第十章 朝のお茶会(上)
「六番閣下、尊神、どうぞ!」
オースティンは愛想笑いを浮かべ、シャルルとリリーのために車の扉を開けると、脇に控えて身をかがめた。
シャルルが乗り込もうとしたとき、背後から澄んだ笑い声が聞こえた。
振り返ると、若い侍女たちが水桶を提げ、神浴宮の脇の戸から出てきたところだった。一人が何か言ったらしく、仲間たちが笑い続けていた。
だが、シャルルがこちらを見ていると気づいたとたん、笑い声が止まった。
娘たちは慌てて桶を下ろし、一斉に頭を垂れて礼をした。
シャルルは笑うに笑えなかった。
(俺って、そんなに怖いのか?)
向き直ろうとして、ふと正面玄関の両脇に立つ、大きな二体の神像に気づいた。
一体は全身に炎をまとい、もう一体は逆巻く波を足もとに従えていた。二体の間には、『神浴宮』の三文字を大きく記した扁額が掛かっていた。
(左は赫燼だよな?)
今度は右の像を見た。
(じゃあ、こっちは誰だ?)
オースティンが運転手へ指示するため背を向けた隙に、そっとリリーの耳に口を寄せた。
「リリー、どうしてここには神像が二つあるんだ?」
「神浴宮は、もともと二柱の神のために造られたの」
「二柱?」
もう一柱は誰かと尋ねたかったが、オースティンが戻ってきた。
「尊神、どうぞお乗りください」
リリーがシャルルをちらりと見た。
仕方なく口をつぐみ、彼女について車内へ入った。
(柔らかいなあ)
腰を落ち着けるなり、シャルルは思わず座席に触れた。
総督専用車の座席は深紅の革張りで、肘掛けのそばには精緻な金の飾り板が一列にはめ込まれていた。
中央の小卓には茶器が並び、窓には手軽に引き下ろせる日よけまでついていた。
運転手が操作桿を動かすと、車体の下からかすかな振動が伝わり、車はゆっくりと神浴宮を出た。
走り始めてすぐ、窓の下を淡い青の電光が走るのが目に入った。
シャルルは見下ろした。
車体の両側にある車軸が、透明な覆いに包まれていた。その向こうには、銀色の金属製の軸に水緑色の蔓が固く巻きついているのが、はっきりと見えた。
運転手が操作桿を軽く押すと、蔓の表面に細かな電光がほとばしった。
それにつれて車軸が回り、車は滑らかに神浴宮を出ていった。
神域で読んだ本の記述を思い出した。雷霆の権能を持つ、水生の蔓だ。
特殊な金属製の車軸に巻きつければ、放出する雷電で軸を回すことができる。
普通の車は、雨水や泥砂で働きが損なわれないよう、車軸も蔓も車体の底に封じ込めてある。
ところがオースティンの車は、わざわざ覆いを透明にして、造りの豪華さをいっそう際立たせていた。
運転手が速度を上げるたび、蔓の間に細かな電光の輪がいくつも灯り、車軸に沿って素早く走った。
銀の金属と緑の蔓、淡い青の電弧が織りなす姿は、飾るために取りつけられた精巧な装飾品のようだった。
(さすが、総督の車だな)
感心しながら、シャルルは窓に身を寄せて外の景色を眺めた。
神域の外をまともに見るのは、初めてだった。
赫燼が空を飛んでいたときも景色はたくさん見えたが、何しろ速すぎて、どれもひゅっと過ぎてしまった。
何もはっきりとは見えなかったのだ。
今、車が斜面をゆっくり下りていくにつれ、三硫諸島の姿が少しずつ目の前に広がった。
広い通りの両側にはヤシが並び、白壁に赤い屋根の家々が山の斜面に沿って建っていた。
多くの家のバルコニーに花が飾られ、色とりどりの日よけが通りの端まで張り出していた。
街角の屋外食堂は、もう賑わっていた。
花柄のシャツを着た客たちが、ヤシの葉で葺いた日よけの下に座り、冷えたヤシの実のジュースを飲んでいた。店主が奏でるのは、シャルルの見たこともない小さな弦楽器だった。
鮮やかな長いスカートの娘が、花輪を首に掛け、楽の音に合わせて腰を軽く揺らしていた。通りすがりの観光客が次々に足を止め、手拍子で拍子を取る者もいれば、笑いながら踊りに加わる者もいた。
「朝からこんなに賑やかなのか?」
シャルルは思わず、しばらく眺めていた。
「有名な観光地だから」
リリーが冷たく説明した。
車が角を曲がると、紺碧の湾が目の前に開けた。
港には大小の船がひしめき、商船が何隻か帆を揚げて海へ出ていくところだった。
シャルルは思わず窓へ顔を寄せた。
青い海を見ていると、リリーやモラ、ルカたちと一緒に海を見に行く約束を思い出した。
今、海は目の前にある。けれど、あの三人は遥か高みに立つ十人衆になってしまった。
シャルルは隣のリリーをそっと見た。彼女もあの約束を思い出してくれたらと思った。
だがリリーは座席にもたれ、目を閉じていた。眠ったのか、ただ目を休めているのかもわからなかった。
港を過ぎても、シャルルは遠ざかる帆を見つめていた。その間に、運転手はもう速度を落としていた。
「尊神、六番閣下、到着いたしました」
オースティンの声を聞き、リリーはようやくゆっくり目を開いた。
窓の外には、堂々たる白い邸宅があった。玄関前から車の止まる場所まで赤い絨毯が延び、その両脇を、贅沢な衣服の男女が埋め尽くしていた。
(うわあ。朝のお茶って、こんな大ごとなのか?)
黒山の人だかりを見て、シャルルは訳もなく嫌な予感がした。
車が止まるやいなや、オースティンは待ちきれぬように降り、じきじきに二人の扉を開けた。
「尊神、六番閣下、どうぞ!」
リリーが先に降り、シャルルがすぐ後に続いた。
「赫燼尊神、ようこそお越しくださいました!」
「六番閣下、ようこそお越しくださいました!」
人々は腕を交差させて両肩に手を当て、一斉に身をかがめて礼をした。
そのままリリーについて中へ入るつもりだったが、オースティンが四人を連れて歩み寄ってきた。
「尊神、こちらは三硫諸島の赫燼派の主だった役人たちでございます。本日お越しになると伺い、ぜひじかにご挨拶をと願っております」
オースティンはそう言い、四人の役人をシャルルの前へ導いた。
先頭にいたのは、黒い祭司の長衣をまとった老婦人だった。胸には金色の炎の徽章を下げていた。
「聖焔教会の首席祭司、イレーナ・ベルモンです」
紹介が終わるなり、老婦人は感激して膝をついた。
「赫燼尊神、ついに再び、御身の光が三硫諸島を照らしてくださいました!」
そう言って身を伏せ、シャルルの靴先へそっと口づけた。
(やっぱり! またか)
今度は覚悟を決めていたらしく、足を引っ込めはしなかった。それでも嫌悪感に、全身が落ち着かなかった。
(何なんだよ、この妙な決まりは?)
立ち上がったイレーナは、目を少し潤ませ、シャルルに何度も礼を述べた。
オースティンは続いて、残る三人を紹介した。
「三硫諸島海防司令、レイモンド・ホーンです」
紺の軍礼服を着た中年の男が進み出て、礼をした。
次は公共事業総監のアルベルト・ライン、それから財政総監のヴィクトル・サーンだった。
三人は順に膝をつき、足への口づけの礼を済ませた。
シャルルはずっと顔を引き締め、こんなことは慣れきっているというふりを懸命に続けた。
両脇の黒山の人だかりを見て、思った。
(まさか、この人たち全員が俺の靴にキスするのか?)
恐ろしくなり、急いでリリーへ目を向け、何か手を考えてほしいと訴えた。
だがリリーは傍らに立つばかりで、助け舟を出す気配はまるでなかった。
幸い、恐れていた集団での靴への口づけは起こらなかった。
オースティンがシャルルの前に立ち、人々に告げた。
「皆様、尊神はまだお食事を召し上がっておりません。本日のご挨拶はここまでといたしましょう」
その言葉に、シャルルは大きく安堵の息をついた。
だが、安心したのも束の間、オースティンは言葉を継いだ。
「ただし皆様も、赫燼尊神のために催す朝のお茶会へご参加いただけます。尊神のお許しがあれば、その際にご挨拶を」
どういう意味か呑み込めず、シャルルは隣のリリーにそっと尋ねた。
「総督は何を言っているんだ?」
「先に中で食事をして、あとであなたの靴にキスする機会を探せってこと」
じつにわかりやすい説明だった。シャルルの顔は曇った。
(つまり、靴にキスされる苦行からは逃げられないのか?)
考えを察したリリーが、もう一言付け加えた。
「でも、あなたがうなずかなければ、勝手に近づく度胸はないわ」
それを聞くと、シャルルはたちまち安心した。
(あとで誰が来たって、俺の靴には触らせないぞ!)
そのとき、身なりの整った老執事が邸の玄関へ進み出て、恭しく手を差し伸べ、中へと促した。
「総督閣下、朝のお茶の支度が整いました。十人衆の閣下と尊神を、お席へお迎えできます」
「ご苦労だった、サバス」
オースティンはうなずき、リリーとシャルルへ向き直った。
「六番閣下、尊神、こちらへどうぞ」
一同は後に続き、総督邸へ入った。
広間を抜けると、焼きたてのパンの香りが漂ってきた。
とっくに腹をすかせていたシャルルは、思わず香りのする方を見た。
広々とした食堂には長い食卓が置かれ、さまざまな菓子、ハム、燻製の魚、新鮮な果物が山のように並んでいた。
侍女たちが、最後の数品を卓に並べているところだった。
(やっと食べられる!)
適当な席を探して座ろうとしたが、オースティンがすでに上座の椅子を自ら引いていた。
「尊神、どうぞ」




