第9話 偏屈な宝貝師の噂
「腕は確かだ」
青柏は、ためらいなく答えた。
宗真は次の言葉を待った。
青柏は水盤の縁を見ていた。
杖の先が、黒い石を一度だけ叩く。
「それで終わりですか」
「何がだ」
「どんな方か聞いて、腕の話しか出てこない時は、たいてい他に言いにくいことがあります」
灰衣の男が、畳んだ厚布を卓の下へ戻した。
「察しはよいな。
口は悪い。気は短い。頼まれた宝貝でも、役に立たぬと決めれば作らん。
ひとかけらの土も使わん」
「ずいぶん増えましたね」
「今のは羅玄子を嫌う者の言い方だ」
青柏が水盤の縁へ指を置いた。
「好く者に聞けば、要らぬ物は作らぬ。どう壊れるかまで見越して作る職人だと言う」
「青柏。おぬしはどちらだ」
「腕は確かだと思っておる」
「最初へ戻っただけではありませんか」
宗真は右手の人差し指を伸ばした。
黒い石の冷たさが、まだ指の腹に残っていた。
「会いに行く前に、もう一度だけ試してもいいですか」
「照身の水盤は、おぬしの稽古道具ではない」
灰衣の男は即座に言った。
「一度目と同じ結果になるか確かめたいんです。
今度は一息で止めます」
「二度目からは故意だ。
壊せば弁償では済まんぞ」
「壊れる前に止めてください」
「壊れる前に分かるなら、最初から試させん」
「困りましたね」
「困っておるのはこちらだ」
灰衣の男は宗真の指と水盤を見比べた。
やがて卓の下から先ほどの厚布を引き出し、もう一度床へ広げる。
「一息だ。それ以上は認めん」
「ありがとうございます」
宗真は水盤の前へ立った。
青柏が、先ほどとは反対側の縁を杖で示す。
「同じ場所ではないんですね」
「同じ傷へ気を流したら、二度目の結果か、一度目の続きか分からんだろう」
「なるほど」
宗真は黒い縁へ指を置いた。
息を吸い、腹の下へ温かさを集める。
腕を通し、指先まで運ぶ。
指先へ集めた仙気が、石へ触れた途端、その内側へ抜けた。
水盤の内側で、高い音が一度鳴る。
髪の毛ほどの光が黒い石の奥へ沈み、五つの刻みを避けて、縁に沿ってわずかに走った。
「離せ」
宗真はすぐに指を上げた。
光は前より短かった。
だが、沈んだ向きは同じだった。
木にも、火にも、土にも、金にも、水にも向かわない。
表面を光らせることもなく、器の内側へ入り、途中で消えた。
青柏は光の消えた場所を見たまま、杖の頭を撫でた。
「やはり、わしが教えられる流れではない」
「見込みがない、ということですか」
「五気の術については、今のところな」
宗真はうなずいた。
できると言われて同じ修行を続けるより、できない範囲が分かった方が次を選べる。
「だから、羅玄子さんですか」
「あれは術ではなく、宝貝の作りを見る。おぬしの気が内へ沈む理由なら、わしより話が通じる」
「話が通じる性格には聞こえませんでしたが」
「そこは会って確かめろ」
灰衣の男は、水盤の縁を乾いた布で拭いた。
「見せる物を間違えるな。
羅玄子は、曖昧な頼みを最も嫌う」
「この水盤を持っていくわけにはいきませんよね」
「当然だ」
「では、今の結果をどう伝えればいいでしょう」
青柏の杖が、床を一度叩いた。
「会う前から、話を通す算段か」
「評判を聞くだけでは、器へ沈んだ仙気は見せられません。
何を見せれば判断してもらえるかが分かれば、会った後に話を進められます」
「別の器へ、仙気を沈めてみせればよい」
「壊しても問題のない器が必要ですね」
「その言い方なら、追い返されるのが少し遅くなるかもしれん」
灰衣の男は水盤に覆いを掛けた。
「結局、追い返されるんですか」
「追い返されずに済んだ者の話は、噂にならん」
*
仙籍房を出ると、朝霧は石道の端まで薄くなっていた。
濡れていた屋根に日が差し、軒から落ちる雫が一つずつ光る。
青柏は新参の居所とは反対へ歩き出した。
宗真も、長い外套の裾を持ち上げて後に続く。
「羅玄子さんは、龍を退ける道具も作れますか」
杖の先が、石の継ぎ目を一つ越えた。
「作れるだろうな」
「ずいぶん簡単に言いますね」
「作るかどうかは別の話だ」
「龍を退けねば仙人になれんと聞いた直後に、羅玄子へ行きたいと言い出していたら、わしも止めた」
「強い武器だけ欲しがっているように見えるからですか」
「違うのか」
宗真は、朝霧の向こうに重なる山を見た。
龍を一人で退けるという条件を聞いた時は、何から考えればよいかも分からなかった。
今は、龍へ向かう前に確かめるべき問題が一つ見えている。
種を芽吹かせられない。
火を灯せない。
水も土も金も動かせない。
それなのに、仙気は照身の水盤へ沈んだ。
「龍の前で、初めて道具の使い方を試すわけにはいきません」
「当然だな」
「強い武器を渡されても、何をすれば動くのか、どこまで使えば壊れるのか、今の私には分かりません。
動かなかった時に、武器が悪いのか、使い方が悪いのか、自分の仙気が悪いのかも分けられない」
「では、何を求める」
宗真はすぐには答えなかった。
宗真は石道の脇へ目を向けた。
井戸で、竹籠を背負った女が滑車を回している。
綱が軋み、水桶が石の縁へ上がった。
濡れた石の縁には、綱が長く擦った溝が残っていた。
「試せる場所が欲しいです」
青柏の杖が止まった。
「場所か」
「壊しても、どこが壊れたか見られる場所です。
できれば、試した結果を残しておきたい。
直せるなら直して、条件を一つ変えて、もう一度試す。
何ができるか分からないうちは、その繰り返しが先だと思います」
「龍へ持っていく剣ではなく?」
「剣を作る前に、何ができるかを試す場所です。
周りを壊さずに龍を退ける道具なら、なおさら、一度きりで終わる作り方にはできません」
青柏は杖をつき直し、また歩き始めた。
「羅玄子の工房へ行って、最初に作業場を貸せと言うつもりか」
「言い方は考えます」
「よく考えろ。
あれは、自分の工具を指一本分ずらされただけで怒鳴る」
「先に聞けてよかったです」
「だが、強い武器をくれと言うよりは、長く話を聞くかもしれん」
「それなら、見せられるものを先に伝えます」
*
石造りの家が並ぶ道を抜けると、道幅が狭くなった。
片側は低い土壁、もう片側は山肌に沿う畑になっている。
畝の間で、鍬を持った老人が二人を見上げた。
「青柏殿。
そちらの小さいのは、新しい弟子か」
「まだ拾っただけだ。
羅玄子のところへ連れていく」
老人は鍬を土へ立てた。
「そいつは気の毒に」
「会う前から決めないでください」
宗真が言うと、老人は歯の抜けた口で笑った。
「腕はよいぞ。
わしの鍬も、頼んだ時より軽くなって戻った」
「それは、よい仕事では?」
「刃を広くしてくれと言ったんだ。
あやつは柄を短くしおった」
「使いにくくなりましたか」
「腰は楽になった」
「では、必要な方を直したんですね」
「勝手にな」
老人は短い柄の鍬を片手で振り下ろし、土を返した。
腰を曲げずに抜いた刃には、欠け一つない。
さらに進むと、腰に小さな鈴を下げた若い男とすれ違った。
青柏が羅玄子の名を出すと、若い男は鈴を手で覆った。
「頼まぬ方がいい。
あの人は、人の話を聞かない」
「何を頼んだんですか」
「遠くの獣を追う鈴だ。
三日かけて考えた口上も、半分で止められた」
「何を作ってもらったんです」
「近くに獣が来た時だけ鳴る鈴だ」
「音は悪くない」
若い男は鈴を押さえたまま、足早に去っていった。
「評判が一致しませんね」
「腕はよいだろう」
「腕がよいことと、頼んだ通りには作らないことは一致しています」
鍬は老人の腰を楽にし、鈴は若い男の腰から外されていない。
羅玄子は人の話を聞かないのか、それとも頼みの奥まで聞くのか。
二つの噂だけでは決められなかった。
「その人が何を見るのかは、本人に確かめます」
「追い返されたらどうする」
「何を見せられなかったか考えて、出直します」
「気の長い話だな」
「百年同じ修行をするよりは短いと思います」
青柏は笑い声とも咳ともつかない息を漏らした。
*
道の先で、乾いた音が三度続いた。
金属を打つ音に似ていたが、鍛冶場のような重さはない。
硬い石の縁を、細い工具で少しずつ刻む音だった。
土壁の向こうから、白い煙が一本上がっている。
風に流されると、炭の匂いに混じって、焼けた石と油の匂いがした。
「あそこだ」
青柏が杖で示した。
山肌へ半分埋まるように、低い建物が立っていた。
屋根の端は煤け、軒下には割れた環や欠けた器が縄で下がっている。
割れた環にも欠けた器にも、一本ずつ小さな札が結ばれていた。
宗真は一番近い札を見た。
細い墨字が三行ほど並んでいる。
遠くて内容までは読めない。
「失敗した物でしょうか」
「本人に聞け」
青柏が煤けた扉を杖の先で叩いた。
「羅玄子。おるか」
中の音は止まらなかった。
青柏がもう一度叩く。
「おるなら返事をしろ」
「うるさい。
音を数えている時に叩くな」
戸の向こうから、低い声が返った。
「客だ」
「帰せ」
「器へ気を沈める客でもか」
金属音が止まった。
静かになると、炉が低く息をする音が聞こえた。
何かを作業台へ置く音がして、足音が扉へ近づいてくる。
戸が、指二本分だけ開いた。
煤を頬につけた人物が、隙間から宗真を見た。
束ねた髪から一房だけが落ち、片方の袖には焦げ跡と白い粉が重なっている。
扉へ掛けた手の指先には細かな傷があり、もう一方の手には先の細い工具が握られたままだった。
羅玄子の視線は、宗真の長すぎる外套から、右手の指先へ移った。
戸が、もう少しだけ開く。
「何が欲しい」




