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第1話 夢の中だけなら、いいですよ

 眠る前、小野寺修一は寝室を一度だけ見回す。


 枕元のスマートフォン。


 半分だけ閉じたカーテン。


 ベッドの向こうで、妻の佳乃が肩まで布団を引き上げている。


 寝室の入り口には、娘の紬が置き忘れた竹刀袋が立てかけてあった。


 袋の口から、糸が一本だけ出ている。


 修一は四十代の会社員だ。

 事業会社で、社内SEとIT企画のあいだにいるような仕事をしている。

 新しい仕組みを派手に作るより、古い手順書を直す時間のほうが長い。

 部署ごとに違う言い分を並べ、どこで話が噛み合っていないかを切り分ける。


 障害報告、会議メモ、置き場所の分からない資料。

 誰かが拾い忘れた確認事項を拾うことが多い。

 派手な仕事ではない。

 けれど、放っておくと、あとで誰かが困る。


 家でも、たぶん似たようなものだった。

 ごみ出しの日を覚え、切れかけた電球を気にする。

 冷蔵庫の横に貼られた学校のプリントが曲がっていれば、まっすぐに戻す。


 立派な父親かと聞かれると、自信はない。

 佳乃に頼まれた買い置きを忘れる日もある。

 紬の話に返事をしながら、仕事の続きが頭に残っている夜もある。


 それでも、寝る前に部屋を見回すくらいには、この家の明日が気になっていた。


 明日の朝、きっと言われる。


「お父さん、ここ、ほどけてる」


 そう言われてから針箱を探す自分まで、修一には目に浮かんだ。

 針箱は洗面所の棚か、食卓の横の引き出しにある。

 どちらにもなければ、佳乃に「この前使ったの、誰だっけ」と聞かれる。

 たぶん自分だ。


 修一は小さく息を吐き、電気を消した。


 たいした一日ではなかった。

 仕事でちゃんと疲れた。

 夕飯の味噌汁は少し薄かった。

 紬は宿題を後回しにして怒られた。

 それでも、明日の朝もその続きがある。


 修一は目を閉じた。


     ☯


 次に目を開けると、寝室はどこにもなかった。


 白い場所だった。

 壁も床も白い。

 天井があるのかは分からない。

 足元は固いのに、遠くは霧のようにぼやけている。


 音はない。

 匂いもない。


 夢だ、と修一は思った。

 夢でなければ困る。


 少し離れたところに、天使が立っていた。


 そう呼ぶしかなかった。

 背中には薄い羽があり、白い衣が光に溶けるように揺れている。

 淡い金色の髪。

 整いすぎた顔。

 目を合わせると、修一のほうが先にまばたきをした。


 ただ、怖くはなかった。

 神々しいというより、かわいらしい。


 両手を胸元で重ね、真面目な顔をしている。

 それなのに、羽の端だけが落ち着かない。

 じっとしている顔と、そわそわ動く羽が合っていなかった。


「小野寺修一さま、ですね」


 声は柔らかかった。

 最初の一音だけ、少し上ずっていた。


「はい」


 修一は答えて、自分の格好を見下ろした。

 寝る時のTシャツとスウェットだった。

 しかも、Tシャツの裾に小さな毛玉がある。


 天使の前に立つ格好としては失礼だ。

 天使の視線は、裾の毛玉だけを避けて通った。

 気を遣ってくれる天使らしい。


「わたしはリシェルと申します」


 彼女は胸元の指をきちんと組み直した。


「あなたに、大切なお話があって参りました」


「戸締まりなら済ませました」


「とじまり」


 リシェルは一度まばたきをした。


「いえ、別の世界で、新しい人生を始めていただくお話です」


「どうして僕なんですか」


 リシェルの羽が、ほんの少し下がった。


「本来は、今の生活を離れても困らなさそうな方から、お声がけすることになっています」


「僕、その条件から外れていませんか」


「はい」


 そこは、すぐに認められた。


「本当は、先にお声がけした方々のどなたかで決まる予定でした」


「皆さま、転生なさったことはないはずなのに、とてもお詳しくて」


「詳しい」


「収納の有無、言語補正の範囲、魔法の強さ、健康保証、帰省の可否などを、とても具体的に確認されました」


 リシェルの羽が、項目を数えるたびに少しずつ下がっていく。


「わたしがご用意できるものでは、足りませんでした」


「それで、条件を少し広げることになりまして」


「僕まで来るなら、だいぶ広げていますよね」


 リシェルの羽が、もう一段だけ下がった。


 修一は少しだけ同情した。

 詳しい人ほど、転生の条件には細かいらしい。


「人生なら、今ので間に合っています」


 リシェルの羽がぴたりと止まった。


 修一は少し悪いことをした気になった。

 かわいい天使が練習してきた言葉を、出だしから横へそらしてしまった。


 だが、別の世界で新しい人生を始める話である。

 軽く聞き流せる話ではない。


「あの、まだよいところをお伝えしていません」


「聞くと断りにくくなりそうです」


「そこを、少しだけ」


 胸元で重ねた指に力が入る。

 羽がまた揺れた。

 真面目で、丁寧で、少しだけ必死だ。

 断りにくい。


 修一はもう一度、自分のTシャツの毛玉を見た。

 夢の中でまで生活感を持ち込んでいる男が、天使相手に何をしているのだろう。


「聞くだけなら」


 リシェルの顔が明るくなった。


 ずるいな、と修一は思った。


「ありがとうございます」


 彼女はひとつずつ数えるように、指を開いた。


「若い身体、病気に強い身体、言葉が分かる力をお渡しできます」


「それから、向こうで生きるための小さな力も」


 若い身体。

 そこだけ、はっきり耳に残った。


 最近、朝は腰が重い。

 紬に「素振り見て」と言われると、父親らしく応じたいのに、身体は古い階段みたいにきしむ。


「小さな力というのは」


「向こうの世界で困らない程度の力です」


「たとえば」


 リシェルは、そこで少しだけ誇らしげに背筋を伸ばした。


「魔法があります」


 胸元で重ねていた指を、リシェルがそっと開いた。

 爪の先ほどの光が浮かび、足元の白に小さな輪を作った。

 輪の縁だけが、一拍遅れて消えた。


 リシェル自身も目を丸くした。

 それから慌てて、胸元に指を戻した。


「今のが、魔法ですか」


「はい」


 リシェルは、ほんの少しだけ胸を張った。


「小さいですが」


 修一は黙った。

 小さいのに、目が離せなかった。


 若い身体という言葉も、さっきから頭の端に残っている。

 言葉が通じるというのも大きい。


 夢の中で話を聞いているだけなら、楽しかった。


 どんな世界なのか。

 空は何色なのか。

 食べ物は口に合うのか。

 魔法は手から出るのか、杖がいるのか。

 腰痛は消えるのか。


 聞けば、たぶんもっと楽しい。

 だからこそ、先に聞かなければならなかった。


「念のため確認します」


「はい」


「その新しい人生を始めると、今の生活はどうなりますか」


 リシェルの羽が止まった。


「今の生活は、そこで終わります」


「それは無理です」


 返事は、自分でも驚くほど早く出た。

 リシェルが目を伏せる。

 修一は声を少し落とした。


「すみません」


「でも、無理です」


 寝室は見えない。

 佳乃も見えない。

 紬の竹刀袋も見えない。

 枕元のスマートフォンも見えない。

 それでも、ある。


 明日の朝、紬は牛乳を少しだけ残す。

 佳乃は「飲める分だけでいいよ」と言う。

 修一は食パンを少し焼きすぎて、焦げた端を自分の皿に移す。

 洗面所の電球は、そろそろ替えないといけない。

 竹刀袋の糸も、たぶん本当に言われる。


 どれも大事件ではない。

 だから置いていけない。


「妻と娘がいます」


「はい」


「家もあります」


「仕事もあります」


「仕事は、朝になったら勝手に消えてくれないかなと思う日もありますが」


 リシェルが小さくうなずいた。

 うなずくまでに、ほんの少し間があった。


「それでも、あります」


 修一は、白い場所に竹刀袋の形を思い浮かべた。


「娘の竹刀袋の糸が、ほつれているんです」


「しないぶくろ」


「竹刀を入れる袋です」


「明日の朝、直せるかって聞かれると思います」


 リシェルは視線を上げた。


「それは、大切なことなのですね」


「はい」


 修一は少し笑った。


 大切なことと呼ぶには小さい。

 けれど、そういう小さいものが積み重なって、今の生活になっている。


 リシェルは「竹刀袋」と小さく繰り返した。

 胸元で固く重なっていた指が、少しだけほどける。


 彼女には、まだよく分からないのかもしれない。

 それでも、分かろうとしている。

 そこがまた、断りにくかった。


「異世界には、興味があります」


 リシェルの羽の端が少し持ち上がった。


「本当ですか」


「本当です。若い身体も魅力的ですし、魔法も見たい。知らない場所も、たぶん楽しいと思います」


「では」


「でも、行きません」


 リシェルの表情から、明るさがゆっくり抜けた。


「ご家族が、理由ですか」


「はい」


「向こうでも、大切なものは、できると思います」


「今のほうがいいです」


 言ってから、少し照れた。

 夢の中で天使に向かって何を言っているのだろう。

 だが、言い直す必要はなかった。


 リシェルはすぐに返事をしなかった。

 羽の端が、白い光の中で少しだけ下がる。

 唇が小さく開き、何も出ないまま閉じた。


「小野寺修一さまは、欲がない方なのですね」


「ありますよ」


「そうなのですか」


「若返りたいですし、魔法も見たい。休みの日は、何もせず寝ていたいです」


「それは、欲なのでしょうか」


「かなり切実な欲です」


 リシェルは眉を少し下げて笑った。

 胸元で重ねていた指が、ようやくゆるんだ。


 かわいい天使は、やはり断りにくい。

 だが、断る。

 修一はそこだけは間違えなかった。


「今の生活を終える必要があるなら、無理です」


「……はい」


「すみません。せっかく来てもらったのに」


「いいえ」


 リシェルは首を横に振った。


「謝るのはこちらです」


「大切なものがある方に、そんな話をしてしまいました」


 リシェルは深く頭を下げた。

 羽が白い床にやわらかい影を落とす。

 夢の中なのに、その動きだけ妙に本物らしかった。


 修一は慌てて手を振った。


「頭を下げないでください。天使に謝られると落ち着きません」


「ですが」


「こちらも、けっこう揺れました。若い身体と魔法は強いです」


「強い」


「強いです」


 リシェルの口元が、ほんの少しゆるんだ。


 その時、白い場所の端が淡くにじんだ。

 寝室の暗さが戻ってくる。

 暖房の小さな音が、白い静けさに混ざる。

 目が覚めるのだと、修一は分かった。


 羽の端が、また落ち着かなく揺れた。


「小野寺修一さま」


「はい」


「もし、今の生活を終えずにすむ形なら」


 修一は返事をしかけて、止めた。

 行かないと決めたのは自分だ。

 なのに、頭のどこかが勝手に逃げ道を探している。


「……寝ている間だけ、とか」


 言ってから、しまったと思った。

 リシェルの羽が、ぱっと持ち上がる。


「夢の中だけなら、どうでしょうか」


 修一は、すぐには答えられなかった。

 そのまま、寝室の暗さが今度こそ戻ってきた。


     ☯


 枕元のスマートフォンは、まだ鳴っていない。

 ベッドの向こうで、佳乃が小さく寝返りを打つ。

 寝室の入り口では、紬の竹刀袋が壁に立てかけられている。

 袋の口から出た一本の糸が、暗がりに白く浮いていた。


 修一はしばらく、竹刀袋から伸びた糸を見ていた。


 夢の中だけなら、いいですよ。

 まだ口にしていない返事が、胸の内で形になった。

 先に逃げ道を口にしたのは、自分だった。

 ずるいと思いながら、修一は竹刀袋の糸を見たまま、もう一度だけ目を閉じた。


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