第11話 仙気が沈む
宗真は、人差し指を小鉢の縁へ置いた。
灰色の石は、照身の水盤より少し温かかった。
羅玄子が縁の反対側を押さえる。
小鉢の影が石の台へ縫いつけられたように動かなくなった。
宗真は息を吸った。
腹の下へ意識を置き、胸の奥の温かさを腕へ通す。
温かさは手首を越え、指先まで来た。
そこから先へ行かない。
指の腹と石の間に、薄い膜でもあるようだった。
照身の水盤へ触れた時は、止める間もなく内側へ抜けた。
今は押しても、温かさが指の中で広がるだけだ。
宗真は息を吐き、もう一度だけ温かさを集めた。
「押すな」
羅玄子の声と同時に、小鉢が石の台を擦った。
押さえられていたはずの縁が、爪の幅ほど横へずれている。
宗真は指を離した。
「すみません」
「割るつもりはなかった、と言う顔だな」
「ありませんでした」
「力を入れた理由にはならん」
羅玄子は小鉢を持ち上げ、底と縁を光へ向けた。
爪で三度弾き、返る音を聞く。
「傷は増えておらん」
「仙気も入りませんでした」
「見れば分かる」
羅玄子は小鉢を宗真の前へ戻した。
今度は押さえない。
「もう一度だ。
入れようとするな。
指先まで運んで待て」
「待つだけですか」
「水盤へ入った時、おぬしは石の中へ押し込んだのか」
「いいえ。
手をついたら、勝手に抜けました」
「なら、余計なことをするな」
宗真は小鉢へ指を置き直した。
温かさを指先まで運び、そこで止める。
一息。
二息。
小鉢は何も吸わなかった。
石の冷たさが指へ返ってくるだけだった。
「離せ」
宗真はすぐに従った。
羅玄子は小鉢を作業台の左へ置いた。
そばに細い札を置き、炭筆で一本の線を引く。
「失敗ですか」
「入らんと分かった。
何も分からんまま割るよりはましだ」
羅玄子は、作業台の奥へ押してあった灰色の輪を手前へ戻した。
宗真が工房へ入った時、細い刃で削っていた物だ。
輪と小鉢は、よく似た色をしていた。
羅玄子は両方の縁を刃先で軽く擦る。
落ちた粉も、同じ灰色だった。
「同じ石ですか」
「同じ岩から切り出した」
材質が原因なら、小鉢と輪で違いは出ない。
宗真が輪へ手を伸ばすと、羅玄子の刃先が指の前へ差し込まれた。
「まだだ」
羅玄子は平たい箱から白い粉をひとつまみ取り、輪の内側へ落とした。
柔らかな刷毛を一度走らせる。
白い粉が、細い溝へ残った。
一本だと思っていた溝は、途中で三つに分かれている。
そのうち二つは輪の半ばで途切れ、残る一本だけが反対側まで続いていた。
「火を一方へ集める輪だ」
宗真は、途中で途切れた二本の溝を見た。
「完成する前に触れても、大丈夫でしょうか」
「それを今から見る。
指を残したければ、止めろと言った時に離せ」
羅玄子は笑っていなかった。
宗真は輪へ伸ばしかけた手を一度引き、指を曲げ伸ばしした。
痛みも痺れもない。
輪の下には厚い布が敷かれた。
羅玄子は炉のそばにあった砂の鉢も引き寄せ、蓋を開けておく。
火を消す用意をするくらいには、小鉢より危ない物らしい。
「どこへ触れればいいですか」
「溝のない外側だ。
向こうまで届くか見る」
宗真は、輪の外側へ人差し指を置いた。
白い粉の筋は、石を挟んだ反対側にある。
「始めます」
「言わんでも見ておる」
宗真は息を吸った。
先ほどと同じように、温かさを指先まで運ぶ。
今度は押さず、そこで待った。
指の腹から、細い糸を引かれたような感覚があった。
温かさが指先を越えた。
触れている場所から真っすぐ入るのではない。
石の内側を斜めに抜け、白い粉の残る溝へ向かって沈んでいく。
輪の中に、髪の毛ほどの光が浮かんだ。
光は三つに分かれた溝の手前で揺れ、短く途切れた二本を避けた。
反対側へ続く一本へ入る。
灰色の輪が、甲高い音を立てた。
「離せ」
宗真は指を上げた。
羅玄子が厚い布ごと輪を持ち上げ、砂の鉢の上へ移す。
火は出なかった。
白い煙も上がらない。
ただ、長く続く一本の溝だけが、白から薄い橙色へ変わっていた。
羅玄子の顔が近づいた。
輪ではなく、輪の中へ潜った光を追っている。
「水盤の時も、枝分かれしたか」
「はい。
五つの字には向かわず、くぼみの底を半周してから分かれました」
「触れたのは、測る時と同じ場所か」
「違います。
測る時は水の上へ手をかざしました。
仙気が沈んだ時は、身体を支えるために黒い縁へ手をつきました」
羅玄子は輪を砂の上へ置いた。
白い粉を刷毛で払い、橙色になった溝を爪の先でなぞる。
「照身の水盤は、水へ気を受けて五つの刻みへ流す。
おぬしの気は外側の縁から入り、くぼみの底を回った」
羅玄子は作業台の左に置いた小鉢を取り上げた。
細い刃の先で、内側へ浅い傷を一本つける。
石を引っかく音が、工房の奥まで響いた。
小鉢が宗真の前へ戻される。
「この傷にも、さっきの溝のように仙気が入るんですか」
「ただの傷だ。
触れてみろ」
宗真は、傷の反対側へ指を置いた。
指先まで温かさを運んで待つ。
何も起こらなかった。
傷へ向かう感覚もない。
「離せ」
羅玄子は、小鉢と輪を並べた。
同じ石で、どちらにも線がある。
それでも、仙気が沈んだのは輪だけだった。
「線があればいいわけではない」
宗真は橙色の残る溝を見た。
「小鉢は、ただ傷をつけただけです。
でも、この溝は火を集めるために彫ってある」
「まだ火は集められん」
宗真は小鉢の傷と輪の溝を見比べた。
「それでも、仙気はこの溝へ沈みました」
羅玄子は答えなかった。
輪を裏返し、指で三か所を押さえる。
橙色の筋が少しずつ暗くなり、元の灰色へ戻った。
「私の仙気は、ただの傷と、火を集める溝を見分けたんでしょうか」
「二つ触っただけで、何でも分かった顔をするな」
「水盤も入れれば三つです」
「水盤は、わしが見ておらん」
「では、小鉢と輪から分かるのは何ですか」
羅玄子は灰色の輪を目の高さへ上げた。
炉の赤い火が、輪の向こう側に収まる。
「ただの小鉢には入らん。
火を集めるために作った輪では、内へ沈んだ」
「五気のどれかではないんですか」
「ない」
羅玄子は即座に言った。
「火気なら、溝を走って火へ出る。
おぬしの気は火にならず、輪の中へ沈んだ」
「私の仙気は、まずいんですか」
羅玄子は輪の穴から宗真をのぞいた。
「さあな。
わしにも分からん」
「分からないのに、楽しそうですね」
「分からんものが、わしの工房まで歩いてきた。
面白くないものか」
宗真は作業台の上を見回した。
「では、もう一つお願いします」
羅玄子は声を立てて笑った。
炉のそばに置かれていた蓋つきの壺が、その声に合わせるように、ぼん、と鳴った。
二人とも壺を見る。
蓋の隙間から白い煙が一筋出た。
羅玄子は砂の鉢から蓋を一枚取り、煙を吐いた壺の上へ重ねた。
白い筋が止まる。
「近寄るな。
煙を吸う壺のはずだが、こいつは吐いてばかりおる」
「失敗作でも、煙を吸わせたかったことは分かります」
宗真が言うと、羅玄子の手が止まった。
「どこを見た」
「煙が出た蓋の隙間です。
本当は、そこから中へ引くつもりだった」
羅玄子は重ねた蓋を押さえたまま、宗真を見た。
「おぬし、これにも触りたいか」
「触っていいなら」
「煤で済めばよいが、たまに爆ぜる」
宗真は伸ばしかけた指を引いた。
「では、爆ぜない物をお願いします」
羅玄子は、また肩を揺らした。
笑いながらも、壺を宗真の手が届かない棚へ移す。
「今日はやめておけ。
おぬしの気が、どんな宝貝にも入ると決まったわけではない」
宗真は、手の届かなくなった壺から灰色の輪へ視線を戻した。
羅玄子は笑うのをやめ、輪と、傷をつけた小鉢を見比べる。
工房の外で、硬い木を一度打つ音がした。
窓から差す光は、宗真が来た時より赤くなっている。
「日が傾く前に、仙籍房へ戻れと言われていました」
「一人で戻れるか」
「二つ目の分かれ道までは覚えています。
でも、一人だとちょっと怪しいです」
「帰りは、わしが仙籍房まで送る。
道を数えろ」
「ありがとうございます」
羅玄子は、工房の奥にある板戸へ向かった。
戸の前には木箱が三つ積まれている。
一つを足でずらし、二つを両手で退けた。
板戸の向こうに、腰の高さほどある褐色の壺があった。
胴は丸く、口は宗真の拳が入るかどうかという大きさしかない。
「これは、煙を吐きませんか」
「吐かん。
壺中房だ」
壺の中から、金属を引きずる音がした。
続いて、何かが棚から落ちたような音が響く。
宗真は小さな口をのぞいた。
暗くて、底は見えない。
「中には誰もおらん。
棚が倒れただけだ」
宗真は壺の胴と、拳ほどの口を見比べた。
「この中で棚が倒れたんですか」
「炉も作業台も、棚もある」
宗真は、壺の口へ握った拳を当てた。
横幅はほとんど同じだった。
「人も、この口から入るんですね」
「入れる」
宗真は拳を下ろし、壺の口をもう一度のぞき込んだ。
「その顔をしても貸さんぞ」
羅玄子は板戸を閉めた。
宗真の前から、褐色の壺が隠れる。
「明日、もう一度来い。
壺中房を見て、おぬしの欲しい作業場と同じか確かめろ」
「弟子にしてくださるんですか」
「誰がそこまで言った」
羅玄子は灰色の輪を布で包み、作業台の中央へ置いた。
傷をつけた小鉢は捨てず、その隣へ並べる。
「弟子にはせん。
まずは試しに触れ」




