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第8話 仙気だけはある

「指は種へ向けろ。

 だが、押すな」


 青柏は宗真の右手を取り、手のひらを浅い皿の上へ導いた。


「息を吸う時に、腹の下へ気を集める。

 吐く時に、腕を通して指先まで運べ。

 種の内にある木気へ触れれば、あとは向こうが芽吹く」


 宗真は、皿の中央にある種を見た。

 小豆より少し細く、乾いた皮に浅い筋が入っている。


「押さずに、触れる」


「そうだ」


「難しい注文ですね」


「龍を退けるよりは易しい」


「比べる相手を変えてください」


 青柏は皿の種を杖で示した。


 宗真は息を吸った。

 胸ではなく、腹へ入れる。

 桃の身体は小さく、深く吸ってもすぐにいっぱいになった。

 胸の奥にある温かさを、腹の下へ集める。

 照身の水盤へ手をかざした時、腕へ流れたものだ。


 温かさは、確かにあった。

 腹の下から腕へ、腕から手首へ。

 細い流れが指先まで届く。


 宗真は、ゆっくり息を吐いた。


 種は動かなかった。


 皿の縁に、風で運ばれた細かな砂が一粒乗った。

 それだけだった。


「もう一度だ」


 青柏に言われるまでもなく、宗真は二度目の息を吸っていた。

 今度は肩を上げない。

 肘を固めない。

 指先を種へ向けたまま、力だけを外へ出す。


 温かさは指まで来た。

 しかし、そこから先へ進まない。


 指先の内側で行き場をなくし、薄く広がって消えた。


 種は、乾いたままだった。


「芽が出るまで、普通はどれくらいですか」


「初めてでも、出る者なら三息ほどだ」


「では、あと一回は普通の範囲ですね」


 灰衣の男が、広場の入口で腕を組んだ。


「数え方で芽が出るなら、仙籍房に畑を作っておる」


「今は集中させてください」


「口は動くようだ」


 宗真は三度目を試した。


 種は動かなかった。


 四度目も、五度目も同じだった。


 青柏は種を取り上げ、爪の先で皮をわずかに割った。

 中は白く、湿っている。

 枯れた種ではないらしい。

 割った種を皿の脇へ置く。

 青柏は懐の布袋から別の種を出し、皿へ置いた。


「聞き違えたところがあるかもしれません。

 最初からお願いします」


 青柏は眉を上げた。


「同じことをか」


「同じに聞こえても、同じにできているとは限りません」


「では、立ち方からだ。

 足を肩幅に開けろ」


 宗真は足元を見た。

 長い外套の下で、右足が半歩前へ出ている。

 揃え直すと、青柏の杖が左の爪先を軽く押した。


「開きすぎだ」


 足を直す。

 腰を落とす。

 背を伸ばす。

 肩の力を抜く。


 青柏に呼吸を数えてもらい、気を集める場所と、吐く時に通す先を確かめる。

 指の形も、一本ずつ直した。


 宗真は、もう一度、種へ手を向けた。


 温かさは同じところまで来て、同じところで止まった。


「姿勢の問題ではなさそうですね」


「決めるのが早い。

 今度は座れ」


 青柏は木台の下から円い敷物を引き出し、宗真の前へ放った。

 立って駄目なら座る。

 手のひらを下にして駄目なら、指を二本だけ向ける。

 目を開けて駄目なら、閉じて種の形を思い浮かべる。


 それでも、皿の上には乾いた種が一粒あるだけだった。


 近くの水鉢で稽古していた二人の男が、いつの間にかこちらを見ていた。

 一人は宗真より背が低く見える。

 もう一人は白髪だったが、顔には皺がない。

 白髪と顔つきのどちらを年齢の目安にすべきか、宗真には分からなかった。


「種を替えた方がよいのでは」


 背の低い男が言った。


「もう替えた」


 灰衣の男が答える。


「青柏殿の木気を先に通して、道を見せては」


 白髪の男が言った。


「それも試す」


 青柏は宗真と場所を替わった。

 皿へ手をかざし、短く息を吐く。


 種の皮が音もなく割れた。

 白い根が皿に触れ、緑の芽が持ち上がる。

 二枚の葉が開くまで、三息もかからなかった。


「これで、種のせいではないと分かりました」


「ようやく納得したか」


「自分でも確かめたかったんです」


 灰衣の男が腕を組んだまま、宗真を見た。


「できぬ割には、落ち着いておるな」


「騒いで芽が出るなら、先に騒ぎます」


 宗真は皿の脇へしゃがんだ。

 青柏が芽吹かせた種と、自分が触れた種を見比べる。

 違うのは種ではない。

 皿でもない。

 立ち方も呼吸も、直してもらった。


 残る違いは、使う側にある。


「次を試せますか」


 青柏は芽を皿ごと木台の端へ寄せた。


「火だ」


 広場の中央にある石灯籠へ移った。

 中には短い灯芯が立っている。

 油の匂いはするが、火はない。


 青柏は、今度は人差し指と中指を揃えさせた。


「木の時と同じように気を運ぶ。

 火は先へ出す。

 熱を恐れて引くな」


「出た火で袖が燃えませんか」


「出てから心配しろ」


 宗真は長い袖を肘の上までまくり直した。

 試し場の塀に新しい石が使われていた理由を考えるのは、あとにした。


 呼吸を整え、指先を灯芯へ向ける。

 温かさが腕を通る。

 火にはならない。


 灯芯は黒いままだった。


 青柏が自分の指を向けると、小さな火が灯った。

 すぐに指でつまんで消す。

 宗真も手順を変えて三度試したが、煙一筋さえ出なかった。


 水鉢では、水面から雫を一つ持ち上げるよう言われた。


 宗真が手をかざすと、空の雲が水面に映ったまま動かない。

 横で白髪の男が手を上げれば、水は細い紐になって指へ巻きついた。


「力を入れすぎてはいないか」


「むしろ、どこへ入れればいいのか分かりません」


 宗真は答え、指の角度を変えた。

 水面は静かなままだった。


 土の盆では、中央の土を盛り上げる。

 金の棒では、触れずに一本だけ鳴らす。


 土は一粒も転がらず、金属の棒は風にさえ鳴らなかった。


 背の低い男が盆へ指を向けると、土は中央へ丸く盛り上がった。

 白髪の男が金属棒の前で手を払うと、一本だけが澄んだ音を立てた。


 五つの試しを終えた時、浅い皿の種だけが青柏の木気を受けて、小さな双葉を開いていた。

 宗真が動かしたものは一つもない。


 背の低い男が、灯籠、水鉢、土の盆、金属棒を順に見た。


「五つとも、というのは珍しい」


「まだ、こちらへ来たばかりだからでしょうか」


 宗真が尋ねると、その男は首を横に振った。


「渡ってきたばかりでも、五気は動く。

 慣れだけで決まるものではない」


 白髪の男が金の棒の根元を確かめながら言った。


「道具の方も傷んでおらん。

 先ほど、わしらは使えた」


 宗真には、一つだけ心当たりがあった。

 現実で眠る自分の意識だけを受け止めるため、仙桃から作られたこの身体だ。

 あの天使は、その組み合わせには前例がないと言っていた。

 だが、なぜそれを疑うのか説明するには、現実の寝室に残した身体と、夢でここへつながっていることまで話さなければならない。

 宗真は口を閉じたまま、自分の手を開いた。

 五つとも、温かさは指先まで届いた。

 ただ、教えられた通りには外へ出なかった。


「青柏さん、照身の水盤を、もう一度使えますか」


「わしも、そのつもりだ」


 青柏は皿の双葉を背の低い男へ渡した。


「植えておけ」


「青柏殿が植えればよいのでは」


「芽吹かせるのは得意だが、その後は忘れる」


「枯らしたことがあるんですね」


「三度ほどだ」


「五度です」


 灰衣の男が訂正した。


 青柏は杖をつき直し、歩き出した。


 宗真は外套の袖を戻し、灰衣の男と後を追った。


 仙籍房へ戻ると、照身の水盤は、先ほどと変わらず卓の横にあった。

 黒い石の浅いくぼみに水が張られ、天井の光を映している。


 灰衣の男が水盤の前へ立った。


「右手を水の上へ。

 触れるな」


「前と同じですね」


「違うことをして結果が変われば、何を測ったか分からん」


「分かりました」


 宗真は右の袖をまくり、手のひらを水面から指二本ほど上へ置いた。


 胸の奥の温かさが、腕へ流れる。


 水面が手の形に沿って、わずかに盛り上がった。

 その下から細い輪が生まれ、黒い縁へ向かって広がっていく。


「仙気はある」


 灰衣の男が言った。


 波紋が縁へ届いた。

 木、火、土、金、水。

 五つの刻みを水光が順に走る。


 どの字にも、光は残らなかった。


 男が水盤の縁を指で叩く。

 水面に二つ目の輪が広がり、五つの字をもう一度なぞった。


 木は暗い。

 火も、土も、金も、水も暗い。


 中央にだけ、宗真の手の下で細かな波紋が続いていた。


「試し場と同じだな」


 青柏が言った。


「はい。

 仙気はある。

 でも、五つのどれにも流れない」


 宗真は水面から手を上げた。

 波紋が小さくなっていく。


 消えかけた波紋を確かめようと、宗真は水盤へ身を寄せた。

 身体を支えるため、右手を黒い縁へつく。

 冷たい石へ触れた途端、指先に残っていた温かさが、その内側へわずかに抜けた。

 水盤の中から、高く短い音が響いた。


「手を離せ」


 灰衣の男の声に、宗真はすぐ右手を上げた。


「何をした」


「消えかけた波紋を近くで見ようとして、縁に手をついただけです」


「気を流したか」


「流したつもりはありません。

 手をついたら、温かさが勝手に指先から抜けました」


 灰衣の男は縁へ耳を当て、宗真が触れた場所を指で二度叩いた。


「割れてはおらん」


 青柏は水盤の五つの字を順に見て、最後に宗真の右手へ目を移した。


「もう一度だ」


「待て。

 今のは水盤の測り方ではない」


「だから、何が起きたか確かめる」


 灰衣の男は卓の下から厚い布を取り出し、床へ広げた。

 水がこぼれた時のためらしい。

 それから棚に掛かる木簡を二枚、少し高い場所へ移す。


「一息だけだ。

 さっきと同じように、手のひらまで気を運べ。

 水へは触れるな。

 黒い縁へ指を置け。

 わしが止めろと言ったら、すぐ指を離せ」


「分かりました」


 宗真は、人差し指を水盤の縁へ置いた。


 黒い石は冷たかった。

 触れた指の腹に、細かな凹凸がある。

 指を動かすと、細かな石目が途切れずに続いた。


 宗真は息を吸った。


 試し場で五度繰り返したように、腹の下へ意識を置く。

 腹の下へ集めた温かさを腕へ通し、指先から外へ出す。


 今度は、止まらなかった。


 温かさが指先を越えた。


 火のように灯らず、水面も動かさず、黒い石の内側へ流れ込んでいく。


 水盤の内側から、高く短い音が一度だけ響いた。


「手を離せ」


 灰衣の男の声と同時に、宗真は指を上げた。


 木、火、土、金、水の字は、どれも暗いままだった。

 水面も平らで、波紋一つない。


 だが、宗真が触れていた場所から水盤の内側へ、髪の毛ほどの細い光が伸びていた。


 光は表面を走らず、黒い石の奥を通っていた。

 光は五つの字のどれにも向かわず、浅いくぼみの底を半周し、途中で枝分かれした。


「これは、何ですか」


 青柏が水盤へ顔を寄せた。


 灰衣の男が縁へ耳を当て、指で二度、場所を変えて叩く。

 黒い石の内側で、細い光が一度だけ震えた。


 それから、墨が水へ溶けるように消えた。


「割れてはいない」


「よかったです」


「よくはない。

 水盤の内側へ道を作った」


「私がですか」


「おぬしの仙気がだ。

 水盤が吸ったのではない。

 おぬしが外へ出そうとしたものが、術へ向かわず、器の中へ沈んだ」


 宗真は自分の人差し指を見た。

 痛みも熱もない。

 胸の奥の温かさも、少し減った気がするだけで残っている。


 青柏は水盤の内側を覗き込んだ。


「五気の術へ出ていかんことは、照身の水盤が最初から示していた。

 仙人骨もある。

 身体の内では気も巡っておる」


「出ていかない代わりに、器へ入る」


「今見た限りではな」


 宗真は、詰めていた息をゆっくり吐いた。

 五つあった失敗が、一つの流れの違いでつながった。

 理由も直し方も分からない。

 それでも、次に調べる場所は見えた。


「普通の修行を続ければ、外へ出せるようになりますか」


 青柏は、すぐにはうなずかなかった。


「百年、同じ手順を繰り返せば、うまくなることはある」


「ずいぶん遠回しですね」


「百年後も同じところで止まることもある、という意味だ」


「それは困ります」


「だろうな」


 青柏は水盤の黒い縁を指でなぞった。

 先ほどの光は、もうどこにもない。


「わしは五気を教えられる。

 気の巡りも見られる。

 だが、器の内へ沈んだ仙気をどう扱うかは、わしの領分ではない」


「器へ沈む仙気を見られる人がいるんですか」


「一人、心当たりがある」


 灰衣の男が、床へ広げた布を畳む手を止めた。


「あの偏屈者を薦めるのか」


「腕は確かだ」


「腕以外を褒める者を見たことがない」


「ならば、十分ではないか」


「会う側には十分ではない」


 青柏は宗真へ向き直った。


「羅玄子という」


 宗真は、その名を頭の中で一度繰り返した。


「その人は、どんな方なんですか」


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