第12話 壺中房は持ち歩けない
羅玄子とたどった帰り道が、足元から暗がりへ沈んだ。
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修一は目を覚ますと、右手の人差し指を曲げた。
石の輪へ仙気が沈んだ時の、細い糸を引かれるような感覚が残っている。
指の腹を確かめても、傷も煤もなかった。
台所から、木の擦れる音がした。
寝室を出ると、佳乃が流し台の下でしゃがんでいた。
開き戸の片方がわずかに傾き、閉めるたび、隣の戸へ角を擦っている。
「朝から何を見てるの」
佳乃は戸を押さえたまま、修一の右手へ目を向けた。
「指」
「それは見れば分かる」
「石に吸われる夢を見た」
食卓で髪を結んでいた紬が、手を止めた。
「お父さんの夢、前より地味になってない?」
佳乃は傾いた戸を押さえ直した。
「本人には大事件だったんだよ」
修一は廊下の収納から工具箱を出した。
持ち手をつかんで台所へ運び、傾いた戸の前で蓋を開く。
中には太さの違うドライバーと、六角レンチ、小袋へ分けたねじが入っている。
蝶番に合ったのは、その中の細いドライバー一本だけだった。
紬が椅子の背からのぞき込む。
「一本しか使わないのに、全部持ってきたの」
「開けてみるまで、どれが合うか分からなかったからな」
「先に見ればいいのに」
「見て分かるなら、そうしてる」
緩んだねじを締めると、戸は隣へ擦らずに閉じた。
佳乃が二度開け閉めし、弁当箱を棚へ戻す。
「はい、現実の大事件は解決」
修一はドライバーを工具箱へ収め、蓋を閉じた。
廊下の収納へ運んでから食卓へ戻ると、味噌汁の湯気が薄くなっていた。
その夜、修一は寝室の灯りを消した。
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壺の口は、拳より小さいままだった。
宗真は口へ拳を当てた。
前日と同じく、拳と口の横幅はほとんど同じだ。
拳を下ろし、壺の口をのぞき込んだ。
昨日と同じく暗く、底は見えない。
宗真は口の縁へ指をかけ、暗がりへ身を乗り出した。
指先が、固いはずの縁へ沈む。
丸い口が視界いっぱいに広がり、足の裏から床の硬さが消えた。
宗真が身を固くした時には、薄暗い部屋の中に立っていた。
土壁に囲まれた、細長い作業場だった。
天井から下がる灯りは一つ。
炉の火は消え、作業台には灰色の布がかけられている。
壁際では、背の高い棚が斜めに倒れ、木箱と工具が床へ散らばっていた。
「本当に、棚が倒れている」
「先にそちらを見るのか」
背後から羅玄子の声がした。
振り返ると、羅玄子もいつの間にか部屋の中へ立っている。
入口らしい戸はない。
土壁の高いところに、白い光が小さく浮かんでいた。
壺の口ほどの大きさしかない。
「外から見ても、口はあのままですか」
「あのままだ。
大きくする必要がどこにある」
宗真は、倒れた棚へ歩いた。
棚の下には、柄の折れた金槌が挟まっている。
木箱からこぼれた石片には、一つずつ細い札が結ばれていた。
作業台と炉があり、道具も失敗品も置いておける。
外から見れば壺一つなのに、中では人が立って作業できる。
「壊れた物を抱えて、修理場所を探し回らずに済みます」
「使う算段は後だ。
棚を起こせ」
二人で棚を壁際へ戻した。
宗真は床へ散らばった工具を拾った。
同じ形の刃でも、先の欠け方が違う。
札を読んで並べ直せば、どの工具をどの作業に使ったのか後から追える。
宗真は、作業台から炉までの距離を目で測り、土壁の高いところに浮かぶ白い光を見上げた。
「中は、欲しかった作業場に近いです。
あとは、外で持ち上がるかどうかです」
羅玄子が眉を寄せた。
宗真は頭上の白い光へ手を伸ばした。
指先が触れると、足元の床が消えた。
*
壺の前の床へ、両足が着いた。
宗真は腰を落とし、壺の胴を両側から抱えた。
腕に力を込める。
底の片側がわずかに浮き、反対側の縁が床をこすった。
それ以上は上がらない。
「底を欠かす気か。置け」
宗真は息を吐き、壺を据え直した。
腕がじんと痺れている。
宗真は腰まである壺を見上げた。
工房としては申し分ない。
だが、これを抱えて山道は歩けない。
龍から逃げた後、欠けた宝貝をこの山まで持ち帰っていては遅い。
壺から腕を離した宗真は、板戸の脇にある棚へ目を移した。
水差し、細首の瓶、粉を入れる小壺。
その端に、掌へ収まるほどの乾いた瓢箪があった。
胴の中央がくびれ、上半分は小さい。
口には木の栓がはめられている。
宗真は瓢箪へ手を伸ばしかけ、途中で指を止めた。
「使っておらんから、持ってこい」
宗真は瓢箪を両手で取り上げた。
軽い。
腰紐へ結んでも歩けそうだった。
「これの中に、床だけ作れませんか」
「炉も棚も捨てて、何を工房と呼ぶ」
宗真は瓢箪を作業台へ置いた。
「欠けた宝貝と工具箱を、雨や泥から離して置ければ十分です」
羅玄子は、瓢箪を指一本で転がした。
丸い胴が作業台の上を半回転し、栓が宗真の方を向く。
「それを抱えて山を下りる気か」
宗真は回る瓢箪を掌で止め、くびれを指でなぞった。
「ここへ紐を巻きます」
羅玄子は、くびれを爪で一度はじいた。
「龍のところまで、工房を持っていく気か」
「逃げたあと、すぐ直せるようにしたいんです」
羅玄子の口元が、わずかに歪んだ。
*
羅玄子は瓢箪の栓を抜き、棚から平たい土の板と小さな粘土の塊を二つ取り出した。
土の板を作業台へ置く。
板の中央に瓢箪を寝かせ、転がらないよう左右を粘土の塊で挟む。
土の板には、中央から四方へ細い線が刻まれていた。
羅玄子が、瓢箪の下半分を爪で二度叩いた。
宗真はそこへ右手を添えた。
乾いた皮は、壺よりも薄く温かい。
「何を作る」
「工具箱と欠けた宝貝を、膝の前へ置ける床です」
羅玄子は鼻を鳴らした。
「欲張るな。
それだけを思え」
宗真は目を閉じた。
板張りの広い工房ではない。
炉も棚もない。
ただ、足を置ける場所。
欠けた宝貝を持って逃げ込み、膝をついて確かめられるだけの床。
指先まで運んだ仙気が、瓢箪の表面で止まった。
押さずに待つ。
一息。
二息。
温かさが、掌から細く抜けた。
瓢箪の皮を突き抜けるのではなく、くびれに沿って一度巡り、開いた口の方へ集まっていく。
瓢箪が、作業台の上で跳ねた。
「手を離すな」
羅玄子の両手が土の板を押さえる。
四方へ伸びた線から黄土色の光が立ち上がり、瓢箪の下半分を包んだ。
宗真の仙気は、その光に押し戻されなかった。
瓢箪の内側へ沈み、目に見えない底を探るように広がっていく。
作業台の上で、土板が鳴った。
ご、と低い音が一度だけ響く。
羅玄子の右手が少し沈んだ。
土板の中央がくぼみ、瓢箪の丸みに合わせて固まる。
跳ねていた瓢箪が止まった。
「離せ」
宗真は手を上げた。
瓢箪の見た目は変わっていない。
小指ほどの口もそのままだ。
ただ、持ち上げると、先ほどよりわずかに重かった。
宗真は瓢箪を耳へ寄せた。
中からは何も聞こえない。
宗真は瓢箪を土板のくぼみへ戻した。
羅玄子は土板から両手を離した。
「入ってみろ」
*
宗真は瓢箪の口へ顔を近づけた。
中の床を思う。
小指ほどだった口が、視界いっぱいに広がる。
丸い縁を越えたところで、足元が消えた。
両足が硬い土へ着く。
身体が前へ傾き、宗真は慌てて片膝をついた。
暗い。
暗さに目が慣れると、頭上に小さな白い光が見えた。
瓢箪の口から入る光だった。
その明かりを頼りに、宗真は立ち上がった。
天井らしいものは見えない。
黄褐色の内壁が土床を囲んで丸く立ち上がり、上方の闇に消えている。
それでも、床はあった。
宗真は歩幅をそろえて、奥へ進んだ。
土床は沈まない。
六歩目で、爪先が内壁に触れた。
宗真は入口の光の下へ戻り、土床の横幅も足で測った。
内壁から内壁まで四歩。
宗真はしゃがみ、土床へ掌を置いた。
仙気が薄く沈んでいる。
灰色の輪へ入った時より広く、浅い。
内壁へ近づくほど頼りなくなるが、中央は両膝をついても崩れなかった。
工具箱と欠けた宝貝を広げても、膝をつく余地はある。
宗真は床の端に棚を、中央に作業台を置くところを思い描いた。
宗真は外へ戻ろうと、頭上の光へ手を伸ばした。
指先が白い光へ触れた途端、土床が足元から消える。
次の瞬間、作業台の前へ戻っていた。
羅玄子が瓢箪を土板から外し、灯りの下で胴を回している。
細い口も、丸い胴も、外からは何も変わっていない。
「持て」
宗真は受け取った。
片手で支えられる重さだった。
腰へ下げれば、歩いて運べる。
宗真は瓢箪のくびれへ指をかけ、掌の上で半回転させた。
「ここを、工房にします」
「床しかないぞ」
「棚も作業台も、これから入れます」
羅玄子は、瓢箪の口へ木の栓を戻す。
宗真は瓢箪を両手で包んだ。
板戸の隙間から差す光が、来た時より長く床を這っている。
羅玄子が板戸の方へ顎をしゃくる。
「暗くなる前に帰れ」
宗真は手の中の瓢箪へ目を落とした。
小指ほどの口の先に、六歩の床がある。
中で一日かけて直す間、外でも一日過ぎるなら、龍に追いつかれる。
「中の一日を、外の一時間にすることもできますか」
「床ができた日に、もう一日を欲しがるな」
羅玄子は奥の棚を開けた。
同じ形の水時計が幾つも並び、縁には墨の印が残っている。
そのうち二つを取り出し、作業台へ並べた。
片方を宗真の前へ押し出す。
「まずは一滴だ。
片方を中へ持っていけ。
外で一滴落ちる間に、中で二滴落としてみろ。
続きは明日だ」




