第六章 雷鳴
ゴロゴロ……
稲妻が漆黒の夜空を裂いた。
土色のフードをかぶった男が、両手で小銃を抱え、ぬかるんだ浜辺を一歩ずつ進んでいた。
雨粒が石つぶてのように、絶え間なく顔を打った。
顔の雨をぬぐうと、振り払った手は血まみれだった。
「くそっ! 左翼の連中はどうした! どこに消えやがった!」
背後で将校が怒鳴っていた。
濃灰色の軍服を着た兵士が、男の脇を駆け抜けた。塹壕へ飛び込んだとたん足を滑らせ、銃もろとも泥水に倒れ込む。
起き上がるより先に、投げ出された小銃へ手を伸ばしていた。
銃声が立て続けに響いた。
パン! パン、パン!
豪雨に押さえつけられた硝煙が低く垂れ込め、潮風と血の臭いに入り混じって、胸が詰まるほどむせ返った。
男は塹壕の縁に立っていた。左腕から血が滴り、その顔はひどい痛みに歪んでいるようだった。
「十人衆が来たぞ! 全員、戻れ!」
叫びが消えぬうちに、雷の轟音がその声をかき消した。
稲妻が、ばしんと男のいる塹壕に落ちた。
凄まじいエネルギーが塹壕の一帯を吹き崩した。
土嚢も、壁を支えていた木杭も、まとめて宙へ跳ね上がった。
弾を込めていた兵士たちは、悲鳴を上げる間もなく炭と化した。
男も無事では済まなかった。
正面から押し寄せた爆風に体をさらわれ、反対側の土壁に背中を叩きつけられた。左腕に、心臓までえぐられるような激痛が走る。
その直後、あらゆる音が消えた。
溜まった水に仰向けになり、誰かが鉄の棒で頭を何度も殴っているように感じていた。
鼻へ雨水が入り込み、激しく何度か咳き込んだ。
ずいぶん経ってから、ようやく周囲の音が戻ってきた。
「助けて……誰か、助けて……」
すぐ近くで、倒れた支柱に両脚を挟まれた兵士が、体にかぶさる土を必死にかきのけていた。
男は助けに行こうとした。しかし上体を半ば起こしただけで、左腕の痛みに目の前が暗くなった。
歯を食いしばり、右手で折れた木杭をつかむと、どうにか立ち上がった。
塹壕の中に、立てる兵士はもうほとんどいなかった。
焼けた軍帽、折れた銃、焦げ臭い死体が泥水に浮かんでいた。
男は痛みをこらえ、木杭を杖に、ゆっくりと塹壕を這い出した。
強い潮風が正面から吹きつけ、フードが危うくめくれかけた。
右手でフードの縁を押さえ、塹壕の外側の斜面をさらに数歩這い上がる。そして風上へ顔を上げた。
近くの小高い丘で、無数の稲妻が頂の周囲を絶えず走り回っていた。
その光に照らされ、丘の上に四人の姿が見えた。
四人とも白いローブをまとっている。
先頭にいるのは、腰の曲がった老婆だった。フードから銀白色の髪がのぞいている。空を仰ぎ、骨ばった右手を宙へ差し上げていた。雷光の明滅に合わせ、五本の指がゆるゆると動く。
残る三人は、その後ろに離れて立っていた。一人は背中に手を組みさえしている。眼前で繰り広げられる雷雨の芝居を楽しんでいるかのようだった。
男は目を細め、その正体を見て取った。
「十人衆……!」
にっと大きく口を開いて笑うと、腰の、いくらかひしゃげた通信機へ手を伸ばした。
二度ボタンを押して、ようやく途切れ途切れの雑音が聞こえた。
「ザ……ザ……」
「¥#@、聞こえるか」
通信機は応えなかった。
男はもう一度ボタンを押した。
「¥#@、聞こえたら応答しろ」
今度は数秒ののち、ようやく反応があった。
荒い息遣いが聞こえてきた。
「クリス、あなたなの?」
女の声はかすかで、信じきれないようなためらいを帯びていた。
「生きていたの?」
「ああ」
男が答えかけると、通信機の向こうから、重荷を下ろしたような小さな笑い声がした。
「よかった……」
「末序者から、撤退命令が出たわ」
女は通信機を少し遠ざけたらしい。そばの者たちに撤退を続けるよう指示する声が、かすかに聞こえた。
「撤退命令は受けている」
男は丘の四人の白いローブを見つめていた。
「七号高地に十人衆が四人来ている。¥#@、一号塹壕へ来てくれ。手を貸してほしい」
「わかった。すぐ行くわ」
男は通信を切り、七号高地をもう一度見た。
丘の老婆が両手を振り続けている。稲妻はその指す方へ、従順に一本また一本と落ちていった。
男は木杭をつき、塹壕に沿って慎重に丘へ近づいていった。
およそ半時間かけ、ようやく丘のふもとにたどり着いた。
そのとき、背中をそっと叩かれた。
「クリス!」
振り返ると、濃灰色の軍服の女がいた。
雨に濡れた髪が数筋、頬に張りついている。腰には拳銃を下げていた。
女は二歩近づいた。力なく垂れた左腕に目を留めると、たちまち気遣わしげな顔になった。
「どうしてこんな怪我を?」
男は笑みを浮かべて答えた。
「少し運が悪かった。だが、大丈夫だ」
「俺が正面から行く。お前はどこかに隠れていてくれ。連中が俺に気を取られたところで仕掛けるんだ」
女は傷ついた左腕を見た。
「私が行くわ。その腕で、もしものことがあったら……」
「怪我をしているからこそ、連中は油断する」
「でも……」
「¥#@、言うとおりにしてくれ」
女は男を見つめ、やがて小さく息をついた。
「わかったわ。くれぐれも気をつけて」
男はうなずき、手にしていた小銃を女に渡した。
……
パン!
銃声が一発響き、男は泥の中へ激しく倒れ込んだ。
足が一本、その背中を踏みつけた。
もがいて起き上がろうとしたが、肩を押さえつけられ、また全身が泥水に沈んだ。
白いローブの男が、左肩を踏んでいた。
傷の痛みに、抗う力も出なかった。
「放せ……彼女を放せ!!」
白いローブの男は見下ろして、足にさらに力を込めた。
「何を騒いでいる」
顔が泥に押し込まれ、口いっぱいに泥混じりの雨水が流れ込んだ。
男は必死に首をひねった。
数歩先で、白髪の老婆が片手で女の首をつかみ、宙に吊り上げていた。
女の拳銃は足もとに落ちていた。両手で老婆の手首を握りしめ、ブーツのつま先で空を蹴っていた。
老婆は女を眺め、少し苛立った顔をした。
「八と九は、こんな稚拙な手口で殺されたのかい?」
女の首をつかんだまま、ほかの白いローブの者たちへ顔を向けた。
「次に生まれ直してきたら、たっぷり笑ってやらないとね」
そう言うと、指の間に青白い電光がいく筋もきらめいた。
「やめろ!」
男は必死にもがいた。女が苦しげに首を巡らせ、彼を見た。
轟!
空から雷が落ち、女をまともに打った。
打たれる寸前、女が彼に微笑みかけるのが見えた。
唇がかすかに動いた。最後に何か言おうとしたらしかった。
だがその姿は、すでに雷光に吞まれていた。
老婆は手を放し、黒焦げの体が泥水に落ちるに任せた。
袖口を払うと、男の方へ歩いてきた。
「次はお前の番だよ」
目の前で腰をかがめ、顎をつかんで無理に顔を上げさせた。
「言え! 末序者はどこだい?」
男は答えなかった。
その眼差しは老婆の肩越しに、女が倒れた場所にとどまっていた。
「聞いているんだよ!」
老婆は髪をつかみ、無理やり顔を上げさせて、皺だらけの自分の顔を見据えさせた。
それでも男は黙っていた。
老婆はその視線を追って振り返り、ふいに笑った。
「なんだい、まだあの女が気になるのかい?」
男の頬を軽く叩いた。
「おとなしく話せば、楽に死なせてやるよ」
男は雨に洗われ続ける濃灰色の軍服を見ていた。
ふいに、その口もとに背筋の寒くなるような笑みが浮かんだ。目つきも変わっていた。
さっきまで悲しみに満ちていた眼差しが、今は冬の洞窟のように冷えきっていた。
冷たく、底知れず深い。
老婆をひたと見据える目に、むき出しの殺意が宿っていた。
老婆の笑みが次第にこわばり、かすかな恐怖さえ浮かんだ。
髪を握る手に力を込め、雷を呼ぼうと手を振りかけた。その瞬間、男が突如として力を振り絞った!
「ああっ!」
左肩を踏んでいた白いローブの男は、不意を突かれ、激しくはねのけられた。
男は泥水から身を振りほどき、眼前の老婆へ飛びかかった。
老婆が後ずさる間もなく、血にまみれた太い両手が、その首を締め上げた!
老婆は目を見開き、両手で必死に男の手首をつかんだ。
叫ぼうとしても、喉が締めつけられ、声にならなかった。
男の十本の指がぐっと食い込み、なおも締めつける力を増していった。
老婆の顔が次第に赤く膨れ、目尻からは勝手に涙があふれた。
残る三人の十人衆は、その光景を見て、銃を抜く者もいれば、正体の知れない神秘の力を集め始める者もいた。
だが男はそんな脅しに目もくれず、ただ締めつける力を強め続けた。
老婆は爪を立て、男の手の甲を必死にかきむしった。それでも十本の指はどうしても外れなかった。
仕方なく片手を放し、震えながら空へ持ち上げた。
五本の指を懸命に開く。
雲の中で、青白い電光が突如ひらめいた。
男は一度、空を見上げた。
そして、また笑った。
ゴロゴロッ!
凄まじい雷鳴が炸裂した。
眩い白光が、一瞬で二人の姿を吞み込んだ。
男の視界が揺らいだ。
老婆の皺だらけの顔が、不意にぼやけ始めた。
金色の髪が数筋、手の甲に垂れた。
かすかな声が耳に届いた。
「お願……い……」
シャルルは凍りついた。
窓の外で、ひときわ大きな雷鳴が炸裂した。
稲妻が寝室を照らし、シャルルはようやく目の前の相手の顔を見た。




