第2話 転生候補者たちは小慣れている
白い場所は、すぐには戻ってこなかった。
修一が目を閉じると、まぶたの裏には寝室の暗さだけがあった。
暖房の低い音が聞こえる。
佳乃の寝息も、ベッドの向こうから届いている。
夢へ戻ろうとして眠れなくなるのは、ずいぶん間の抜けた話だ。
修一は肩の力を抜いた。
明日の朝は早い。
竹刀袋の糸を直すなら、針箱も探さなければならない。
見つからなければ、その時はその時だ。
そう考えたところで、暖房の音が遠ざかった。
布団に触れていた指先の感覚が薄くなる。
暗さの奥に、白い光がにじんだ。
今度は、自分から眠りに落ちていくのが分かった。
☯
目を開けると、リシェルが目の前にいた。
近い。
修一が半歩下がると、リシェルも慌てて半歩下がった。
淡い金色の髪が遅れて揺れる。
羽は大きく持ち上がったままだった。
先ほど別れた時から、そのまま待っていたように見える。
「戻ってきてくださったのですね」
「戻れたみたいです」
「はい。驚きました」
提案した本人が驚いている。
修一は、少し不安になった。
「戻る方法は、分かっていたんですよね」
「もう一度お眠りになれば、お話の続きはできるかもしれないと」
「かもしれない」
リシェルの羽が、少しだけ下がった。
「まず、そこから確認したほうがよさそうですね」
修一が言うと、リシェルは素直にうなずいた。
半歩ぶん離れたリシェルの羽先が、小さく揺れていた。
しかし、戻れるかどうかを本人も知らなかった。
先ほど胸の内に浮かんだ返事は変わっていない。
ただし、返事だけを先に渡すのはやめたほうがよさそうだった。
修一は一度、言葉を選んだ。
「夢の中だけなら、いいですよ」
リシェルの口元がほころんだ。
「ありがとうございます」
「ただ、条件を確認してからです」
その笑みが、そこで固まった。
羽だけが、ゆっくり元の高さへ戻っていく。
「やはり、確認なさるのですね」
「やはり」
リシェルは小さく息を吐き、胸元で指を組み直した。
「承知しました。初期資金、言語理解、健康状態、現地での身分、治安、衛生、収納の広さ」
指を一本ずつ開きながら、滑らかに並べていく。
先ほどより項目が増えていた。
「ご希望の能力と、恋愛上のご要望も先に伺います」
「最後のものは必要ですか」
「三名続けて、同じことを確認されました」
「多いですね」
「お一人は、ないことを希望されました」
「どうしてですか」
「争いになると困るから、と」
そこまで考えているのか。
転生したことはないはずなのに、先の候補者たちはずいぶん慣れている。
修一が感心していると、リシェルは開いた指を見下ろした。
「ほかに、成長の上限、技能の習得速度、痛みの軽減、食事の好み、帰還の可否もございます」
「質問票みたいになっていますね」
「増えました」
「最初からあったわけではないんですか」
「皆さまのお話を伺うたびに」
リシェルの声が、そこだけ少し低くなった。
修一は社内で使っている申請書を思い出した。
最初は三つしかなかった記入欄が、事故や問い合わせのたびに増えていく。
誰かの困りごとは、次から注意書きになる。
天使の仕事も、あまり変わらないらしい。
「では、小野寺修一さまのご希望を伺います」
リシェルは指を組み直した。
今度は、十本の指がきちんと揃っていた。
少なくとも、確認されることには慣れている。
「最初に、若い身体をご希望でしたね」
「魅力的だとは言いました」
「魔法も」
「見たいとは思っています」
リシェルの羽が少し持ち上がる。
修一はすぐに言葉を継いだ。
「でも、その前にあります」
「はい」
「今の身体を動かさないことです」
リシェルがまばたきをした。
「寝ている僕の身体を、どこかへ運ぶのはなしです」
「肉体の移動はしない」
リシェルがゆっくり繰り返した。
「魂を抜いて、向こうへ運ぶのもなしです」
「魂の移動もしない」
二本目の指が開く。
「入れ替えるのも、作り替えるのも困ります」
「入れ替えず、作り替えない」
三本目の指が開いたところで、リシェルは首をかしげた。
「それでは、小野寺修一さまは、どのように別の世界へ行くのでしょうか」
「それを、僕に聞きますか」
「わたしにも分かりません」
きっぱりと言われた。
ごまかされるよりはいい。
だが、それで安心できるわけでもなかった。
「だから、夢の中だけです」
修一は言った。
「今の僕は、寝室で寝ています」
「はい」
「身体はそこにある。魂も、そこから動いてはいないんですよね」
「はい」
「それでも、ここであなたと話せています」
リシェルの視線が、修一の顔から足元へ下がった。
修一も自分の身体を見下ろした。
毛玉のついたTシャツも、スウェットも、先ほどまでと変わらない。
見た目だけでは、ここにいる自分が何なのかは分からなかった。
「今と同じ形で、別の場所を見られないんですか」
「見るだけなら、夢告の範囲です」
「夢告」
「夢を通じて、知らせを届けることです」
リシェルは胸元の指をほどいた。
「ですが、別の世界で歩き、触れ、何かをするのであれば、見るだけでは足りません」
「身体が必要になる」
「はい。少なくとも、身体の代わりになるものが必要です」
修一は小さくうなずいた。
できるという約束ではない。
それでも、探すものは一つに絞れた。
「では、それを探すとして――」
「まだ条件がありますか」
「あります」
リシェルの羽が少し下がった。
「先に確認した方々と比べて、多いでしょうか」
「種類が違います」
「種類」
「皆さまは、向こうで何を得られるかをお尋ねになりました」
リシェルは、開いた三本の指を見た。
「小野寺修一さまは、こちらに何を残すかばかりお尋ねになります」
「残すというより、戻るためです」
修一は白い場所を見回した。
寝室は見えない。
けれど、佳乃はすぐ隣にいる。
竹刀袋も、入り口の壁に立てかけてある。
そこだけは、見えなくても忘れなかった。
「朝には、必ず戻ること」
リシェルの四本目の指が開いた。
「妻に起こされた時や、目覚ましが鳴った時にも戻れること」
五本目が開く。
「現実で何かあった時は、こちらより現実を優先すること」
開く指が足りなくなり、リシェルは反対の手を使った。
「毎晩、必ず行かなければならない形にもしたくありません」
「接続は任意」
「接続という言い方でいいんですか」
「ほかに近い言葉がありません」
リシェルは少し考えてから、首を横に振った。
修一も、ほかの言葉を思いつかなかった。
転生でもない。
転移でもない。
眠っている間だけ、別の場所にいる。
夢と呼ぶには具体的で、旅行と呼ぶには身体がない。
「もう一つあります」
修一が言うと、リシェルは両手を見た。
十本の指には、まだ余裕がある。
「向こうで僕が死んだら、どうなりますか」
リシェルの指が止まった。
白い場所が、急に静かになった気がした。
もともと、何の音もなかったのに。
「死ぬおつもりですか」
「ありません」
「でしたら――」
「でも、確認は必要です」
修一は、声を変えずに続けた。
「知らない世界なら、何が危ないかも分かりません」
「はい」
「夢の中で死んだら、寝ている僕まで死ぬ。そういう形なら断ります」
リシェルはすぐには答えなかった。
羽の端がゆっくり下がる。
修一は「大丈夫です」という返事を、少しだけ期待していた。
けれど、リシェルは口にしなかった。
「今のわたしには、お約束できません」
修一はうなずいた。
「分かりました」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいです」
分からないまま請け合われるより、その返事のほうがいい。
修一は、ようやく肩の力を抜いた。
「その条件を満たせる方法が見つかったら、改めて聞かせてください」
「見つからなければ、どうなさいますか」
「この話は、ここまでです」
修一が答えると、リシェルは目を伏せた。
胸元で指を組み直す。
先ほどまで開いていた条件の数を、両手の中へしまうような動きだった。
「転生でも、転移でもありません」
「そうですね」
「魂も肉体も動かさず、眠っている間だけ、別の世界で動ける形」
リシェルは、一つずつ確かめるように言った。
「現実で目覚めれば戻り、向こうで傷ついたり死んだりしても、現実の身体と命には影響を残さない」
「それが条件です」
「前例はありません」
「でしょうね」
修一が答えると、リシェルは少しだけ頬をふくらませた。
「そこは、驚いていただいてもよいところです」
「最初に夢の中だけと言った時点で、そんな気はしていました」
「わたしは、もう少し簡単なことを想像していました」
「たとえば」
「夢の中で、向こうの様子をご覧になるだけです」
「それだと、魔法は使えませんね」
リシェルが顔を上げた。
修一は少しだけ笑った。
家族を置いていかない。
現実の身体も魂も渡さない。
その条件は変えない。
だが、条件が守られるなら、ただ見るだけで帰るつもりもなかった。
「使ってみたいのですか」
「見せてもらいましたから」
「小さな光だけですよ」
「最初は、それで十分です」
リシェルの羽が、少しだけ持ち上がった。
「では、身体の代わりになるものを探します」
「ありますか」
「分かりません」
また、きっぱりと言われた。
「ですが、器になり得るものに、心当たりがないわけではありません」
「器」
修一が繰り返すと、リシェルはうなずいた。
「あなたの身体でも魂でもない、向こう側の受け皿です」
言い終えた直後、白い場所が揺れた。
右の手首に、かすかな温かさが触れる。
佳乃の指だった。
寝返りを打った拍子に、修一の手へ触れたらしい。
修一の指先に、布団の重さが戻り始める。
「触れられただけでも、戻るみたいです」
「そのようですね」
リシェルは目を見開き、薄れ始めた修一の姿を見た。
胸元で組んだ指が、また一本開く。
「次にお会いするまでに、方法を調べます」
「無理はしないでください」
「勧誘される方が、勧誘する方を心配なさるのですね」
「今のところ、あなたのほうが困っていそうなので」
リシェルは胸元で重ねた指をほどいた。
その手を、小さく振った。
「次は、もう少しよいお話を持って参ります」
「質問項目は、増やさない方向でお願いします」
リシェルの羽が、白い光の中で大きく揺れた。
修一は目を閉じた。
☯
目を開けると、寝室だった。
佳乃は眠ったままだ。
彼女の指先が、修一の手首に触れている。
入り口の竹刀袋も、さっきと同じ場所にある。
修一は佳乃を起こさないように手をずらし、枕元のスマートフォンで時刻を確かめた。
眠ってから、まだそれほど経っていない。
朝までに、もう一度眠る時間は十分ある。
修一はスマートフォンを伏せた。
身体の代わりになる、向こう側の受け皿。
それが何なのかは分からない。
分からないままなのに、少しだけ楽しみになっている。
修一は竹刀袋の白い糸を見た。
今度こそ朝まで眠るために、目を閉じた。




