第五章 诱惑
リリーは湯船のそばに残り、一言も話さなかった。
シャルルは何か話題を探した。
だが、さっきの赫燼の言葉を思い出すと、普段なら簡単に言える冗談まで、ひどく場違いに思えた。
それに、意識の奥ではわかっていた。この人は、もうリリーではない。
六の番号を与えられた、世界の頂点に君臨する十人衆の一員なのだ。
やがて、傍らからリリーの声がした。
「洗い終わったら、行きましょう」
リリーが立つ気配がした。続いて、足音が遠ざかっていった。
足音が遠くなってから、シャルルはおそるおそる振り向いた。
リリーはもう戸口の辺りにいた。シャルルを振り返ることもなく、簡単に身の回りを整えると、浴室の奥の木の扉へ向かった。
(やっと終わった)
シャルルは長く息を吐き、後ろへもたれた。
本当に、つらい時間だった。
とりわけ、去り際の赫燼の差配と脅しのせいで、何を話せばいいのかずっとわからなかった。リリーがひとまず離れた今、ようやく一人でいられる。
ところで、さっきの「行きましょう」はどういう意味だろう。
(洗い終わったら早く出ろ、ってことだろうな)
そう思うと、もう湯に浸かっていたいとは思えなかった。
縁に手をついて湯船を出ると、浴巾で体を拭き、そばの衣桁にきちんと畳まれた服を見つけた。
生地はとても軽く、普通の織物とは思えないほど柔らかかった。襟合わせの内側に隠れた留め具をどう留めるのか、長いこと調べてようやくわかった。
やっと着替え終えたときには、リリーの姿はとっくになかった。
(これで今度こそ、ゆっくり休めるかな)
シャルルは満足げに襟を直し、浴室の奥の木の扉を開けた。
だが、その先にあったのは、思い描いた廊下ではなかった。
寝室だった。
壁には複雑な金色の浮き彫りが飾られ、乳白色の晶石灯がいくつも宙に浮かび、柔らかな光を放っていた。床の深紅の絨毯は厚く、踏んでもほとんど音がしなかった。
何より目を引いたのは、部屋の真ん中の大きな寝台だった。
彫刻を施した四本の柱が高く伸び、垂れ下がる白い薄布を支えていた。枕もとには柔らかそうな枕が二つ並び、金糸で刺繍した寝具がしわ一つなく広げられている。幅は神域の寮の一人用寝台を三つ並べたほどもあった。
(すごいな)
(神って、こんなところに泊まるのか?)
シャルルは思わず近づいた。
閉めきられていない窓から、潮の香りを含んだ夜風が吹き込み、薄布を揺らして寝台の端をのぞかせた。
こんな寝台なら、どれほど気持ちよく眠れるのだろう。そう考えていると、布の向こうに人影があるのに気づいた。
「リリー?」
小さく呼びかけた。
返事はなかった。
そこで、忍び足で柱を回り込んだ。
相手の姿がはっきり見えると、思わず立ちすくんだ。
やはり、リリーだった。
金髪を肩に垂らし、寝台の縁に座っている。もうずいぶん待っていたらしかった。
シャルルが近づくのに気づき、リリーはゆっくりと顔を向けた。
立ち上がらず、ただ少し座る位置をずらした。
「いらっしゃい」
少し気だるげな声には、何の感情も聞き取れなかった。
シャルルはその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
(待てよ……)
(どうして、まだここで待っているんだ?)
リリーは、戸惑うばかりの彼を見た。
「赫燼が、ここに残ってあなたの世話をしろと言ったの」
「違う、俺は頼んでなんか……」
シャルルは必死に説明しようとしたが、リリーは取り合わなかった。
「否定しなくていいわ。神は嘘をつかないもの……」
言い終えて、ふと何かを思い出したように付け足した。
「あのお方を除いては」
「神のお決めになったことよ。私には逆らえない」
シャルルには、何の話なのかわからなかった。寝台の柱に手をつき、こんなことは何一つ頼んでいないと説明しかけた。
「ぐずぐずしないで、シャルル。そういう煮えきらないところ、嫌いよ」
その一言に、シャルルは固まった。
その声も口調も、話すときの顔も、昔、一緒に育ったリリーのものだった。
成人の儀の惨劇から、まだ一日しか経っていない。それなのに、リリーにこうして叱られるのは百年ぶりのような気がした。
神域では、失敗をして修道女のところへ行く勇気が出ないたびに、リリーが苛立たしげに背中を押した。
「何を怖がっているの? 自分でやったんでしょう。誰かに代わりに謝ってもらうつもり?」
あのころはいつも、リリーはきつすぎると思っていた。
だが今、その懐かしい口調を聞くと、胸がいっぱいになって涙がこぼれた。
「リリー……」
「何を泣いているの?」
リリーはシャルルを見て、口もとに懐かしい笑みを浮かべた。
「こんなに大きくなったのに、すぐ泣くんだから。ルカに見られたら、一年はからかわれるわよ」
シャルルは急いで顔をぬぐった。
リリーはもう少し声を和らげた。
「シャルル、こっちへ」
寝台の端へ手を差し出した。
その瞬間、彼女が十人衆の六番だということを、シャルルは忘れかけた。
目の前の顔も、目もとに浮かぶ懐かしい笑みも、話すときの少し苛立った表情さえも、十八年間知ってきたリリーとまったく同じだった。
ありえない錯覚まで覚えた。
その手を取れば、昨日の成人の儀など、起こらなかったことになるのではないか。
シャルルは吸い寄せられるように寝台へ近づいた。
リリーはその手を握り、そっと自分の隣へ引き寄せた。
「私のことが好きなんでしょう?」
シャルルは彼女を見つめた。
そんなことは、今まで真剣に考えたことがなかった。
考える勇気がなかった、と言った方がいいかもしれない。
長くためらった末に、ようやくうなずいた。
リリーはかすかに笑った。
「内緒だけれど、私もよ」
シャルルはリリーの隣に腰を下ろした。まだ、今の言葉が信じられなかった。昔のリリーがようやく戻ってきたと思い、彼女の目がもう別の方を向いていることには気づかなかった。やがて、うとうとと眠りに落ちた。




