第一話 銀のボタンと、甘すぎる香袋
母の礼服から三つ目の銀ボタンを外したところで、店の扉が開いた。
「セルフィーユ様。こちらの香袋について、お話がございます」
「リディで結構です。先月のお代でしたら、そちらへ」
針箱の隣を示すと、宮廷侍女の白い手袋が止まった。
代金を持ってきた人の顔ではなかった。わかっていたが、言うだけなら無料である。
「奥様がこれをお召しになって、めまいを起こされました。粗悪な材料を使ったとお認めいただき、治療にかかった費用を――」
「まず、お品を拝見します」
リディは礼服を畳み、膝から下ろした。爵位も屋敷もなくなったセルフィーユ家に残ったもののうち、母の香房は唯一、銀貨を生み出せる。ただし、客が払ってくれればの話だった。
侍女が差し出したのは、水色の絹の香袋だった。三日前、王宮の客室へ十二個納めたうちの一つ。縫い口に、自分で結んだ薄緑の糸がある。
袋が台に触れるより先に、甘い香りが届いた。
蜂蜜に似ている。けれど、その奥が妙に重い。
「お名前を伺っても?」
「ミナです」
「ミナさん。奥様は、今は?」
「お部屋で休んでいらっしゃいます。お医者様には、もう」
息が浅い。洗い立ての襟から、熱した針のような刺激が立った。
リディには、人の感情や体調が、ときどき匂いの徴として感じられる。届くのはせいぜい、この小さな店の端まで。嘘をつく人から尖った酸味を感じることもあるが、言葉の中身までわかるわけではない。
今の刺激は、何かを隠しているときにも似ていた。
「納めてから、袋に何か足しましたか」
「私は、何も」
刺激が強くなった。
やはり、と言いかけて、リディは口を閉じた。
ミナは香袋ではなく、針箱の隣に置かれた請求書を見ていた。手袋の親指で、人差し指の縫い目を何度もこすっている。
「代金を、あなたが払うように言われたの?」
「違います。でも、私がお店を選んだので。こちらで非を認めていただけなければ、侍女頭に……」
そこで声が細くなった。
「まだ、勤め始めて二月なんです」
隠し事ではなく、恐怖だったのかもしれない。
リディは背後の丸椅子を引き出した。
「座ってください。さっきの聞き方はよくなかったわ。あなたが足したと決めたわけではありません」
ミナは少しためらってから、椅子の端に腰を下ろした。
人の匂いを追うのをやめ、窓を細く開ける。続けすぎると鼻の奥が焼け、数日は何も嗅げなくなる。以前それで、焦がしたスープさえわからなくなった。調香師としては、スープより深刻な損失もあった。
「紐をほどきますね。中身は捨てません」
白い皿に、乾燥した花と葉を少量出す。菫の根、ラベンダー、細く削った檸檬の皮。リディはピンセットでそれぞれを離した。
「花だけでは、香りがすぐ逃げるんです。根に留めてもらって、皮で最初の印象を明るくする。今回は寝室用なので、ラベンダーも控えめにしました」
棚から菫の根を取り、別の皿へ置く。ミナが少し身を乗り出した。
「これ、あまり匂いませんね」
「そのままなら。少し温めると違います」
湯の入った小鉢に皿を重ね、しばらく待つ。乾いた粉の奥から、やわらかな花の気配がほどけた。
「あ、お化粧箱みたい」
「そう。花を乾かした香りとは、また違うでしょう」
つい頬が緩む。だが、戻ってきた袋の中の根を温めると、先ほどの甘さが花を押し潰した。
リディは二つの皿を並べた。
「こちらには、安息香を使った香油がついています。私の配合には入れていません」
「それが、悪い材料なんですか?」
「いいえ。私も使います。量によっては、焼き菓子みたいで素敵なの。ただ、この袋には多すぎる」
根の一片を吸い取り紙に載せると、淡い油染みが広がった。ほかは乾いている。袋の内側にも、一か所だけ濃い染みがあった。
「混ぜて作ったなら、もっと均一になります。後から垂らしたように見えます。ただ、これでめまいの原因まで決まるわけではありません」
ミナは皿を見つめ、唇を動かした。
その声に、扉の鈴が重なった。
「検分中でしたか」
入ってきた男は、濃紺の上着を隙なく着ていた。背が高く、灰色の目がまず皿を、それからリディを捉えた。
足音も、扉を閉める音もした。
なのに、人が入ってきた匂いがなかった。
リディは思わず、指先の檸檬の皮を嗅いだ。爽やかな苦みがある。鼻は利いている。
「王宮監察局のエリアス・ノルデンです。こちらの件で伺いました」
差し出された身分証には、次席監察官とあった。
近づいても、汗も髪油も、感情の徴もない。香りを重ねて隠した人なら知っている。けれど、この人には重ねるものさえ見当たらなかった。
「リディ・セルフィーユです。香房の店主をしています」
名乗りながら、普段より長く相手の顔を見てしまった。
エリアスは書類を一枚、台に置いた。
「原因が判明するまで、王宮への納品を停止します」
リディは紙を引き寄せた。見間違いではない。明後日納める衣装棚用の二十袋も、対象に含まれていた。
その売上で家賃の残りを払う予定だった。材料は、すでに棚にある。
「この袋には、納品時にない香油が加わっています」
「説明をお願いします」
彼は否定もしなければ、頷いて済ませもしなかった。リディが二つの皿と油染みを示す間、手帳に短く書きつけていた。
「未使用の同じ品と比較できますか」
「店には残っていません。すべて納めましたから」
「客室係に確認します」
「私の検分には、料金がかかります」
ペンが止まった。
怒ったのか、呆れたのか。そのどちらの匂いもないので、リディは続けるしかなかった。
「苦情の品を見るところまでは店の仕事です。でも、宮廷に出向いて比較をして、報告を書くなら別です。その間、お客を迎えられません」
「半日で、いくらですか」
「材料費別で銀貨三枚。前金を一枚」
「わかりました」
あまりに短い返事だったので、今度はリディが止まった。
エリアスは財布から銀貨を取り出し、請求書の隣に置いた。
「明日の午前をお願いします。比較する品を用意します」
「午後にしてください。午前は引き取りのお客様がいます」
「では、午後に」
銀貨は本物の重みで台を鳴らした。少なくとも、代金を踏み倒すつもりで来た客ではないらしい。今わかるのは、それだけだった。
「あの」
丸椅子から、小さな声がした。
「奥様、昨日の朝も、ご気分が悪かったんです」
ミナは両手を膝の上で握りしめていた。
「でも、そのときはまだ香袋をお渡ししていなくて。私、お茶を下げるときに見ただけで……聞かれなかったので、言わなくていいかと」
リディはエリアスを見た。彼はミナに向き直ったが、手帳を突きつけたりはしなかった。
「そのときのことを、聞かせてください」
リディは甘い根の皿に蓋をした。
香袋を渡す前からの不調。それなら、何のために香油を加えたのだろう。好みか、気まぐれか。あるいは、別の匂いを隠したかったのか。
引き出しには、汗の酸っぱさを目立たなくする試作品がある。香りで何かを覆うのは、リディ自身の仕事でもあった。
銀ボタンを針箱へ戻し、代わりに新しい仕事の頁を開く。
「明日は、その香油も見せていただきたいです」
匂いのない監察官が、初めてこちらをまっすぐ見た。
「持ち主を確認します」
リディは帳簿に前金を書き入れた。銀ボタン一つ分の糸なら、今夜、縫い直せる。




