第18話 龍の話を聞きに行く
「龍の頭だけでも、あの屋根ほどの大きさがあってな」
青柏は杖を持ち上げ、仙籍房の屋根を指した。
宗真は隣の石の腰掛けで、懐から出した白い札へ山の形を描いていた。
青柏を探して桃林まで行くつもりだったが、仙籍房の前で会えた。
龍の話を聞きたいと言うと、座る場所まで空けてくれた。
「雲が下がってきたかと思うた。
見上げれば、髯の先から雨が落ちておる」
青柏は髯を撫で、空へ目を細めた。
宗真の炭筆は、山の裾で止まっている。
「そのとき、どこに立っていたんですか」
「北の川の岸だ。
足元の石まで浮いたぞ」
宗真は山の下に川を描き、脇へ小さな丸をつけた。
石が浮く風なら、煙壺の煙もひとたまりもない。
丸から川沿いに線を引きかけ、青柏を見た。
「ここから、走って逃げたんですか」
青柏は持ち上げていた杖を、石床へ下ろした。
「まだ、龍が何をしたか話しておらんぞ」
「先に、どうやって逃げたのか教えてもらえますか」
青柏は宗真の札を覗き込んだ。
龍の姿は描かれていない。
山と川と、川岸に立つ小さな丸だけだった。
「川下へ走った。
風も川下へ来た」
宗真は引きかけた線の先に、長い矢印を足した。
「すぐに追いつかれた。
風除けの扇を開いたが、紙が裂けて、骨まで折れた」
青柏は、扇の残骸を払うように手を振った。
「横にあった溝へ転がり込んで、土を食うたわ」
青柏は杖の先で、宗真が描いた丸の横を指した。
宗真はそこへ短い溝を描いた。
川から離れる向きへ、自分の線を曲げる。
「溝の先の岩まで這って、その陰へ隠れた。
立ちかけたところへ、岩の脇から風が巻いてきた。
背中を打たれて、また溝へ落ちた」
宗真は溝の先に岩を描き、その裏へ回り込む矢印を足した。
札へ顔を近づける。
岩の陰でも、瓢箪に風が当たるかもしれない。
「それで、どうやって逃げ切ったんですか」
「そのまま腹ばいで、溝の先まで這った。
靴も片方脱げたが、拾うどころではなかったわ」
宗真は、炭筆を札から離した。
青柏の足元へ目を落とす。
「……それも、書いていいですか」
「書け。
頭の大きさも、忘れるなよ」
宗真は靴をなくしたことを書き留め、札の端へ、頭は屋根ほど、と添えた。
仙籍房の戸が開いた。
宗真の名を木簡へ書いた灰衣の役人が、二人を見下ろしている。
「靴をなくした話は、初めて聞いた」
「お前は、龍の大きさばかり聞くからだ」
役人は戸の奥へ引っ込んだ。
木が触れ合う音が続き、灰色の紐で束ねた札を持って出てきた。
腰掛けの空いた端へ束を置き、一枚ずつ繰る。
「龍の風を避けて、夜を明かした届けもあったはずだ。
逃げ道を探すなら、そちらも見ておけ」
差し出された古い札には、谷の細い道と、大きな岩が描かれていた。
上端には、南の谷、とある。
岩の脇に、風止む、と小さな字がある。
その下には、岩の陰で夜を越した、と続いていた。
「これを書いたのは誰ですか」
「端が欠けておる。
名までは残っておらん」
岩の図だけでは、風がどちらから来たのか分からない。
谷の道は途中で切れ、その先の様子もなかった。
「絵や文字を写して残せる鏡があるんです。
工房から持ってきて、この束の札を写してもいいですか」
役人は束をめくる手を止め、戸の奥へ目をやった。
「中の机を使っていいぞ」
青柏は、札束を持つ役人へ身を寄せた。
「龍の大きさが書いてある札も出してやれ」
「大きさの話は、もう聞きましたから大丈夫です」
宗真が札の端を示すと、青柏は髯の下で笑った。
*
問答鏡を工房から持ってきたとき、青柏の姿はもうなかった。
役人は戸を開け、宗真を奥の机へ通した。
机の端には、灰色の紐をほどいた札束がある。
宗真は短い柄へ仙気を沈め、札を一枚ずつ鏡へ映した。
龍が現れた山道、流された橋、戻ってこなかった荷車。
裏へ返すと、表の図だけでは分からない続きがあった。
紐の色と、札に残る書き手の印も一緒に映す。
青柏の話を記した札には、青柏から聞き、宗真が記す、と書き添えてから読ませた。
机へ広げた札で、腕を置く場所まで埋まった。
宗真は原札を重ね直し、空いたところへ二枚目の白い札を置いた。
岩と、その陰に置く瓢箪を描き、脇に、修理、と書いた。
左手に問答鏡を持ち、右手を枠へ添える。
「岩の陰で、龍の風を避けた記録を見せてくれ」
仙気を沈めると、鏡面に二枚の札の像が浮かんだ。
北の川の、岩を回る矢印。
南の谷の、岩陰で夜を越したという文字。
その下に、南の谷の札の裏が続いた。
龍去り、風止む。
その夜、岩陰に泊す。
宗真は、炭筆を握り直した。
泊まったのは、龍が通り過ぎてからだ。
風が吹いている間のことは、書かれていない。
原札を探し出して裏返すと、欠けた端の脇に、同じ記載があった。
宗真は白い札の、瓢箪の脇に杭を描き足した。
岩に隠れるだけでは足りない。
中へ入る前に、膜を張っておく。
枝を逸らした膜は、すぐに消えた。
その間に何を直して、外へ戻れるだろう。
宗真は、修理、の二字から岩の外へ矢印を引いた。
直した宝貝を持って、もう一度出てくる。
その矢印とは別に、岩陰から先へ逃げる線も加えた。
杭を据え、瓢箪へ戻れる場所を、南の谷で探したい。
札をしまいかけ、腰の小刀を見た。
宗真はその札を、小刀の鞘に沿わせて帯へ挟んだ。
役人が原札を束ね、灰色の紐を結び直す。
宗真は礼を言い、問答鏡を持って立ち上がった。
*
工房へ戻った頃には、戸口の光が赤くなっていた。
羅玄子は煙壺の蓋に鑿を当てている。
宗真は瓢箪を作業台へ下ろし、紐でつないだ杭を胴の脇へ置いた。
口へ顔を寄せ、中の土床を思う。
鑿の音が消えた。
宗真は問答鏡を机の木切れへ立て、白い札を二枚並べた。
小刀も鞘ごと帯から外し、札の脇へ置く。
靴のつま先から、細かい土が落ちた。
外套を畳み、土壁のそばへ置いた。
それを枕に横になると、机の縁で札が見えなくなった。
宗真は目を閉じた。
☯
「今日の午後、車出せる?」
紬が食卓へ差し出したプリントを、修一は受け取った。
近所の道場の剣道体験会だった。
小中学生の部と、一般初心者の部が、同じ時間に並んでいる。
「送っていけばいい?」
「うん。
終わるまで見ててもいいけど」
紬はプリントの時刻を指した。
その指が離れると、修一は場所と持ち物の欄へ目を移した。
動きやすい服装、タオル、飲み物。
「大人の初心者も参加できるんだな」
「……やるの?」
紬が牛乳のコップを持ったまま止まった。
修一はプリントを食卓へ戻した。
「ちょっと見てから」
「見てる間、横から口を出さないでね」
「言えるほど、知らないよ」
佳乃が流しから振り向いた。
「二人とも行くなら、帰りに牛乳お願い。
それ、もう最後だから」
紬がコップを見下ろした。
修一は冷蔵庫に留めた買い物の紙へ、牛乳、と書き足した。
*
道場の入口で靴を脱ぐと、板の床が足の裏へひやりと触れた。
奥では、竹刀の打ち合う乾いた音がしている。
紬は竹刀袋を抱え、入口で礼をしてから中へ入った。
修一もあとを追おうとした。
「お父さん、礼」
紬が小さな声で言った。
修一は入口へ半歩戻り、頭を下げた。
受付の人に名前を告げ、紬の後ろへ立つ。
先生が体験の参加者を集め始めた。
子どもたちの列とは別に、壁際へ大人が二人並ぶ。
修一が紬の上着を預かろうとすると、先生がこちらを見た。
「お父さんも、よかったらどうですか。
一般の体験は、皆さん初めてですよ」
修一は自分のスウェットの膝を見た。
紬は上着を鞄へ押し込み、修一の顔を見た。
「一緒に並ぶの?」
修一は壁際に並ぶ大人たちを指した。
「大人の列は、あっちだよ」
紬は大人の列を見てから、鞄を壁際へ置いた。
修一は先生の方へ向き直った。
「お願いします」
借りた竹刀は、思っていたより長かった。
右手だけで持ち上げかけ、先生が示す手の位置を見て左手を添える。
柄の端まで使うと、両手の間に隙間ができた。
仙界の小刀では、左手を置く場所などなかった。
修一は先端を少し上げた。
その向こうに、先生の顔がある。
足の位置を直され、握っていた指も緩めた。
これで、構えたことになるらしい。
立っているだけなのに、肩が上がっている。
先生が正面から、ゆっくり近づいてきた。
修一は自分の竹刀の先を見たまま、片足を後ろへ引く。
もう片方を寄せすぎて、踵が触れ合った。
慌てて横へ一歩逃がす。
「足を寄せすぎないようにしましょう。
一度、楽に立ってください」
修一は竹刀を下げ、息を吐いた。
隣の列では、紬も足の位置を直されていた。
口を結び、床を見てから、もう一度前を向く。
修一はこちらを見た娘へ、うなずきかけた。
紬はすぐ先生へ顔を戻した。
次は、足を一歩だけ引いた。
後ろの足へ前の足を寄せ、止まる。
それだけで、太腿に力が入った。
竹刀を持つ手より、そちらの方が早く疲れてくる。
休憩になり、修一は壁際へしゃがんだ。
鞄の横から自分の水筒を取ると、紬も少し離れたところへ座る。
額の汗を袖で拭こうとすると、紬が鞄からタオルを出して差し出してきた。
修一は礼を言って受け取り、首筋まで拭った。
「見てるだけの方が、楽だったな」
修一が言うと、紬は水筒の蓋を回した。
「お父さん、ずっと竹刀見てた」
「持ってると、そっちが気になるんだよ」
修一は床へ置いた竹刀を見た。
指を離している今も、先端の位置を確かめてしまう。
紬は水を飲み、蓋を閉めた。
「あとで足、痛くなるよ」
修一は伸ばしかけた膝を、そっと曲げ直した。
*
牛乳を冷蔵庫へ入れるときも、修一は足を少しずつ動かした。
腰を落とすと、太腿が張る。
佳乃が受け取ろうと手を伸ばしたが、修一は牛乳を奥の棚へ収めた。
「どうだった?」
「足を動かすだけで、こんなに難しいとは思わなかった」
「お父さん、途中で足が絡まってた」
紬は居間を通り、自分の部屋へ向かった。
修一は冷蔵庫の扉を閉めた。
「次も、送るよ」
紬が廊下で振り返った。
「やるなら、自分のタオル持ってきてね」
借りたタオルは、まだ首に掛かっている。
修一はそれを外し、洗濯籠へ持っていった。
*
夜、寝床へ入ってからも、後ろへ引いた足が、もう片方へぶつかる感覚が残っていた。
修一は布団の中で足の位置を変え、目を閉じた。
☯
黄褐色の土壁が、目の前にあった。
宗真は畳んだ外套から頭を上げた。
現実の太腿の張りはない。
立ち上がるとき、足だけは少し離して置いた。
机の上では、小刀が札の脇に横たわっていた。
岩陰から先へ延ばした線も、眠る前のままだ。
宗真は外套を羽織り、小刀を鞘ごと手に取った。
札二枚を懐へ収め、頭上の光へ触れる。
鑿を打つ音が、耳へ戻ってきた。
羅玄子が煙壺の蓋を削っている。
宗真は作業台に残した瓢箪へ手を添え、紐でつながった杭を脇へ寄せた。
空いたところへ、小刀を置く。
柄の角は丸くなった。
鞘の紐も、もう緩まない。
だが、青柏を転ばせた風の中で、これを持ったまま退けるだろうか。
「この小刀の柄を、両手で持てる長さにしたいです」
羅玄子が鑿を置いた。
小刀を鞘から抜き、欠けた刃を灯りへ向ける。
「柄を替えて、刃も鍛え直すか」
宗真は懐から札を取り出した。
岩の陰に描いた瓢箪から、逃げる線が先へ続いている。
「お願いします。
両手で構えて、下がる練習をしたいんです」
羅玄子は刃を鞘へ収め、宗真の前へ置き直した。
「どんな形にしたい。
描いてみろ」
宗真は札を小刀の脇へ置き、炭筆を抜いた。
今度は札の空いた端に、両手を添えられる長さの柄を描き始めた。




