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第12話 壺中房は持ち歩けない

 羅玄子とたどった帰り道が、足元から暗がりへ沈んだ。


     ☯


 修一は目を覚ますと、右手の人差し指を曲げた。


 石の輪へ仙気が沈んだ時の、細い糸を引かれるような感覚が残っている。

 指の腹を確かめても、傷も煤もなかった。


 台所から、木の擦れる音がした。


 寝室を出ると、佳乃が流し台の下でしゃがんでいた。

 開き戸の片方がわずかに傾き、閉めるたび、隣の戸へ角を擦っている。


「朝から何を見てるの」


 佳乃は戸を押さえたまま、修一の右手へ目を向けた。


「指」


「それは見れば分かる」


「石に吸われる夢を見た」


 食卓で髪を結んでいた紬が、手を止めた。


「お父さんの夢、前より地味になってない?」


 佳乃は傾いた戸を押さえ直した。


「本人には大事件だったんだよ」


 修一は廊下の収納から工具箱を出した。

 持ち手をつかんで台所へ運び、傾いた戸の前で蓋を開く。


 中には太さの違うドライバーと、六角レンチ、小袋へ分けたねじが入っている。

 蝶番に合ったのは、その中の細いドライバー一本だけだった。


 紬が椅子の背からのぞき込む。


「一本しか使わないのに、全部持ってきたの」


「開けてみるまで、どれが合うか分からなかったからな」


「先に見ればいいのに」


「見て分かるなら、そうしてる」


 緩んだねじを締めると、戸は隣へ擦らずに閉じた。

 佳乃が二度開け閉めし、弁当箱を棚へ戻す。


「はい、現実の大事件は解決」


 修一はドライバーを工具箱へ収め、蓋を閉じた。

 廊下の収納へ運んでから食卓へ戻ると、味噌汁の湯気が薄くなっていた。


 その夜、修一は寝室の灯りを消した。


     ☯


 壺の口は、拳より小さいままだった。


 宗真は口へ拳を当てた。

 前日と同じく、拳と口の横幅はほとんど同じだ。

 拳を下ろし、壺の口をのぞき込んだ。

 昨日と同じく暗く、底は見えない。


 宗真は口の縁へ指をかけ、暗がりへ身を乗り出した。

 指先が、固いはずの縁へ沈む。

 丸い口が視界いっぱいに広がり、足の裏から床の硬さが消えた。


 宗真が身を固くした時には、薄暗い部屋の中に立っていた。


 土壁に囲まれた、細長い作業場だった。

 天井から下がる灯りは一つ。

 炉の火は消え、作業台には灰色の布がかけられている。

 壁際では、背の高い棚が斜めに倒れ、木箱と工具が床へ散らばっていた。


「本当に、棚が倒れている」


「先にそちらを見るのか」


 背後から羅玄子の声がした。

 振り返ると、羅玄子もいつの間にか部屋の中へ立っている。

 入口らしい戸はない。

 土壁の高いところに、白い光が小さく浮かんでいた。


 壺の口ほどの大きさしかない。


「外から見ても、口はあのままですか」


「あのままだ。

 大きくする必要がどこにある」


 宗真は、倒れた棚へ歩いた。

 棚の下には、柄の折れた金槌が挟まっている。

 木箱からこぼれた石片には、一つずつ細い札が結ばれていた。


 作業台と炉があり、道具も失敗品も置いておける。

 外から見れば壺一つなのに、中では人が立って作業できる。


「壊れた物を抱えて、修理場所を探し回らずに済みます」


「使う算段は後だ。

 棚を起こせ」


 二人で棚を壁際へ戻した。


 宗真は床へ散らばった工具を拾った。

 同じ形の刃でも、先の欠け方が違う。

 札を読んで並べ直せば、どの工具をどの作業に使ったのか後から追える。


 宗真は、作業台から炉までの距離を目で測り、土壁の高いところに浮かぶ白い光を見上げた。


「中は、欲しかった作業場に近いです。

 あとは、外で持ち上がるかどうかです」


 羅玄子が眉を寄せた。

 宗真は頭上の白い光へ手を伸ばした。

 指先が触れると、足元の床が消えた。


     *


 壺の前の床へ、両足が着いた。

 宗真は腰を落とし、壺の胴を両側から抱えた。

 腕に力を込める。

 底の片側がわずかに浮き、反対側の縁が床をこすった。

 それ以上は上がらない。


「底を欠かす気か。置け」


 宗真は息を吐き、壺を据え直した。

 腕がじんと痺れている。


 宗真は腰まである壺を見上げた。

 工房としては申し分ない。

 だが、これを抱えて山道は歩けない。

 龍から逃げた後、欠けた宝貝をこの山まで持ち帰っていては遅い。


 壺から腕を離した宗真は、板戸の脇にある棚へ目を移した。

 水差し、細首の瓶、粉を入れる小壺。

 その端に、掌へ収まるほどの乾いた瓢箪があった。


 胴の中央がくびれ、上半分は小さい。

 口には木の栓がはめられている。


 宗真は瓢箪へ手を伸ばしかけ、途中で指を止めた。


「使っておらんから、持ってこい」


 宗真は瓢箪を両手で取り上げた。

 軽い。

 腰紐へ結んでも歩けそうだった。


「これの中に、床だけ作れませんか」


「炉も棚も捨てて、何を工房と呼ぶ」


 宗真は瓢箪を作業台へ置いた。


「欠けた宝貝と工具箱を、雨や泥から離して置ければ十分です」


 羅玄子は、瓢箪を指一本で転がした。

 丸い胴が作業台の上を半回転し、栓が宗真の方を向く。


「それを抱えて山を下りる気か」


 宗真は回る瓢箪を掌で止め、くびれを指でなぞった。


「ここへ紐を巻きます」


 羅玄子は、くびれを爪で一度はじいた。


「龍のところまで、工房を持っていく気か」


「逃げたあと、すぐ直せるようにしたいんです」


 羅玄子の口元が、わずかに歪んだ。


     *


 羅玄子は瓢箪の栓を抜き、棚から平たい土の板と小さな粘土の塊を二つ取り出した。

 土の板を作業台へ置く。

 板の中央に瓢箪を寝かせ、転がらないよう左右を粘土の塊で挟む。

 土の板には、中央から四方へ細い線が刻まれていた。

 羅玄子が、瓢箪の下半分を爪で二度叩いた。

 宗真はそこへ右手を添えた。

 乾いた皮は、壺よりも薄く温かい。


「何を作る」


「工具箱と欠けた宝貝を、膝の前へ置ける床です」


 羅玄子は鼻を鳴らした。


「欲張るな。

 それだけを思え」


 宗真は目を閉じた。

 板張りの広い工房ではない。

 炉も棚もない。

 ただ、足を置ける場所。

 欠けた宝貝を持って逃げ込み、膝をついて確かめられるだけの床。


 指先まで運んだ仙気が、瓢箪の表面で止まった。

 押さずに待つ。


 一息。

 二息。


 温かさが、掌から細く抜けた。

 瓢箪の皮を突き抜けるのではなく、くびれに沿って一度巡り、開いた口の方へ集まっていく。


 瓢箪が、作業台の上で跳ねた。


「手を離すな」


 羅玄子の両手が土の板を押さえる。

 四方へ伸びた線から黄土色の光が立ち上がり、瓢箪の下半分を包んだ。


 宗真の仙気は、その光に押し戻されなかった。

 瓢箪の内側へ沈み、目に見えない底を探るように広がっていく。


 作業台の上で、土板が鳴った。

 ご、と低い音が一度だけ響く。


 羅玄子の右手が少し沈んだ。

 土板の中央がくぼみ、瓢箪の丸みに合わせて固まる。


 跳ねていた瓢箪が止まった。


「離せ」


 宗真は手を上げた。

 瓢箪の見た目は変わっていない。

 小指ほどの口もそのままだ。


 ただ、持ち上げると、先ほどよりわずかに重かった。


 宗真は瓢箪を耳へ寄せた。

 中からは何も聞こえない。

 宗真は瓢箪を土板のくぼみへ戻した。


 羅玄子は土板から両手を離した。


「入ってみろ」


     *


 宗真は瓢箪の口へ顔を近づけた。

 中の床を思う。


 小指ほどだった口が、視界いっぱいに広がる。

 丸い縁を越えたところで、足元が消えた。


 両足が硬い土へ着く。

 身体が前へ傾き、宗真は慌てて片膝をついた。


 暗い。


 暗さに目が慣れると、頭上に小さな白い光が見えた。

 瓢箪の口から入る光だった。


 その明かりを頼りに、宗真は立ち上がった。

 天井らしいものは見えない。

 黄褐色の内壁が土床を囲んで丸く立ち上がり、上方の闇に消えている。


 それでも、床はあった。


 宗真は歩幅をそろえて、奥へ進んだ。

 土床は沈まない。

 六歩目で、爪先が内壁に触れた。


 宗真は入口の光の下へ戻り、土床の横幅も足で測った。

 内壁から内壁まで四歩。


 宗真はしゃがみ、土床へ掌を置いた。

 仙気が薄く沈んでいる。

 灰色の輪へ入った時より広く、浅い。

 内壁へ近づくほど頼りなくなるが、中央は両膝をついても崩れなかった。


 工具箱と欠けた宝貝を広げても、膝をつく余地はある。


 宗真は床の端に棚を、中央に作業台を置くところを思い描いた。


 宗真は外へ戻ろうと、頭上の光へ手を伸ばした。

 指先が白い光へ触れた途端、土床が足元から消える。


 次の瞬間、作業台の前へ戻っていた。


 羅玄子が瓢箪を土板から外し、灯りの下で胴を回している。

 細い口も、丸い胴も、外からは何も変わっていない。


「持て」


 宗真は受け取った。

 片手で支えられる重さだった。

 腰へ下げれば、歩いて運べる。


 宗真は瓢箪のくびれへ指をかけ、掌の上で半回転させた。


「ここを、工房にします」


「床しかないぞ」


「棚も作業台も、これから入れます」


 羅玄子は、瓢箪の口へ木の栓を戻す。


 宗真は瓢箪を両手で包んだ。


 板戸の隙間から差す光が、来た時より長く床を這っている。


 羅玄子が板戸の方へ顎をしゃくる。


「暗くなる前に帰れ」


 宗真は手の中の瓢箪へ目を落とした。

 小指ほどの口の先に、六歩の床がある。

 中で一日かけて直す間、外でも一日過ぎるなら、龍に追いつかれる。


「中の一日を、外の一時間にすることもできますか」


「床ができた日に、もう一日を欲しがるな」


 羅玄子は奥の棚を開けた。

 同じ形の水時計が幾つも並び、縁には墨の印が残っている。

 そのうち二つを取り出し、作業台へ並べた。

 片方を宗真の前へ押し出す。


「まずは一滴だ。

 片方を中へ持っていけ。

 外で一滴落ちる間に、中で二滴落としてみろ。

 続きは明日だ」


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