第七章 目覚め
リリーの顔は紫色に膨れ、金髪は枕の上に乱れていた。両手で必死にシャルルの手首をつかんでいた。
シャルルは寝台に膝をつき、両手でリリーの首を固く締め上げていた。
その首をつかむ指の隙間から、暗赤色の火が数筋漏れていた。
消えかけた炭の残り火のように弱い炎が、指先に沿ってちらちらと揺れていた。
リリーの首には、濃い赤の指の跡だけでなく、黒く焦げた火傷がいくつもできていた。
(赫燼?!)
シャルルは恐怖に駆られ、勢いよく両手を放した。
「リリー!」
リリーは枕に倒れ込み、首を押さえて激しく咳き込んだ。
シャルルは慌てて後ずさり、膝が寝台の縁に当たってようやく止まった。
(どうしたんだ、俺は? どうしてリリーの首を締めていた?)
自分の手を見下ろした。先ほどの鈍い火は、すでに消えかけていた。
だが、暗赤色の炎は確かに見た。
(また赫燼に操られたのか? あの炎、間違いない。赫燼の炎だ)
そう確信したシャルルは、すぐに意識の海で大声を上げた。
(赫燼! 出てこい!)
(赫燼! さっさと出てこい!)
長いこと叫び続けたが、意識の海に赫燼の炎は現れなかった。
心の中でもう一度呼んでも、返事はなかった。
ふいに腹が立ってきた。
(死んだふりをするな! お前がやったんだろう!)
だが、意識の奥は静まり返ったままだった。
シャルルは呆然とした。
試しに指を動かし、拳を握ってみた。
何もおかしくなかった。
誰かに操られている感覚は、少しもなかった。
(赫燼じゃないのか?)
シャルルはゆっくり顔を上げた。
リリーはまだ咳き込んでいた。
首の火傷はさほどひどくない。しかし、赤く腫れた幾本もの指の跡が、痛々しいほど目についた。
「こほ……ごほ、ごほ……」
長く咳き込んでから、リリーはようやく一息ついた。
枕に手をついて体を起こし、首をさすった。
「さっきは、いったいどうしたの?」
ひどくかすれた声だった。
シャルルは呆然と見つめた。
リリーは垂れた金髪を払い、首筋の傷を見下ろした。
「本当に、あなたに絞め殺されるかと思ったわ」
「もう近づかないで。また首を締められたくはないから」
シャルルはリリーの首の傷を見つめた。頭の中がぐちゃぐちゃだった。
(さっきの夢は、いったい何だったんだ?)
黙り込んだ彼を見て、リリーは首の火傷に触れ、痛みに小さく息をのんだ。
「赫燼が宿主に神威を貸すなんて、初めて聞いたわ」
(赫燼が俺に貸した神威?)
シャルルは顔を伏せ、両手を見た。
ふいに、指先に暗赤色の火の粉がいくつか灯った。
シャルルはきょとんとした。
反応する間もなく火は一気に広がり、瞬く間に十本の指すべてが燃え上がった。
「うわっ!」
シャルルは仰天し、寝台から飛び降りた。
慌てふためいて洗面所へ駆け込んだ。
洗面台に飛びつき、蛇口をひねった。
燃える両手に、水を浴びせる。
じゅっ!
白い蒸気がどっと立ちのぼり、その熱さに思わず身を引いた。
目を凝らして見た。
両手の火は、まだ燃えていた。
「何だよ、これ?! どうして消えないんだ!」
シャルルは急いで、また両手を蛇口の下へ差し出した。
じゅう、じゅう、じゅう!
さらに多くの蒸気が立ちのぼった。
わずか数秒で、洗面台の鏡が曇った。
蛇口をいっぱいに開き、必死で両手を水にさらした。
だが、いくら水流を強めても、暗赤色の炎は手にまとわりつき、わずかに弱まる気配さえなかった。
(待てよ……)
何かに気づいたように、シャルルは水流から手を抜いた。
そっと手首を返し、指の間で揺れる炎を見た。
(変だな。少しも熱くない)
試しに拳を握った。
指が閉じると炎も閉じ込められたが、少しするとまた指の隙間から漏れ出した。
水さえたちどころに蒸発させる炎なのに、皮膚には火傷の兆しもなかった。
勇気を出し、右手を頬に近づけた。
やはり頬にも、炎の熱は感じられなかった。
(この炎、俺には害がないのか?)
安堵しながら両手を見たシャルルは、それでも首を振った。
(俺は火傷しなくても、リリーには怪我をさせる)
(どうしたら、この火を止められるんだ)
焦って足踏みした。
両手を振り回して、火を振り消そうとした。
しばらく悪戦苦闘しても、炎は少しも変わらなかった。
(赫燼! 何とか言えよ!)
意識の海は、やはり応えなかった。
そのとき、洗面所の外で足音がした。
「どうしたの? 中で何を騒いでいるの?」
扉が二度、叩かれた。
「どうしてそんなに騒がしいの?」
リリーの声は冷たかった。
シャルルはびくりと震え、慌てて肘で扉を閉めた。
「入ってこないで!」
扉の外が、一瞬静かになった。
「今度はどうしたの?」
シャルルは、まだ燃えている両手を見下ろした。
「怖いんだ……また、きみを傷つけそうで」
扉にもたれ、声を落とした。
「リリー、今夜はここで寝る。俺のことは放っておいて」
しばらく、扉の外で沈黙が続いた。
「わかったわ」
リリーが寝台へ戻っていく足音がした。
寝台の枠が小さくきしむと、寝室は静かになった。
シャルルは床に座り、手の炎を見つめた。
(赫燼、こんなもの、早く引っ込めてくれよ!)
シャルルは便座に腰を下ろした。
どれほど経ったのかわからない。やがて耐えきれなくなり、便座に座ったまま洗面台の縁にすがりつき、うとうとと眠ってしまった。
トントントン!
穏やかに戸を叩く音に、シャルルは眠りから引き戻された。
勢いよく顔を上げ、額を洗面台にぶつけそうになった。
(誰だ?)
痛む首をさすり、便座で一晩過ごしてしまったことにようやく気づいた。
反射的に両手を見た。
昨夜、どうしても消えなかった炎は、もうなかった。
急いで指を開き、手を返して、念入りに確かめた。
(やっと消えた)
ほっとして立ち上がろうとすると、また外で戸を叩く音がした。
「赫燼尊神、六番閣下、おはようございます」
寝室の外から、知らない男の声がした。
「三硫諸島総督、オースティン・ヴィレルでございます。突然の訪問、何とぞお許しください」
(総督?)
シャルルは耳をそばだてた。総督という呼び名なら、本で読んだことがあった。
エドウィン王国の海外自治領で、行政の頂点に立つ者の称号だ。
三硫諸島については、神域の地理の授業で習った覚えがあった。
王国本土から遠く離れた、三つの主要な島と数十の小島からなる土地で、人口はおよそ二十万。王都からあまりに遠いため、王国は現地の総督に大幅な自治権を与えている。
(じゃあ、あの扉の向こうにいるのが、この島でいちばん偉い役人なのか?)
「何のご用ですか?」
リリーが総督に応じた。声はやはり冷たかった。
「昨夜、赫燼尊神が三硫諸島へご降臨なされたと伺い、本来ならすぐさま拝謁に参るべきでした。ですが、すでに夜も更け、尊神のお休みを妨げてはならぬと思いまして」
「それで?」
「尊神と閣下を総督邸の朝のお茶にお招きし、ささやかながらおもてなしをさせていただきたく存じます」
扉の外で衣擦れの音がした。総督が礼をしているのかもしれなかった。
「また、島内には尊神のとりわけ敬虔な信徒が何人かおります。ご降臨を聞き、ぜひじかに拝謁したいと願っております」
「尊神はまだお休みです」
リリーが答えた。
「もちろん、もちろんです! 私が早まったことを申しました」
オースティンは慌てて言った。
「朝のお茶は、いつでも召し上がれるようにしておきます。尊神のご都合のよいときに、いつでも」
(いつでも? あんたたちの尊神が昼過ぎとか夜に起きても、朝のお茶なのか?)
シャルルは伸びをしながら、つい心の中で突っ込んだ。
しびれた脚を何度か動かし、洗面台につかまってゆっくりと立ち上がった。
まず両手を確かめ、火の粉が出ていないことを確認してから、おそるおそる洗面所の扉を開けた。
寝室のカーテンは、もう開けられていた。
床まで届く窓から朝日が差し、昨夜の雷雨に少し乱れた薄布を、真っ白に照らしていた。
リリーは寝台の縁に座っていた。
シャルルが出てくると、ちらりと目を上げた。
本人だと確かめると、気のなさそうな様子で鏡台へ行き、腰を下ろした。
寝間着をまとい、金色の長い髪を肩に垂らしていた。
鏡台から小さな銀の箱を取り、蓋を開けた。指先で乳白色の軟膏をすくい、首にそっと塗った。
着替えを探そうとしていたシャルルは、その手つきを見て、思わず足を止めた。
鏡の中で、リリーが金髪を片側へ寄せた。首には濃い赤の指の跡が幾本もあった。
炎に焼かれた黒い跡も、いくつか残っていた。
軟膏を均等に伸ばすと、傷跡は徐々に薄れ、やがて周りの肌とほとんど見分けがつかなくなった。
だが、見ているシャルルは全身が冷えていった。
昨夜の出来事が、一気に頭へ押し寄せた。
自分も好きだと、リリーが言ってくれたことを思い出した。
自分が彼女の首を強く締め、彼女は顔を紫色にして、必死に指を引きはがそうともがいていた。その姿が浮かんだ。
(何をしたんだ、俺は。リリーに、あんな……)
シャルルは両手を見下ろした。
「リリー……」
「何?」
「昨夜は……ごめん」
リリーは振り向かなかった。
鏡に映る首の傷を丹念に確かめ、軟膏をまた少し取って、最後に残った赤みを覆った。
「気にしなくていいわ。昨夜ここに残ったのは、赫燼の指示に従っただけだから」
(赫燼の指示に従っただけ?)
シャルルは呆然とした。
(じゃあ……俺が好きだって、あれは全部嘘だったのか?)
でも昨夜、自分を見るリリーの目は、確かに昔と同じだった。
あの言葉は本当だったのかと、どうしても聞きたかった。
だが、本当の答えを聞いたら耐えられないのではないかと、怖かった。
聞きたいのに聞けない。その思いに胸が苦しくなった。
シャルルは顔を伏せた。いつの間にか、目の奥が熱くなっていた。
リリーに見られたくなくて、急いで目をこすった。
ぐるるる。
よりによってそのとき、情けなくも腹が鳴った。
シャルルは一瞬固まり、たちまち赤くなった。
(くそっ!)
リリーにも聞こえたようで、髪を梳く手が止まった。
鏡越しに、恥ずかしそうに腹を押さえるシャルルを見た。
「お腹がすいたの?」
シャルルはきまり悪げにうなずいた。
リリーは櫛を置き、扉へ向かった。
「オースティン総督」
外から即座に返事があった。
「六番閣下、ここにおります!」
「尊神がお目覚めです。朝のお茶の準備を」
「はい! 六番閣下、ただちに手配いたします!」
オースティンの声は、先ほどより明らかに高くなった。扉の外で、慌ただしい足音もした。
「急げ! 赫燼尊神がお目覚めだ。すぐに朝のお茶を用意させろ! 赫燼派の役人全員に、総督邸で主神をお迎えする準備をするよう伝えろ!」
言いつけを終えると、リリーは鏡台へ戻って座り、櫛を取ってまた髪を整え始めた。
シャルルはもう一度腹をさすり、また訴え始めた空腹をなだめようとした。
(まあいい。まずは腹を満たしてからだ)




