第九章 奇妙な礼儀
「このボタン、どうやって留めるんだ?」
シャルルは鏡の前で、さっきからずっと襟の金ボタンと格闘していた。
葡萄酒色のビロードの上着だった。胸には金糸で細かな刺繍が施され、襟と袖口には真っ白なフリルが巡っている。腰には黒いサテンの帯まで締めなければならなかった。
オースティン総督が人に届けさせた服だった。
上着のほかにも、シャツ、長ズボン、革靴、それに名前もわからない装身具が山ほどあった。
先ほども、帯をどこに結ぶのかを突き止めるだけで、ずいぶん時間がかかった。
今は、襟もとのボタンを最後に一つ残すだけだった。
だが、そのボタンはフリルの下に隠れ、どうしても留まらなかった。
(誰が考えたんだ、こんな服。着るだけで謎解きじゃないか)
シャルルはぼやかずにはいられなかった。
そこでようやく、先ほど総督がよこした侍従たちのことを思い出した。
着替えを手伝おうと申し出た彼らを、何も考えず断ったのだった。
(服を着るだけだろう? そんなの、自分でできる)
あのときは本当にそう思っていた。
(はあ、こんなことなら残ってもらえばよかった……)
考えるほどに後悔が募った。
幼いころから神域で着ていたのは、ごく普通の制服だった。
シャツに上着、長ズボン。せいぜい寒さよけの外套が加わるくらいだ。
今のように、一枚着終えたらまた一枚上から重ねるような服ではなかった。
どうにか襟を留めて少し首を動かすと、締めつけられて苦しかった。
(こんなの着て、食事ができるのか?)
手をやって、襟を引っ張った。
「引っ張らないで。襟が傷むわ」
背後からリリーの声がした。
驚いて、シャルルは急いで手を放した。
鏡越しにちらりと見た。
リリーは、十人衆の白いローブを整えていた。シャルルは目を戻し、さらに二歩、脇へずれた。
すると靴のかかとが絨毯の縁を踏み、転びそうになった。
「何をしているの?」
背後でリリーが言った。
「な、何でもない!」
シャルルは急いで体勢を整えた。
「この靴……まだ慣れなくて。革靴を履くのは初めてなんだ」
半分だけ本当の嘘をつき、また鏡を見た。
リリーは白いローブをまとい、しわを伸ばしていた。
「靴は汚さないようにね」
ふいに、そう念を押した。
「え?」
シャルルは足もとを見た。
黒い革靴はぴかぴかに磨かれ、つま先には精巧な銀の留め具がついていた。
「わかった」
(見るからに高そうだ)
(汚したら、弁償させられるんじゃないだろうな?)
思わず絨毯で靴底をこすった。
「それから、外に出ても、むやみに話さないで」
リリーはまた不意に付け加えた。
「どうして?」
答えず、うつむいてローブの飾り留めを留めていた。
「誰が何を言っても、私が答えるから」
「でも、俺に話しかけてきたら?」
「言うとおりにして」
「……」
シャルルは口をとがらせ、仕方がないと自分に言い聞かせた。
「わかったよ」
リリーは金髪を後ろでまとめ、鏡に向かって襟をもう一度直した。
「行きましょう」
シャルルが振り向くと、ちょうど彼女の襟もとに首筋が見えた。
痣は軟膏でほとんど隠れていたが、よく見ると、襟の近くに小さな不自然な赤みが残っていた。
「リリー」
「何?」
「首……」
「もう手当てしたわ。気にしなくていい」
彼女は手を上げ、襟を直した。
「まだ……痛い?」
シャルルはおずおずと尋ねた。
リリーはまともに答えず、「総督が外で待っているわ」とだけ言って、問いをかわした。
今朝からずっと、この調子だった。昨夜のことを持ち出すたびに、何かと理由をつけて話をそらす。
シャルルはうつむき、腰の帯を直そうとした。
ところが引っ張った拍子に、せっかく結んだ結び目がまた緩んでしまった。
「はあ……」
ため息を聞いたリリーが、近づいてきた。
「動かないで」
帯をほどいて結び直し、巻き込まれていた上着の裾も引き出してくれた。
「これでいいわ」
真剣に身なりを整えてくれるリリーを見て、シャルルは、神域でもよくこうしてもらったことを思い出した。
リリーは一歩下がり、上から下まで見て服装に問題がないことを確かめると、「行きましょう」と言った。
シャルルはうなずいた。
鏡に映る、見慣れない格好の自分を眺め、深く息を吸った。
リリーに連れられて部屋の扉を開けたシャルルは、そのとたんに立ちすくんだ。
廊下には、何人もの人が立っていた。
先頭には紺の礼服の男がいて、二人の侍従を従えていた。扉が開くと、すぐに歩み寄ってきた。
「六番閣下」
まずリリーに深く礼をし、胸の前で腕を交差させて両肩に手を置いた。
「三硫諸島総督、オースティン・ヴィレル、謹んでご挨拶申し上げます」
リリーは軽くうなずいた。
シャルルは目の前の男を見た。五十代ほどだろうか。
こめかみには白髪が目立ち、目尻にはしわが刻まれていた。
だが鼻筋は高く、目鼻立ちが整い、笑うと男前の面影があった。
(このおじさん、若いころは絶対に女の子にもてたな)
シャルルがそんなことを考えていると、オースティンはリリーの許しを受けて身を起こし、彼に向き直った。
「偉大なる赫燼尊神」
シャルルは反射的に、おはようと返しそうになった。
だが口に出しかけたところで、むやみに話すなというリリーの言いつけを思い出した。
すぐに口を閉じ、オースティンへ軽くうなずいた。
たったそれだけで、オースティンは感激のあまり、どさりと膝をついた。シャルルには予想もしない反応だった。
(え?)
シャルルは呆然とした。
オースティンは腕を交差させて両肩に手を当て、ゆっくりと体を伏せた。
「尊神に感謝を。その恩恵を讃えます!」
額を床につけるのかと思い、起こしてあげた方がいいのかと迷っていると、オースティンの頭が自分の足もとまで下がった。
次の瞬間、靴のつま先にかすかな感触があった。
オースティンが、革靴に口づけたのだ。
(うわっ?!)
シャルルは飛び上がりそうになった。
足はすでに反射的に少し引けていたが、幸い、リリーがすぐに腰を支えてくれた。
シャルルは振り向いた。
リリーはただ、小さく首を横に振った。
仕方なく、こらえてその場に立った。
(いや、あんた、総督だろう!)
(どうして俺の靴にキスするんだ?!)
礼を終えても、オースティンはすぐには立ち上がらなかった。
「オースティン・ヴィレル、赫燼尊神の三硫諸島へのご降臨を、謹んでお迎え申し上げます」
見下ろすシャルルには、どうしていいのかまるでわからなかった。
ひたすらリリーに目配せして、助けを求めるしかなかった。
「お立ちなさい、総督。尊神は、あまり煩雑な礼儀をお好みになりません」
リリーの声は穏やかだった。十人衆の装いも相まって、近寄りがたい神聖さが感じられた。
「尊神の寛大なお心に感謝いたします!」
礼を述べてから、オースティンはようやく立ち上がり、少し衣服を整えた。
シャルルは、少しは気まずいのではないかと思っていた。これだけ年を重ねた男が、侍従の前で膝をつき、少年の靴に口づけたのだから。
だが、オースティンは恥じる様子など少しもなく、むしろ満面に喜びを浮かべていた。
「尊神、六番閣下、お車の準備は整っております。邸の朝のお茶もすでに用意させております。三硫諸島の主だった役人たちが、お二方をお待ち申し上げております」
リリーはうなずいた。
「案内を」
「かしこまりました!」
オースティンはすぐに身を引いて道をあけ、自ら先に立って案内を始めた。
リリーの後ろをついていったシャルルは、数歩進んだところで、どうしても気になって振り返った。
二人の侍従はうつむいていたが、その顔には、なんと羨望が浮かんでいた。
(靴にキスするのが、何で羨ましいんだ?)
シャルルには、どうしても理解できなかった。




