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第6話 宗真という名

 青柏の外套は、石段を上るたびに裾で地面を掃いた。

 腰紐を胸の下で結び直しても、長さまでは変わらない。

 修一は裾を片手で持ち上げ、青柏のあとを追った。


 桃林を抜けると、石道の両側に低い建物が並んでいた。

 反り返った屋根の下を、灰色や青色の衣を着た者たちが行き交っている。

 籠を背負う者がいる。

 箒で石畳を掃く者もいる。

 雲上の仙界でも、道端でしていることは意外に普通だった。


 何人かが修一を振り返った。

 正確には、修一の足元を引きずる外套を見た。

 修一はもう片方の手でも裾を持った。


「青柏さん。まだですか」


「その角を曲がれば着く」


「さっきも同じことを聞いた気がします」


「あれは坂がまだ半分だった」


「今回は」


「本当に角だ」


 青柏の言葉どおり、角の先に小さな門があった。

 門の奥には、正面の戸を開け放した平屋が一つだけ建っている。

 軒下の額には、太い字が三つ並んでいた。


 仙籍房。


 戸籍の籍なら、名を登録する場所だろうか。

 修一は、現実の役所を思い浮かべた。


「ここへ名を置くと、仙界の籍に入る」


 修一が尋ねる前に、青柏が言った。


「仙人として、ですか」


「急ぐな。最初は道士だ」


 聞き慣れた言葉のはずなのに、仙界で言われると意味が違うらしい。

 修一は質問を一つだけ頭に残し、青柏とともに戸口をくぐった。


 室内の壁には、細長い木簡が棚いっぱいに並んでいた。

 一枚ずつ紐が通され、札のように下がっている。

 紙の帳面は見当たらない。

 代わりに、中央の卓へ筆と墨、それから文字のない木簡が積んであった。


 役所というより、道場の入門受付に近い。

 ただし、窓口らしい柵も順番札もなかった。


 卓の向こうにいた灰衣の男が、筆を置いた。


「青柏。今度は何を連れてきた」


「仙気のある小僧だ。名も籍もない」


「物のように言わないでください」


 修一が言うと、灰衣の男は一度だけ目を細めた。


「言葉は通じるようだな」


「はい」


 青柏が気にせず奥へ進んだので、修一も外套の裾を持ってついていった。


 卓の横に、黒い石を丸くくり抜いた台があった。

 修一の腰ほどの高さで、両腕を広げれば抱えられそうな大きさだ。

 浅いくぼみには、縁すれすれまで水が張られている。

 天井から落ちる光が、揺れもせず水面に乗っていた。

 黒い縁は五つに区切られ、木、火、土、金、水の字が一つずつ刻まれていた。


「照身の水盤だ。仙籍房の宝貝だ」


 灰衣の男が水盤の縁を指で叩いた。


「姿と骨、仙気の有無、それから五気の寄りを見る。分かるのはそこまでだ」


 身元を言い当てる道具ではないらしい。

 それなら、いまの修一にも都合がよかった。


「何をすればいいんですか」


「右手を水の上へ。触れるなよ」


 修一は外套の袖をまくった。

 細い手首が出る。

 手のひらを下へ向け、水面から指二本ほどのところで止めた。


 水が手の形に沿って、わずかに盛り上がった。

 冷たさは届かない。

 代わりに、昨日まで知らなかった温かさが胸の奥から腕へ流れた。

 桃林で青柏に手首を取られた時と同じ感覚だった。


 一滴も触れていないのに、水面へ細い輪が広がっていく。

 波紋が縁へ届くと、木、火、土、金、水の刻みを水光が順に走った。

 だが、どの字にも光は残らなかった。

 灰衣の男は、修一の手を下ろさせなかった。


「そのまま」


 男が水盤の縁を指で叩く。

 五つの刻みを、もう一度、水光が走った。

 今度も、光は一つも残らない。


「仙気はある。だが、五気の寄りが出ん」


「五つとも光らないこともあるんですか」


「わしは見たことがない」


 灰衣の男は水盤から青柏へ目を移した。


「ならば、あとで五つとも試せ」


 青柏はそれだけ言った。


「名を置く条件は満たしておる。手を下ろせ」


 五気の話は、そこで切れた。

 どこから来た仙気なのかも、この身体が何なのかも問われない。

 修一は袖を戻した。

 波紋が消えると、水面に天井の光が戻った。


 修一は上体をかがめ、水盤を真上からのぞき込んだ。

 そこに、知らない顔が浮かんでいた。


 頬は薄く、顎の線も細い。

 長い髪が左右から垂れ、外套の襟へ掛かっている。

 十代前半に見える少年だった。

 目元だけが、その年齢には似合わないほど落ち着いている。


 何も知らずにすれ違えば、少女と見間違えてもおかしくない。

 青柏が最初に娘と呼んだ理由は分かった。


 修一は水面へ顔を近づけた。

 映った少年も、少し眉を寄せる。

 その表情だけは、自分が毎朝鏡で見ていたものに近かった。


「驚かんのだな」


「驚いています」


「そうは見えん」


「先に終わらせたいことがあるので」


 青柏は、白いひげの奥で笑った。


「やはり話の早い小僧だ」


 水面の少年に向かって小僧と言われると、さきほどよりは意味が通った。

 修一は身体を起こした。

 灰衣の男が、卓から無地の木簡を一枚取る。


「では、名を」


 答えなら、四十年以上使ってきた。


 小野寺修一。


 その五文字を口にしかけて、修一は棚を見た。

 名を書かれた木簡が、部屋の壁を埋めている。

 ここで名乗ることは、道ですれ違った相手への自己紹介とは違う。

 書かれた名は、この棚に残る。


 小野寺修一という名には、佳乃と紬がつながっていた。

 練馬の家も、朝の食卓も、玄関の竹刀袋もつながっている。

 意味も分からない仙界の棚へ、そのまま掛ける気にはなれなかった。


 灰衣の男は、筆を取らずに待っている。

 青柏も急かさなかった。


 修一は、水盤に映った顔をもう一度見た。

 現実にはいない少年の顔だった。

 ならば、現実で誰も使っていない名が一つある。


 紬が生まれる前、佳乃と二人で名前の候補を書いた紙があった。

 産院でもらった封筒の裏へ、思いつくたびに一つずつ増やした。

 最後まで残ったのが、紬と宗真だった。


 女の子だと分かった夜、佳乃は紬の字を丸で囲んだ。

 宗真の字は消さず、紙を折って母子手帳の袋へ戻した。

 使わなかった名も、そこにしまったままだった。


「そうま」


 修一は、その名を声にした。


「字は」


「宗に、真です」


 灰衣の男が筆を取った。

 木簡の上から、宗、真、と二字を書く。

 墨が木目へにじみ、黒い線がゆっくり落ち着いた。


「真を宗とする、か」


 青柏が横から木簡をのぞいた。


「ずいぶん大きな名を置いたな」


「そこまで立派な意味で選んだわけではありません」


「名のほうが先に立派でも構わん。追いつく時間はある」


 仙界で言われる時間が何年なのか、修一にはまだ分からない。


 灰衣の男は二人の話を聞き流し、宗真の下へ小さく道士と書き足した。

 木簡の穴へ紐を通す。

 立ち上がると、壁際の棚の下段へそれを掛けた。


 新しい木簡が隣の一枚へ触れ、乾いた音を立てる。

 それきり、動かなくなった。


「これで宗真は仙界の籍に載った」


 灰衣の男が元の席へ戻る。


「道士として始めればよい」


 宗真。

 心の中で呼んでみる。

 水面の少年へ付けた名なのに、知らない誰かを呼んだ感じはしなかった。


「道士というのは、新しく来た者の呼び名ですか」


「名を置き、これから学ぶ者だ」


 答えたのは青柏だった。


「まだ仙人ではない」


 仙界へ来たのだから、仙人になったものだとどこかで思っていた。

 どうやら桃から出ただけでは、入口に立ったことにしかならないらしい。


「一人前になるには、何をすればいいんですか」


 青柏は、桃林へ散歩に行く話でもするように答えた。


「龍を一人で退ける」


「龍、ですか」


「そうだ」


「一人で」


「そうだ」


 棚では、宗真と書かれたばかりの木簡が静かに下がっていた。

 墨もまだ乾いていない。


     ☯


 枕元で、スマートフォンの目覚ましが鳴った。

 修一は目を開けた。

 半分閉じたカーテンの隙間から、朝の光が入っている。

 ベッドの向こうは空いていた。

 佳乃はもう台所へ行ったらしい。


 修一は目覚ましを止め、自分の右手を見た。

 水盤へかざした手より大きい。

 指の節も、手の甲の薄いしみも、昨夜までと変わらなかった。

 頬を撫でると、剃る前のひげが指に当たる。


 水面にいた少年の顔は消えている。

 それでも、宗真という二字はすぐに思い出せた。

 夢の途中を忘れた感覚はない。

 龍という言葉まで、きちんと残っている。

 できれば、そこだけは寝ぼけて聞き違えたことにしたかった。


 台所から、食器の触れ合う音がした。

 修一は部屋着の上へカーディガンを羽織り、廊下へ出た。


「修一さん、おはよう」


 佳乃は炊飯器の蓋を開けたところだった。


「おはよう」


「紬、起こしてくれる?」


「分かった」


「あと、剣道部の参加票。今日までだったと思う」


 冷蔵庫の横には、学校から届いた予定表が貼ってある。

 今日の日付へ、佳乃の字で小さな丸が付いていた。


「本人の机かな」


「たぶん。机に置いたって言ってたから」


 佳乃は茶碗へご飯をよそった。

 修一は紬の部屋の前まで行った。

 扉は閉じている。


 いつもなら、二度ほど軽く叩いて、そのまま少し開けていた。

 起こすだけなら、そのほうが早い。

 伸ばした手が、取っ手の手前で止まった。


 水盤に映った顔が頭へ戻る。

 自分の顔も分からないまま、娘と決めつけられた。

 男だと伝えれば、今度は小僧と呼ばれた。

 青柏に悪気はなかった。

 それでも、自分の口で答える前に呼び方が決まっていくのは、落ち着かなかった。


 修一は取っ手から手を離し、扉を二度叩いた。


「紬、起きてるか」


 返事はない。

 取っ手には触れず、少し待った。

 中で布団の動く音がする。


「起きてる」


 眠そうな声が返ってきた。


「参加票、机の上にあるか」


「ある」


「入って取ってもいい?」


 扉の向こうが静かになった。


「……ちょっと待って」


「分かった」


 修一は廊下で待った。

 衣擦れの音がして、机の引き出しが閉まる。

 やがて扉が少しだけ開いた。

 紬が寝癖のついた髪のまま、隙間から参加票を差し出す。


「今日は入ってこないんだ」


「待ってと言われたから」


「いつもノックしたら、すぐ開けるのに」


「ノックはしてただろ」


「返事する前に開けたら、あんまり意味ない」


 修一は言い返しかけて、やめた。


「悪かった。次から待つ」


 紬は少しだけ目を上げた。


「別に。待つなら、それでいいけど」


 部屋の扉が閉まる。

 すぐに、着替えを探す音が再び始まった。


 修一は参加票を持って食卓へ戻った。

 保護者署名欄へ、黒いボールペンで名前を書く。


 小野寺修一。


 五文字は、学校の紙の小さな枠へきちんと収まった。

 修一は参加票を紬の席へ置いた。


 それから、味噌汁の椀を三つ並べた。

 三つ目を置く頃、廊下で紬の部屋の扉が開いた。


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