第3話 夢の中だけという条件
針の穴が、朝から小さかった。
修一は食卓に竹刀袋を広げ、白い糸の先を何度も指で撫でた。
佳乃が針箱から出してくれた糸は、ほつれた箇所より少し明るい。
縫えば、直した場所だけが目立つだろう。
「お父さん、まだ?」
向かいの椅子で、紬が牛乳を飲みながら待っている。
急かしているくせに、コップの中身は半分から減っていなかった。
「いま針に糸を通しているところ」
「そこから?」
「そこが一番難しいんだよ」
「昨日の夜にやるって言ってたじゃん」
「昨日の夜は、ちょっと忙しかった」
夢の中で天使と、向こうで死んでも現実の身体を死なせない条件について話していた。
説明したところで、寝ぼけたと思われるだけだろう。
佳乃が修一の手から針を取り上げた。
糸の先を唇で軽く整え、一度で穴へ通す。
「はい」
「ありがとうございます」
「夜中に二回も目を覚ましてたけど、大丈夫?」
針を受け取る指が止まりかけた。
修一は糸を引き、竹刀袋の裏側へ針を入れた。
「変な夢を見てただけ」
「どんな夢?」
紬がすぐに聞いてくる。
「まだ途中なんだ」
「続きもの?」
「たぶん」
「じゃあ、終わったら教えて」
紬に話せる結末になるのだろうか。
修一にも分からなかった。
縫い目はまっすぐにならなかったが、ほつれは閉じた。
紬は袋を持ち上げ、白い糸を指で押した。
「ちょっと曲がってる」
「強度には問題ありません」
「見た目にも問題があります」
言い方だけは佳乃に似ている。
佳乃は笑いながら、紬のコップを指で示した。
「それを飲んだら、出るよ」
紬が牛乳を一息で飲む。
修一は針箱の糸切りばさみで余り糸を切り、食卓の端へ置いた。
白い糸が、ほつれていた袋の口を閉じている。
昨夜リシェルが言った接続も、似たようなものかもしれない。
つなぐのは袋の布ではなく、自分の意識と、別の世界に置く器だ。
考えると、急に話が大きくなる。
修一は短く切った糸を指先で丸め、朝食の皿と一緒に立ち上がった。
*
その夜、修一は目を閉じる前に目覚ましの時刻を確かめた。
いつもと同じ時刻だった。
竹刀袋は玄関へ戻っている。
白い縫い目は曲がったままでも、袋の口はきちんと閉じていた。
修一は布団へ入り、佳乃の側へ身体を向けた。
夢の続きを待って眠るのは、子どもの頃以来かもしれない。
楽しみにしていると認めると、少し落ち着いた。
意識が沈み、暖房の音が遠ざかる。
暗さの中に、細い桃色の光が浮かんだ。
☯
白い場所の中央で、リシェルが胸元に両手を重ねていた。
修一に気づくと、リシェルの口元がほころんだ。
薄い羽の先は、小刻みに揺れ続けている。
「前の夜に言っていた器は、使えそうですか」
「まだ、使えるとは言えません」
「まだ」
「ですが、先に一つだけ確かめられました」
リシェルは胸元の手をほどき、右手を修一へ向けた。
「手を見せていただけますか」
「触れても大丈夫ですか」
「触れません。少しだけ、確かめさせてください」
修一が右手を上げる。
リシェルの指は触れず、手のひら一枚ぶんの隙間を残して止まった。
その隙間に、細い光が一本だけ渡った。
光は修一の手首へ触れ、反対側はリシェルの指ではなく、白い場所の奥へ伸びていく。
どこまで続いているのかは見えない。
手首に、布団の中と同じ温かさが戻った。
遠くで暖房が鳴っている。
佳乃が呼吸するたび、すぐそばの布団がわずかに動く。
修一は白い場所に立ったまま、暖房の音と布団の動きを感じた。
「寝室につながっているんですか」
「眠っている、あなたご自身につながっています」
リシェルが指を少し離す。
光は消えたが、手首の温かさは残った。
「いま、ここに見えているあなたは、夢告に応じた姿です」
「魂が出てきているわけではない」
「はい。魂も肉体も、現実に残っています」
修一は自分の指を曲げた。
白い場所の指が動く。
同時に、布団の中の指先もほんの少し動いた気がした。
「向こうで動く時は、どうなりますか」
リシェルは、光が消えた白い場所の奥を示した。
「眠っているあなたと、別の世界に置く器を、夢でつなぎます」
「僕は、その器の中に入る」
「中へ入るというより、向こうで目を開くための身体として使います」
「それでも、魂は寝室にあるんですね」
「そこは動かしません」
前の夜と違い、返事に間はなかった。
「現実で目が覚めたら、つながりは閉じますか」
「はい」
「妻に起こされた時も、目覚ましが鳴った時も?」
「同じです」
「僕が行きたくない夜は、つながない」
「はい。毎晩の接続にはしません」
前の夜、一番長く返事を待った条件を口にした。
「向こうの器が死んだら、どうなりますか」
リシェルの羽が止まった。
「器とのつながりを閉じます」
「現実の僕も死にますか」
「死にません」
修一は息を吐いた。
持ち上がっていた肩が、ゆっくり下がった。
リシェルの羽は止まったままだった。
「ですが、痛みや恐怖を、すべて夢として消せるかは分かりません」
修一は顔を上げた。
「記憶は残るかもしれないんですね」
「はい。現実の身体へ傷は移さなくても、あなたが経験したことまで、なかったことにはできません」
修一は手首に残る温かさを指で押した。
「そこまで消えたら、僕ではなくなりそうですね」
リシェルはわずかに目を見開いた。
それから、修一の手首を見てうなずいた。
「そうかもしれません」
「妻や娘には、何もつながりませんか」
「お二人を、この夢へ招いてはいません」
リシェルは一度、唇を閉じた。
「あなたの眠りに触れれば、先ほどのように、現実へ戻す側に働きます。こちらへ連れてくることはありません」
佳乃や紬の手は、自分を現実へ戻す。
二人を向こう側へ連れていくことはない。
修一は、そこまでを条件に加えた。
「別の世界は、安全ですか」
「分かりません」
「そこも、はっきりしていますね」
「安全だと保証できる世界なら、先の候補者の方々にも、聞かれる前にお伝えしていました」
「聞かれなければ、伝えていなかったんですか」
リシェルは視線をそらした。
羽の先も、少しだけ外へ開いた。
修一は、候補者たちが細かく質問した理由を少し理解した。
「今度は、聞かれる前に言いましょう」
「はい」
羽の先が、ゆっくり閉じた。
「それで、行き先はどんな世界ですか」
「まだ、決められません」
「世界からではなく、器から探すんですか」
「はい。身体として使えること。現実側の魂を引かないこと。眠りが覚めれば、つながりを閉じること」
リシェルは目線を上げ、言葉の順番を整えた。
「その条件に合う器を探してから、行き先を決めます」
「向こうの人には、僕がどこから来たか分かるんですか」
「分かりにくくすることも、器の条件に入れます」
「条件が増えましたね」
「夢の中だけという条件が、初めてなのです」
リシェルの眉尻が下がった。
胸元で重ねた指に力が入り、指先が白くなった。
それでも、現実を置いていくよりはいい。
リシェルが右手の人差し指を横へ引いた。
修一の手首と白い場所の奥を結ぶ線が、もう一度だけ現れる。
寝室へ戻る側は、つながっている。
反対の端は、白い光の中へ溶けたままだ。
「いま決まっているのは、帰る側だけです」
「行き先は、まだ空欄」
「はい」
修一は玄関に立てかけた竹刀袋を思い出した。
曲がった縫い目でも、袋の口は閉じている。
こちらへ戻る糸が切れないなら、行き先を探す余地はある。
「確認します」
修一は、自分の手首を押さえた。
そこにはまだ、布団の温かさがあった。
「身体と魂は、現実に残る」
「はい」
「眠っている間だけ、向こうの器で動く」
「はい」
「現実で目が覚めれば、何をしていても戻る」
「はい」
「向こうでその身体が死んでも、現実の僕は死なない。ただし、痛みや記憶までは消えないかもしれない」
「そのとおりです」
「家族は、こちらへ巻き込まない」
「お二人を接続へ招かないことは、お約束します」
リシェルの羽は、もう揺れていなかった。
修一は手首から奥へ伸びた細い光を見た。
戻る側だけは、先に結ばれている。
それなら、器を探すところまでは進めていい。
「その器が条件を守れるなら、試します」
リシェルはすぐに笑わなかった。
修一の顔を見たまま、組んだ指をほどかない。
「成功するとは、お約束できません」
「条件を満たせる器がなければ、ここまでです」
「見つかっても、思っていた世界ではないかもしれません」
「その時は、朝に戻ってから考えます」
「魔法が使えるとも限りません」
「それは残念です」
修一が答えると、リシェルの口元がようやくほどけた。
薄い羽が、白い光を受けて透ける。
「では、心当たりのある器が条件に合うか、確かめます」
「朝には帰ります」
「はい。朝には、必ず」
リシェルが右手を下ろした。
白い場所の奥へ伸びていた線が薄れる。
それでも、手首の温かさは消えなかった。
「その器は、どこにあるんですか」
「別の世界にあります」
今度の返事には、間がなかった。
「条件に合いそうですか」
「まだ、分かりません」
リシェルが目線を上げた。
白い場所の、何もない一点を見つめる。
胸元で固く組まれていた指が、一本だけほどけた。
「夢をつなぐ器として、使われたことは?」
薄い羽の先が止まる。
「前例は、ありません」




