レオーネ。その猫はどうした」
問われたレオーネはちょっと嫌そうな顔をした。
ミリィを独り占めにしたかったレオーネは猫の存在を隠し通す気満々でいたのだが、知られてしまった以上は仕方がない。
渋々と口を開いた。
「一昨日に拾いました」
「……どこで拾った?」
「バウアーパークです。パークに捨てられて彷徨っていたのをたまたま私が見つけ、保護しました」
それを聞いた兄のミゼルは、お前が犯人か! と心の中で思いっきり叫んでいた。
お前が令嬢を連れ帰ったせいで、タウジ伯爵家は大騒ぎだ。
女にもてない根暗の拗らせ男が攫ったに違いないと、イザークなどはぼろくそにお前の事をこき下ろしていたんだぞ。
ミゼルは頭痛を堪えるようにこめかみのあたりを指で揉んだ。
「レオーネ。その猫は見たところ、大層毛艶がいい。おそらくどこかの飼い猫だろう。
すぐに元の場所に返して来るんだ」
ミゼルは常識的な言葉で弟を説得しようとしたが、レオーネは兄の言葉に耳を貸そうとしなかった。
「嫌です。この子は私のミリィです。
パークに捨てるなんて冗談ではありません」
「捨てるのではない。パークの警邏に預けろと言っているんだ。
その子が飼い猫ならば、飼い主が必死で探している筈だ。すぐに引き取りに来るだろう」
「あり得ません」とレオーネは言下に否定した。
「この子は捨て猫で間違いありません。
本当に大切な飼い猫なら、首輪くらいつけている筈でしょう? 兄上だってそう思われませんか」
「首輪だと……?」
訝しげに弟の腕の中の白猫に目を落としたミゼルは、次の瞬間、げっと声を上げそうになるのを既のところで呑み込んだ。
白猫の首には真っ赤な首輪がこれみよがしにつけられている。
しかも猫の首サイズにきっちりと合わせられたやつだ。
これでは人型に戻りたくても、変態できないだろう。
あー……、なんかイザークに知られたら、いろんな意味で激怒されそうだ。
温厚で知られるタウジ夫人も、娘に首輪をつけられたと知ったら青筋を立てるかもしれない。
ミゼルは溜め息をつきたくなるのを堪え、レオーネが抱いている白猫をちらりと見た。
諦めたようにレオーネの腕の中におさまっている白猫は、前足をぺろぺろと嘗めてせっせと毛繕いをしていた。
「トラの気配にも動じないなんて、なかなか豪胆な子だな。私も抱き上げて構わないか?」
「えー……」
あからさまに嫌そうな顔をする弟に、
「使用人達を下に向かわせて、その子の命を救ったのは私なんだが」
にっこりと笑ってそう言ってやると、レオーネは渋々猫を差し出してきた。
ミゼルはレオーネの腕の中にいた白猫をそっと抱き上げた。
猫を抱くなんて生まれて初めての経験だ。
小動物はトラ獣人を怖がるから、こんな風に抱ける日が来るなど思った事もなかった。
「猫を抱くってこういう感じなんだ」
白くてふわふわとした小さな塊が、ミゼルの顔を見上げて「みゅぅ」と鳴く。
その愛らしさに強い庇護欲をそそられた。
イザークがあれだけ溺愛するのもわからぬではないなとミゼルは思わず苦笑した。
ミゼルは猫を抱いたまま、室内を歩いてみた。
「兄上!」
咎めるように声をかけてくるレオーネに、
「心配するな。部屋から外には出ないよ」とミゼルは笑った。
ミゼルは応接の間の片隅に置かれていたチェンバロの方に向かうと、左手でミルフィを抱いたまま、反対の手を鍵盤に走らせた。
細く軽やかな音が室内に広がり、その音が途絶えぬ間にミゼルは猫の耳元に顔を寄せる。そしてそっと囁いた。
「私の近衛騎士がだいぶやつれているんだ。君の事を伝えておこうか」
ミルフィは弾かれたようにミゼルを見上げた。
何故かわからないが、王太子殿下はミルフィの事情をどうやらご存じのようだ。
もしかしたら、万策尽きた兄が意を決して王太子殿下に相談をしたのかもしれない。
「にゃん!」
危うく死ぬところだったが、自分がやった事は無駄ではなかったのだ。
ミルフィは嬉しさにぴんと尻尾を立て、元気よく返事をした。
ぜひとも兄に伝えて下さい。
ついでにお家に帰してもらえると一番ありがたいのですが。
余りの嬉しさにミゼルの胸にすりすりと顔を擦り付けていたら、いきなりミルフィの体が浮いた。
「うにょ?」
気付けばレオーネに体を持ち上げられていた。
「兄上。ミリィは私の飼い猫です。もう返して下さい」
どうやらミルフィが他の人間に甘えた事が面白くなかったようだ。
尖った声を出す弟に苦笑を返し、ミゼルは心の中で、どうしたものかな……と呟いていた。
白猫の反応を見る限り、タウジ家の令嬢で間違いないようだが、一応イザークに面通しさせた方がいいだろう。
これだけ弟が執着しているのだ。
無理やり取り上げておいて、実は人違い(猫違い?)だったというのでは話にならない。
「レオーネ。明日の午後、ミリィを連れて私の居殿に来てくれないか」
「……何故です」
警戒したように問いかけてくる弟に、ミゼルは一瞬言い淀んだ。
今はまだ、迂闊な事は言えない。
弟が納得できるような理由はないだろうかと考えを巡らせたミゼルは、ふと妻の事を思い出した。
「シャーロットにこの子を見せてやりたいんだ」
「義姉上に?」
「ああ。私達になかなか子どもができず、シャーロットが気に病んでいる事をお前も知っているだろう?
何か気晴らしをさせてやりたいと思っていたんだ。
この子を見れば、シャーロットはきっと喜ぶだろう」
レオーネは唇を引き結んだ。
大事なミリィを王子宮の外に連れ出すなどあり得ない事だったが、そう言われては断る事も難しい。
結婚して三年が経つ兄夫妻に子が生まれず、そのせいで義姉が口さがない貴族らに陰口を叩かれているのをレオーネもよく知っていたからだ。
シャーロット妃は美しく寛大で教養に溢れ、レオーネの目から見ても申し分ない王太子妃だ。
レオーネが女性を苦手としている事を知っているのか、程よい距離を保って接してくれ、だからレオーネは義姉の傍では楽に息ができた。
義父母となる現王夫妻との関係も良く、下の者達からも慕われていたが、子ができないという事は王位継承者の妻としては致命的だった。
義姉はいつも朗らかに微笑んでいたが、時にその眼差しに陰りが浮かぶ事をレオーネも気付いていた。
「わかりました」とレオーネは答えた。
「ただ、ミリィの存在をあまり人に知られたくありません。
できるだけ外には漏らさないようにしていただけますか」
その点だけは譲れないとやや強い口調で言うと、「勿論そうしよう」とミゼルは力強く頷いた。




