決死の勝負に出る
翌日の午前中、ミゼルはいつものように執務室に籠り、決裁の書類に目を通していた。
いつもならミゼル直属の護衛騎士であるイザークが近くに控えている筈だが、今日はいない。
昨日ミゼルが渡した許可証を持って、バウアーパークを訪れているからだ。
今頃は警邏の責任者から説明を受けていると思われるが、一昨日は天気も良かったため、訪れた貴族家はかなりの数に上っているだろう。
その一人一人を調べていくのは気の遠くなるような作業になるに違いない。
無事に見つかればいいが……と心に呟いたところで、ミゼルはふと、ある事を思い出して走らせていたペンを止めた。
そう言えば昨日、家族で昼餐をとっていた時、弟のレオーネが前の日にバウアーパークを訪れたと話していなかっただろうか。
ちょうどイザークの妹が行方不明になった日だと気が付いたミゼルは、弟にも話を聞いてみようと思い付いた。
レオーネがあの日パークに行ったのなら幾人かの貴族と顔を合わせている筈だし、何か手掛かりに繋がる事が聞けるかもしれない。
イザークはミゼルの大事な腹心だし、あのまま呆けておられると困るのだ。
イザークの妹が猫に変態すると告白された件については、とりあえず自分の胸の内に収めておく事にした。
余りに突拍子もない話だし、ミゼル自身、未だに半信半疑のところがある。
事実なら王陛下にお伝えすべきだろうが、まずは真偽を確かめてからだ。不確かな事を奏上して、王の心を煩わせる訳にはいかなかった。
という事で、午前中の執務を終えたミゼルは、昼餐の後すぐにレオーネの居殿へと向かった。
今日の午後、レオーネに公務がない事は侍従に確かめさせている。
先触れを出さずに行けば驚くかもしれないが、兄弟なのだからまあいいだろう。
「兄上が来られた?」
その頃レオーネは最愛のミリィとの昼餐を終え、せっせと遊んでやっているところだった。
その手には、紐の先に鳥の羽と毛糸のぽんぽんがついた細長い棒が握られている。
通称「猫じゃらし」。
「猫が喜びますよ」というセバスの進言で、この日の午前中にレオーネが作らせていた。
どや顔で猫じゃらしを振られたミルフィは、「そんな物でつられる安っぽい猫じゃないわ」と最初はつんと顎を上げていたが、目の端で動く鳥の羽がやたら気にかかる。
最初は首だけを動かして羽の動きを追っていたが、とうとう我慢ができなくなって前足でひょいとそれを突いてみた。
すると羽の根元にある毛糸のポンポンが大きく跳ね、ひゅんと宙を飛んだ軽やかな羽を掴まえようと、ミルフィは本能的にジャンプしていた。
羽は宙に弧を描いたミルフィの爪を掠め、それからはもう夢中だった。
羽の動きは予測不能だった。
急に早く動いたかと思うとすとんと床に落ち、ミルフィが飛び掛かると、さっと横に逃げていく。
そんな風に焦らされればミルフィだって本気になる。
獲物が隠れているあたりを伏せの姿勢でじっと待ち、ようやく姿を現したそれに向かってミルフィは渾身のジャンプをした。
そして目当てのボンボンを見事に両前足でキャッチしたミルフィは、「うにゃあ!」と勝利の雄叫びを上げた。
狩りの本能が満たされて非常に気持ちがいい。
ミルフィはすっかりこの遊びにハマってしまい、一心不乱に羽を追いかけ始めた。
そんな時間を過ごしていたものだから、ディールから王太子殿下の来訪を訴えられた時、ミルフィは嫌な邪魔が入ったなとしか思えなかった。
猫じゃらしを振る手を止めたレオーネに、「なおおん!」と大きな抗議の声を上げてみたが、レオーネの関心はすっかりミルフィから逸れている。
「一体何の用事だろう」
そう呟きながら猫じゃらしをディールに渡してしまい、お遊びの強制終了を知ったミルフィは不満たらたらにレオーネのズボンを引っ掻いた。
「うにょおおおおぉ(私とお客様のどっちが大事なの?)」
疑似狩りですっかり気分が高揚していたミルフィは、両足立ちになって抗議の声を上げる。
レオーネは困ったように眉を下げ、済まなそうにミルフィを両手で抱き上げた。
「ごめんね、ミリィ。遊びはここまでだ」
両脇を持たれ、だらんと足を延ばした格好のミルフィは不満たっぷりに「にゃん」と返す。
「また後で遊んでやるから、ここで待っていて」
レオーネはそう言って、ミルフィの体をそっと床に降ろした。
「兄上はもう応接の間に入られたか?」
レオーネの問いにディールが「はい」と答え、「お待たせする訳にはいかないな」とレオーネが小さく吐息をついた。
ふぅん。行っちゃうんだと、そっぽを向いて毛づくろいを始めていたミルフィは、この時ふと、ある重大な事に気が付いて、ん? と頭を擡げた。
今、応接の間に入られたという王太子殿下は兄のイザークがお仕えしている方だ。
もしかしたら、今この場に、兄を伴って来られているのかもしれない。
家に帰れるチャンスだ! とミルフィは俄に勇み立った。
レオーネと一緒に応接の間に行く事ができれば、全ての問題は解決する。
何とかして一緒について行く事はできないだろうか。
「み、みゃぉぉん」
ミルフィは不貞腐れていた態度を一転させ、甘えるように頭をレオーネの足元に擦り付けてみた。
「こら。ミリィ、邪魔をしないで」
優しく叱ってくるレオーネにあざとく甘え、ミルフィはせっせと一緒に行きたいアピールをする。
が、その必死の思いは全くレオーネには通じなかった。
「私だってミリィと離れるのは寂しいんだ」
完全に勘違いをしたレオーネはでれでれとした顔でミルフィを抱き上げると、頬を擦り寄せて口の近くにチュっとキスを落としてきた。
「みぎょ!」
一瞬、口づけをされたかとミルフィは頭が真っ白になった。
けれど柔らかくて温かな唇の感触は、口のすぐ横に残っている。
大丈夫。これは親愛の口づけよ。甘酸っぱい口づけとは種類が違うわ。
ミルフィは必死になって自分に言い聞かせた。
昨日は鼻先にキスをされてしまうし、今日は今日で、あわやファーストキスを奪われてしまうところだった。
思えばここに連れて来てから、淑女として大切なものを色々と失っている気がするわと、ミルフィはがっくりと肩を落とした。
昨日は上半身裸の男性を見てしまったし、決定的なものは見ていないとはいえ、おんなじ部屋で素っ裸になられた。
そして鼻先や唇の横へのキス。
これもそれも誘拐魔の王子のせいだと恨みがましく顔を上げたミルフィは、レオーネがすでにその場にいない事に気付いてぎょっと戸口の方を見た。
レオーネはディールと一緒に扉を出ようとするところで、最後に振り返ってミルフィに爽やかな声を掛けてきた。
「ミリィ。いい子にしているんだよ」
「みょおおぉん(ちがーう)!」
ミルフィは短い足で慌てて駆けて行ったが、扉は無情にも鼻先で閉められてしまった。
何とか隣にある応接の間に行けないものだろうか……。
一人残されたミルフィは、うろうろと部屋の中を歩き回っていた。
部屋の中で思いっきり暴れまわったら、音に気付いた誰かが見に来てくれないだろうかと一瞬考えたが、来るとすれば王子宮の使用人であり、王太子やその護衛がわざわざ見に来る事はないだろう。
それにここの壁はどっしりとしていて、少々騒いだところで隣に聞こえそうになかった。
入り口は一つで、重い扉はミルフィの力では押し開けられない。
とすれば、残る選択肢は窓伝いに行く事だ。
そう結論付けたミルフィは昨日と同じように丸椅子を窓の方へ押していき、丸椅子から窓際のチェストに飛び乗って、細窓のところに行った。
前足を使って窓の鈎を外し、鼻先でぐいと窓を押すと、窓は簡単に開いて外の空気が室内に流れ込んできた。
うわ、高い。
窓から首を出したミルフィは下を見てちょっとビビった。
王宮は一階一階が高く作られているため、下にある石畳が遥か遠くに見える。
落ちたらまず命はないだろう。
ミルフィは恐る恐る窓の下の出っ張りに右足を乗せた。
ここから応接の間の窓までは、ちょうど大人の腕を大きく伸ばしたくらいの距離だ。
今日はあまり風もないし、足さえ踏み外さなかったら、何とかあっちまで行ける筈である。
下を見ちゃだめだと、ミルフィは自分に言い聞かせた。
女は度胸だ。
一生猫で過ごしたくなかったら、今こそ勇気を出さなくてはならない。
ミルフィは震える足で窓枠を跨いだ。
足元から風を感じた途端、恐怖に毛は逆立ち、呼吸が浅く早くなる。
誰か助けて……!
竦みそうになる自分を叱咤して、ミルフィは少しずつ前へと進んでいった。
カリカリという奇妙な音に気付いたのは、一番窓際にいたミゼルだった。
風が窓を揺らす音とは全く違う。鋭いものでガラスを引っ掻くような耳慣れぬ音であったため、ミゼルは何気なく後ろを振り返る。
そして次の瞬間、見事に固まった。
口を半開きにして動かなくなったミゼルの視線を追って、レオーネが不思議そうに窓の方を見た。
そしてガタンと音を立てて立ち上がった。
「ミリィ!」
居間に残しておいた筈のミリィが、何故か窓の出っ張りを伝って応接の間の窓の外に来ていた。
「ミリィって何だ? それよりあの猫は何だ」
慌てて窓に張り付く弟にミゼルは声を掛けたが、レオーネはそれどころではなかった。
「ミリィ、動くな!
ああ、クソッ! この窓は外開きか」
ミリィがガラスを引っ掻いている窓を確かめたレオーネは、毒づきながら慌てて隣の窓に向かった。
ここの窓はどれも外開きだ。窓を少しでも動かせば、ミリィは出っ張りから押し出されてそのまま落下するだろう。
レオーネは隣の細窓を開け、そこから腕を伸ばしてみたが、どう手を伸ばしてもミリィには届かなかった。
「みゅぅぅぅ!」
哀れっぽい猫の鳴き声が響いた。
ミゼルは呆然とその様子を眺めていたが、このままではだめだとすぐに思い直した。
猫がどうしてあんなところにいるかはわからない。
ただ、事態は一刻を争った。
「おい、セバス。そこにあるカバーを取れ」
弟の侍従長の名を鋭く呼ぶと、呆然と固まっていたセバスがはっとしたようにミゼルが指さす方を見た。
チェンバロの手前のソファーには、花や鳥などをモチーフにした色鮮やかなカバーが掛けられている。
「そのカバーなら結構な広さがある。下で広げて受け止めるんだ」
セバスとその後ろにいたディールがカバーを引き剥がし、戸口へと走り出した。
「お前達も行け!」
ミゼルは自分付きの護衛二人にも命じ、二人は一瞬躊躇ったものの、すぐに踵を翻して侍従二人の後を追った。
一方のレオーネは、何とかミルフィに手を伸ばそうとしていた。
届かないとわかっていても、助けるのを諦める事はできなかった。
「ミリィ! 頑張れ。今助けてやるから!」
「みやあぁぁぁぁん」
隣の窓から必死に手を伸ばしてくるレオーネに向かって、ミルフィは何とか一歩を踏み出した。
体がぐらりと揺れ、ぶわっと毛が逆立つ。
何とか重心を窓の方に戻し、ミルフィは必死に窓の桟に爪を立てた。
レオーネの手はミルフィには届かない。
それでも必死に手を伸ばして自分を助けようとしてくれるレオーネの姿に、ミルフィは何だか胸の奥が熱くなった。
「みぃぃ」
パークから勝手にミルフィを攫った誘拐魔ではあるけれど、王子は全霊でミルフィの事を可愛がってくれた。
その愛情だけは本物で、ミルフィはそれがすごく嬉しいと思った。
体はすっかり竦んでしまい、もう一歩も歩けそうにない。
これで私の人生も終わりかしらとミルフィは覚悟した。
お父様、お母様、お兄様、ごめんなさい。
ミルフィは頑張ればできる子だと思っていました。
でも、もう一歩も歩けません。今、一生懸命バランスをとっているけれど、もうこれ以上は無理みたい。
ミルフィの足には限界が近づいていた。
ぷるぷると震えて、もう足の裏の感覚もない。
声を振り絞るように「みゃあああぁぁん」と最後に一声鳴き、ミルフィはそのまま落下した。




