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第4話 仙桃という器

「前例は、ありません」


 リシェルは、そう言ったまま動かなかった。


 白い場所には、修一の呼吸だけが聞こえた。


 修一の右手首には、現実の布団の温かさがまだあった。

 戻る側の道はつながっている。

 これから探すのは、その反対側だ。


「前例がないというのは、器がですか。それとも、夢でつなぐことがですか」


「夢でつなぐことです」


 リシェルは胸元の指を組み直した。


「器そのものには、使われた例があります。ただし、眠っている方の意識だけを受け止めた例はありません」


 白い場所の奥で、淡い光がひとつ灯った。

 先ほどまで帰り道を示していた白い線とは違う。

 水に紅を一滴落としたような、薄い桃色だった。


 光はまだ遠い。

 それなのに、甘い匂いがした。


 修一は鼻から息を吸った。


「桃ですか」


 リシェルが目を丸くした。


「分かるのですか」


「桃の匂いなら」


「そうでした。小野寺修一さまの世界にも、桃はあるのでしたね」


「あります。普通は、人を入れませんけど」


 リシェルの羽が少しだけ縮んだ。


「こちらでも、普通は入れません」


「それを聞いて安心していいのか、迷いますね」


 薄桃色の光が、ゆっくり近づいてくる。

 丸い輪郭までは見えない。

 けれど、匂いだけは次第にはっきりしてきた。


 夏の台所で、まだ冷やしていない桃を切った時の匂いに似ている。

 紬は固い桃のほうが好きで、佳乃はよく熟れたものを選ぶ。

 修一はどちらでもよかった。

 家族三人なら、二個買えば足りるかどうかを先に考える。


 知らない世界へ渡る器から、ひどく身近な匂いがした。


「仙桃と呼ばれるものです」


「仙桃」


「仙人たちの世界にある果実です。命の形を受け止める性質があります」


 仙人。

 魔法の次に出てきた言葉は、修一が想像していた方向から少しずれていた。


「行き先は、仙人のいる世界ですか」


「この器を使うなら、そうなります」


「最初から、その世界へ送る予定だったんですか」


「違います」


 返事は早かった。

 リシェルは薄桃色の光へ目を向けた。


「あなたが、現実の身体も魂も動かさないとおっしゃったので、条件に合いそうなものを探しました。外から新しい身体を持ち込むより、もともとそこにある器を使うほうが、その世界の決まりを乱しにくいのです」


「乱しにくい」


「乱さない、とはまだ言えません」


 修一はうなずいた。

 断言できないところで言葉を弱める。

 それは、この二晩で覚えたリシェルの癖だった。


 頼もしいとは言いにくい。

 だが、分からないことまで大丈夫だと言う相手よりは、話を続けられる。


「その仙桃を、身体の代わりにするんですね」


「果実のまま使うわけではありません。仙桃をもとに、向こうで動くための身体を作ります」


「どんな身体になりますか」


「分かりません」


「男性ですか」


 リシェルは口を開き、閉じた。

 羽の先がわずかに外へ向く。


「そこからですか」


「大事な確認です」


「小野寺修一さまに合わせるよう、できる限り調整します」


「できる限り」


「前例がありませんので」


「便利な言葉になってきましたね」


「便利に使っているわけではありません」


 リシェルは少しだけ頬をふくらませた。

 修一は笑いかけて、やめた。

 その頬の向こうで、薄桃色の光は手を伸ばせば届きそうなところまで来ていた。


 リシェルが光へ片手を向ける。

 近づいていた薄桃色が、その場で止まった。

 甘い匂いだけが二人のあいだに残る。


「ここから先へ進む前に、条件をもう一度お確かめください」


 修一は右手首の温かさを確かめた。


「現実の身体も魂も寝室に残る。佳乃と紬は接続の外。朝になれば戻る。仙桃から作る身体が向こうで死んでも、現実の僕は死なない」


 修一は、譲れない線を一息で並べた。

 リシェルは最後まで遮らなかった。


「その四つは守ります。現実の命を、仙桃へ渡すことはしません」


「ただし、痛みや恐怖は記憶に残るかもしれません。向こうでどのように扱われるかも、わたしには分かりません」


「桃太郎みたいに、拾ってもらえるとは限らないか」


「ももたろう、とは何でしょう」


「こちらの昔話です。そもそも、見つからない可能性もありますか」


「あります」


「人の手が入る場所のものを選びます。見つけてもらえる可能性は上がりますが、安全だとは言えません」


 そこで、リシェルの手は上がったまま動かなくなった。

 止められた薄桃色の光が、指先の向こうで揺れている。


「それと、これは先にお伝えするべきでした」


 修一は光ではなく、リシェルを見た。


「この方法は、あなたが魂も身体も動かさないとおっしゃるまで、ありませんでした」


「完全に、その場で考えたんですか」


「その場です」


 小さくなった声とは反対に、返事は逃げなかった。


「夢を通してお話しすること。現実へ戻る道を残すこと。仙桃が命の形を受け止めること。その三つには、それぞれ前例があります」


 リシェルは空いている手の指を三本立てた。

 それから、三本とも同時に折り曲げる。


「でも、一つにつないだ例はありません。本来の手順にもない組み合わせです」


「知っている部品で、やったことのない仕組みを作っている」


「部品ではありません」


「たとえです」


「あまり、よいたとえではないと思います」


「僕は機械のほうが分かりやすいので」


 仕事でも、個別に動いたものをつないで初めて出る問題がある。

 試す側のリシェル自身が、その手をきつく握り込んでいた。


「異常が出たら、接続を止めます。ただし、わたしに分かる異常だけです」


「分からない範囲もあるんですね」


「あります」


 リシェルは、まだ光を止めたまま修一を見ていた。


 怖くないはずがない。

 前例がなく、成功も保証されず、向こうで何が待っているかも分からない。

 聞けば聞くほど、見送る理由が増えていく。


 断れば、明日の朝はいつもどおりに来る。

 会社へ行き、帰りに牛乳を買い、紬の竹刀袋の曲がった縫い目を見て、佳乃にもう一度縫い直したほうがいいと言われる。


 それで何も困らない。


 それでも、若い身体という言葉と、小さな光の魔法がまだ頭に残っていた。

 知らない空を、一度くらい見てみたいとも思っている。


 現実を捨てる気はない。

 だが、現実を守ったまま帰ってこられるなら、扉の向こうを覗いてみたい。


 そんな都合のいい話にするために、リシェルは予定になかった仙桃を引っ張り出してきた。


「最後に一つ」


 リシェルがうなずいた。


「成功する見込みは、どのくらいですか」


 リシェルは指を開きかけ、また閉じた。


「数字にはできません」


「高いか低いかも」


「分かりません」


「そうですか」


 修一は右手首を押さえた。

 布団の温かさがある。

 目を覚ませば戻る場所が、まだそこにある。


「では、条件が崩れていないことを信じます」


「わたしを、ではなく?」


「知らないことを、知らないと言ってくれたことは信じています」


 リシェルの目が、わずかに大きくなった。


「それで十分です」


 修一は薄桃色の光を見た。


「試します」


 その一言を聞いても、リシェルは笑わなかった。

 胸元の指を固く組み直した。


「途中で、戻れなくなる可能性を感じたら止めます」


「お願いします」


「小野寺修一さまも、先ほど確かめた条件と違うことが起きたら、現実へ戻ることだけを考えてください」


「帰り方は」


「目を覚ますことです。奥さまの声、娘さまの声、目覚ましの音。現実側のものをたどってください」


「向こうで忘れたら?」


「忘れないように、帰る側を先に残します」


 リシェルが両手を開いた。


 修一の手首から、細い白い線が現れる。

 先ほどよりも輪郭がはっきりしていた。

 線は修一の後ろへ伸び、白い場所の奥へ消えている。


 その向こうから、暖房の低い音が聞こえた。

 佳乃の寝息もある。

 布団の端が、足首に触れている。


 修一は目を閉じかけた。

 白い場所にいるのに、寝室がすぐ後ろに重なった。


「帰る側です」


 リシェルの声がした。


「これを残したまま、仙桃へつなぎます」


「切れませんか」


「切らないようにします」


 やはり、言い切らなかった。

 修一は白い線を見た。


 細い。

 頼りない。

 けれど、ないよりはずっといい。


「始めます」


「はい」


 薄桃色の光が、足元へ触れた。


 温かくはない。

 冷たくもない。

 触れられたはずなのに、感触より先に匂いが濃くなった。


 白い床の色が、足元からゆっくり変わっていく。

 薄紅の霞が、靴のない足を隠し、膝へ上がってくる。


 リシェルの羽も、輪郭から少しずつぼやけた。


「朝には戻ります」


 修一は言った。


 薄紅の霞が胸元まで上がった。

 白い線はまだ見える。


 桃の匂いの奥に、葉の青い匂いと、湿った土の匂いが混じった。

 白い場所にはなかった匂いだった。


 向こう側が、近づいている。


 修一は、最後に手首の温かさを確かめた。


 佳乃の寝息が遠くなる。

 暖房の音も遠ざかる。

 それでも、白い線だけは薄れない。


 足元がなくなった。


 落ちているのか、眠り直しているのかは分からなかった。


 薄紅の光が目の前を覆う。

 リシェルの姿が消える寸前、彼女は唇を引き結び、羽先を小さく震わせた。


 修一は目を閉じた。


 次に息を吸った時、桃の香りはすぐそばにあった。


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