第17話 勝ち方より逃げ方
工房の角を曲がると、草が足袋の上まで伸びていた。
宗真は草の間へ足を入れ、土の硬さを確かめながら進んだ。
壁際は平らだが、少し離れると緩く下っている。
腰の瓢箪を押さえ、下りかけた足を引いた。
ここへ置いたら、転がる。
壁の近くで枯れ草を払い、しゃがんで腰の紐を解いた。
瓢箪を下ろすと、丸い胴が小さく揺れて止まる。
口は草に埋もれず、顔を近づける余地もあった。
立ち上がって工房の角を見た。
白い壁が、戸口のあった側を隠している。
あの角から、龍の爪が出てくるとしたら。
宗真は腰の小刀へ手を掛けた。
柄の角はもう掌に当たらない。
だが、枝に押し負けた手首は、まだ少し重かった。
宗真は柄から手を離した。
羅玄子が角を回ってきた。
右手には、さっき裸土へ放った枝がある。
「走ったあと、どこで手間取るか見ていてもらえますか。
瓢箪を置いて、杭を立てるところまでやってみます」
羅玄子は宗真の足元の瓢箪を見て、頷いた。
宗真は腰へ結び直し、一人で角を回った。
平たい石の脇へ立ち、今来た角までの道を見た。
開いた戸の奥には、作業台が見える。
あちらへは下がらない。
宗真は壁に沿って走る方へ、足を向けた。
宗真は小さく膝を曲げた。
大きく息を吸う。
宗真は壁に沿って、工房の角へ駆けた。
走りながら瓢箪の紐を解こうとすると、緩めた輪が指に絡む。
角を曲がって足を止め、輪を引いたが、外れない。
瓢箪を下ろし、懐から杭を取り出す。
先の布を外して杭を土へ押し込み、布を挟んだ手で瓢箪の胴を押さえた。
一歩離れたところでは、羅玄子が枝を杖のように立てている。
「置くだけのつもりが、ずいぶん手間ですね」
「慌てるほど、紐はよく絡む」
羅玄子は、枝の先で宗真の指に掛かった紐を指した。
宗真は指を抜き、瓢箪の紐をほどいた。
娘の靴紐を結び直した朝を思い出した。
遅れそうな時ほど、固い結び目を作ってしまう。
龍の前で、同じことをやってはいられない。
宗真は杭を抜き、先を布で包んで懐へ戻した。
瓢箪を置くだけの間に、何度も手を止めた。
その間、足を止めていられる場所が要る。
「先に置いておける場所を、探しておきます」
瓢箪を拾い、腰へ結ぼうとした右手が、小刀の柄に触れた。
小刀が鞘ごと帯の下へずれる。
肘で押さえてから見ると、鞘を留めた紐が緩んでいた。
宗真は小刀を鞘ごと外した。
「ちょっと、紐を直してきます」
*
宗真は小刀と瓢箪を土へ置いた。
羅玄子が枝を壁に立て掛ける間に、小刀だけを拾う。
瓢箪の口へ顔を寄せ、中の土床を思った。
足が土へ着くと、風の音が消えた。
宗真は小刀を机へ置き、台の下の工具箱を引き出して蓋を開けた。
中から紐と刃を取り出し、必要な長さで紐を切った。
使った刃は天板の奥へ伏せる。
切り残した紐も、その隣へ置いた。
古い紐を外して新しい紐を鞘へ巻き、帯へ結んで留め直す。
鞘を引くと、今度は帯も一緒に引かれた。
刃と古い紐を工具箱へ戻したところで、小刀の柄に目が留まった。
刀身の欠けも直せたら、木に引っかからずに済む。
宗真は柄へ指を掛けた。
外の音は、何も聞こえない。
柄から手を離した。
切り残した紐を持ち、頭上の光へ触れた。
外へ出ると、羅玄子が壁から枝を取った。
宗真は懐から杭を出し、上端に紐を結んだ。
もう一方を、瓢箪のくびれに掛かった紐へ結びつける。
瓢箪を持ち上げると、布で先を包んだ杭も一緒に上がった。
宗真は杭を瓢箪の胴へ添え、まとめて腰へ結んだ。
杭を立てたあとでも、二つまとめて持って走れるだろうか。
二人で戸口の前へ戻る。
宗真は平たい石の脇へ立った。
羅玄子は戸口の脇へ退き、道を空けた。
宗真は腰の瓢箪を押さえ、また角へ走った。
角を曲がって腰の紐を解き、草を払った土へ瓢箪を下ろした。
結んだ杭の先から布を外し、帯へ挟む。
紐をたるませ、瓢箪の脇の土へ杭を押し込んだ。
仙気を沈めると、薄い膜が張った。
宗真は瓢箪の胴を掴み、もう片方の手で杭を抜いた。
薄い膜が消える。
紐を解かず、二つを抱えて草地の先へ走った。
少し先で足を止め、振り返る。
羅玄子が角を回ってきた。
二人の間には、踏み倒された草が続いている。
宗真は腕の中を見た。
瓢箪も杭も、持ってこられた。
*
宗真は帯の布を抜き、杭の先を包んだ。
瓢箪に添えて、二つまとめて腰へ結び直す。
羅玄子は宗真の前へ来ると、枝で瓢箪の胴を軽く叩いた。
「そいつらが邪魔になったら、置いて走れ」
宗真は瓢箪へ手を添えた。
中には机も、工具箱もある。
「借りた物まで、捨てていいんですか」
「お前が帰ってくれば、文句は言わん」
宗真は瓢箪から手を離した。
羅玄子は工房へ向かった。
宗真もあとを追い、角を回った。
戸口の脇には、瓢箪を置いていた平たい石がある。
さっきは、石の前から戸口へ下がりながら小刀を抜いた。
あのまま奥へ下がれば、作業台と壁に挟まれていたはずだ。
宗真は、今走ってきた草地を振り返った。
あちらなら、足を止めずに退けた。
龍がどれほど速く迫ってくるのかは、まだ知らない。
羅玄子は工房へ入り、枝を板戸の脇へ立て掛けた。
棚の下の煙壺を引き出し、蓋を持ち上げる。
漏れた煙が戸口へ流れ、そこで薄くほどけた。
羅玄子は壺の口へ土皿を伏せた。
鉢の端から鑿を取り、蓋の溝へ当てる。
龍の風なら、もっと早く煙を散らすかもしれない。
中で直している間に、瓢箪だけが丸見えになるのではないか。
宗真も工房へ入り、作業台へ瓢箪と杭を置いた。
口へ顔を寄せ、中の土床を思う。
棚の木箱から白い札を二枚取り、工具箱の炭筆を帯へ差した。
頭上の光へ触れると、蓋を削る音が戻ってきた。
札を作業台へ置き、瓢箪と杭をまとめて腰へ結ぶ。
小刀の鞘は、今度はずれなかった。
「龍を退けた人に、どうやって逃げたか聞いてきます」
羅玄子は鑿を止めた。
「逃げ方を聞くなら、武勇伝を語る出番が減るな」
宗真は笑って、白い札を懐へ収めた。
工房の角へは回らず、表の道へ歩き出した。




