第7話 龍を一人で退けろ
味噌汁の湯気の向こうで、龍がとぐろを巻いていた。
もちろん、食卓にいるわけではない。
修一の頭から、昨夜聞いた一言が離れないだけだ。
龍を一人で退ける。
青柏は、明日の天気でも告げるようにそう言った。
聞き間違いではない。
確かめた時にも、あの老人は同じ調子でうなずいた。
「お父さん」
紬の箸が、納豆の上で止まっていた。
「さっきから、お椀を見て固まってる」
「考え事をしてた」
「朝から難しい顔ね」
佳乃が焼き鮭を三人の皿に取り分けながら言った。
「仕事?」
「資格試験みたいなものの夢を見た」
「試験に落ちる夢?」
「受験資格を取るまでが長いやつ」
嘘ではない。
道士は、まだ仙人ではない。
一人前になる条件が、龍を一人で退けることだ。
昨夜分かったのは、そこまでだった。
「勉強してないからじゃない?」
紬が納豆を混ぜながら言った。
「夢の中では、教科書ももらってない」
「それで試験だけ受けようとするの、無謀でしょ」
「ごもっともです」
修一が頭を下げると、紬は眉をわずかに上げた。
佳乃は小さく笑い、三人分の湯飲みに茶を注いだ。
まず、教科書をもらうところからだ。
夢で見た話を夢で終わらせられないなら、順番くらいは守った方がいい。
修一は味噌汁を飲み、出勤までの時刻を確かめた。
現実の朝に、龍のための時間はなかった。
食後、修一は燃えるごみの袋を玄関へ運んだ。
半透明の袋の底で、卵の殻と使い終わった麦茶の袋がずれる。
持ち手が指へ食い込み、結び目の左右で重さが偏った。
「お父さん、それ今日出すの?」
洗面所から戻った紬が、髪を結びながら袋を指した。
「燃えるごみの日だろ」
「ペットボトル、入れてないよね」
「入れてない」
「前に入れかけてた」
「あれは未遂」
「未遂でも駄目」
修一は袋の中をもう一度見た。
昨夜の話も、これくらい確かめやすければよかった。
「確認ありがとう」
紬はごみ袋から修一へ視線を移した。
「今日、素直じゃない?」
「試験前だからな」
「夢の?」
修一は靴を履き、ごみ袋を持ち直した。
「まずは、ごみを出してから考える」
龍は遠い。
集積所は、廊下の先にある。
今朝はそれで十分だった。
夜、修一は寝床で目を閉じた。
☯
目を開けると、仙籍房の低い棚に、木簡が静かに下がっていた。
墨で書かれた二字が正面を向いている。
宗真。
昨夜、仙界で名乗った名だ。
木簡の墨は、まだ濡れている。
現実では、朝食を取り、会社へ行き、帰宅して、また夜になった。
朝、紬にごみ袋の中を確かめられてから、仕事の合間や帰り道にも、「退ける」と「倒す」の違いを考えていた。
こちらでは、一息ぶんの時さえ過ぎていない。
接続が切れているあいだ、仙界の時は進まないらしい。
身体だけでなく、時計まで二つになったようだった。
問いを現実へ持ち帰れば、修一だけは一日考えてから、仙界の次の一息へ答えを持ち込める。
一見すると、ひどく便利に見える。
ただし、止まっているのはこちらの時計だけだ。
木簡の墨が乾かないあいだにも、佳乃と紬の一日は先へ進む。
夢の中だけという条件は、現実の時間を使わないという意味ではなかった。
青柏はすぐ横で、杖の先を石床についていた。
灰衣の男も、奥の席に戻ったまま、次の木簡へ手を伸ばしている。
宗真は丸一日分の考えを顔に出さないよう、細く息を吐いた。
「続きをするぞ」
「龍の話ですね。確認してもいいですか」
「歩きながらならな」
灰衣の男は奥の席を立ち、二人に先んじて戸口を出た。
青柏が仙籍房の外へ歩き出し、宗真もあとを追った。
仙籍房の外へ出ると、石道は薄い朝霧に濡れていた。
軒下の木札が、風に触れて乾いた音を立てる。
桃林の向こうには、青い山並みが重なっている。
「龍は、倒すものではないんですか。先ほど、退けると言いましたよね」
青柏の杖が、石の継ぎ目を越えた。
「よく聞いておる。
龍は獣より、山川や風雨に近い。
荒れたからと斬れば、流れごと死ぬことがある」
「何の流れですか」
「水を運ぶ龍もいれば、雲を呼ぶ龍もいる。
地脈に沿って眠るものもおる。
荒れた龍を鎮め、人の地から離し、元の流れへ戻す。
それを退けると言う」
宗真は、石の継ぎ目を踏み越えた。
相手を倒して最後まで立っていれば勝ちという話なら、まだ分かりやすかった。
視線を山並みへ移した。
雲の影が斜面をゆっくり滑っている。
あの山肌の一部が身を起こし、川の向きを変えるところを想像してみた。
相手の大きさより先に、守る範囲の広さで息が詰まった。
「つまり、龍を止めたうえで、周りも壊さない」
「大ざっぱだが、外してはおらん」
「それを、一人でやるんですか」
「そうだ」
「確認するたび、条件が軽くなることはないんですね」
「何度聞いても同じだ。龍の方から小さくなってはくれん」
青柏は振り返らず、石段を上り続けた。
宗真も一段ずつ、その背を追った。
段の脇を、桶を担いだ男が下りてくる。
桶の水面には雲が映り、一滴もこぼれていない。
男は青柏へ会釈し、宗真とはそのまますれ違った。
足を止めず、桶を揺らさないまま石段を下りていった。
段の上には、灰衣の男が立っていた。
先ほど、木簡に宗真の名を書いた仙籍房の役人だ。
若く見える顔の目尻にだけ、細い皺が刻まれている。
「青柏。もう連れ出すのか」
「五気を試すだけだ」
「ならば急げ。
龍の前へ出すなら、その前に百年は座らせた方がよい」
灰衣の男は、庭の腰掛けを勧めるような口調で言った。
「百年、ですか」
宗真が聞き返すと、男は初めてこちらを見た。
「龍の前に立つなら、それくらいはいる。五十年で行く者もおる」
「その人たちは、龍を退けられたんですか」
「たいてい、あの山の向こうまで飛ばされた」
男は、重なる山並みの一つを指した。
近い山ではない。
青い稜線が霞へ溶け、その先は見えなかった。
百年ほど座る。
五十年なら急ぐ。
仙界では、時間まで人間の尺度に収まっていない。
住宅ローンの返済表でも、三十年先の数字は紙の端にあった。
紬が成人するまでの年数も、佳乃と何度も数えた。
それでも、百年には届かない。
仙界で百年を使う間に、現実で何年が過ぎるのかも分からない。
佳乃と同じ朝を迎え、紬が大人になる時間から、自分だけ降りる気もなかった。
夢の中だけならと出した条件は、仙界の都合に合わせて消していいものではない。
「百年が長い顔だな」
灰衣の男が言った。
「長いです」
「新参は皆そう言う。五十年もすれば慣れる」
「その慣れ方は、たぶん間に合いません」
宗真は答えてから、夢だけの契約についての説明を飲み込んだ。
話せば、佳乃と紬のことから始めなければならない。
灰衣の男は、宗真から目を離さない。
宗真は口を閉じ、青柏へ顔を向けた。
杖の先が、石床を離れた。
青柏が宗真と灰衣の男の間へ杖を差し入れた。
「百年の話は後だ。
今日は、水盤に出なかった五つを実際に試す」
「木、火、土、金、水を、全部ですか」
「そうだ。水盤に出ぬのなら、実際に使って確かめる」
宗真は、水盤の縁に刻まれた五つの字を思い浮かべた。
名前は知っていても、ここで何をどう動かすのかは分からない。
自分の手元にあるのは、仙気はあるのに五つの字は一つも光らなかった、という結果だけだった。
「五つとも使えなかったら、何が分かるんですか」
「水盤の見落としではないと分かる」
「それなら、分からないままより助かります」
灰衣の男は、喉の奥で小さく笑った。
「妙に年寄りじみた小道士だ」
「見た目との差は、自覚しています」
青柏が歩き出した。
宗真も長すぎる裾をつまみ、あとに続いた。
石道は家々の間を抜け、低い塀に囲まれた広場へ続いていた。
屋根はない。
中央には、背の低い石灯籠が一つ。
その横に、水を張った浅い鉢がある。
少し離れて、黒い土を入れた盆。
広場の奥には金属の棒が何本か並び、入口に近い木台には、空の浅い皿が一枚置かれていた。
道具の角は丸くなり、木台の縁は手の跡で黒ずんでいる。
水鉢は低い石台に据えられ、金属棒の根元は石床へ埋め込まれている。
木台だけが、宗真の腰より少し低い。
石床には、灯籠から伸びる黒い筋と、水鉢から流れた白い跡が残っていた。
塀の一部は、新しい石で継ぎ直されていた。
宗真は塀の高さと出口までの距離を見た。
龍を前にした時の役には立たない確認でも、今はしておく方がいい。
「試し場だ」
青柏が塀の内側へ入った。
「ここで五気の初歩を一つずつ試す」
宗真は広場を見回した。
龍は遠い。
百年も遠い。
仙人の二字も、まだ遠い。
だが、目の前には灯籠と土の盆、金属棒、水鉢、木台の空の皿がある。
手を伸ばせる距離にあるものから確かめればいい。
「最初は、何を試すんですか」
「木だ」
青柏は懐から小さな布袋を出し、乾いた種を一粒、浅い皿へ落とした。
「芽吹かせろ」
種は皿の中央で止まった。
今朝、紬に言われた言葉が浮かぶ。
教科書もないのに試験を受けようとするのは、無謀。
宗真は、木台へ半歩近づいた。
龍の前に立つより先に、芽一つ出せるかどうかだ。
息を整え、細い手首が出るところまで外套の袖をまくった。
まくった袖を片手で押さえ、青柏を見た。




