第四章 しばしの返却
(気持ちいい……)
柔らかな温もりが、ゆっくりと胸まで満ちてくる。大きな温泉に浸かっているようだった。
シャルルは気だるく伸びをした。あまりの心地よさに、足の指まで思わず丸まった。
温かい湯が、背中のだるい痛みをほぐしていく。
シャルルはそのまま、もう少し後ろへもたれた。
(毎日こんなに楽だったらいいのに)
(待てよ……)
(俺、風呂に入っているのか?)
そこで突然、赫燼という神に体を乗っ取られたことを思い出した。
(あいつ、風呂に行くって言っていた)
(ということは、今、俺は……)
シャルルはぱっと目を開いた。
だが、目の前は相変わらず真っ暗だった。
濃い黒霧が幾重にも重なり、果てしない潮のように視界を吞み尽くしていた。
どこにいるのか確かめようと手を伸ばしたが、霧の中ではその手さえ見えなかった。
手を振って、目の前の黒霧を払おうとした。
霧は散らず、何かに驚いたかのように、かすかにうねった。
もう二度ほど手を振ってみた。
今度は霧の奥に、わずかな光が差していることに気づいた。
厚いカーテン越しの朝日のような、弱い光だった。
その光に沿って、奥から違う色の霧が一筋浮かび上がった。
濃かった黒霧は次第に灰白色に染まり、輪郭もぼやけていった。
何が起きたのかもわからぬうちに、目の前の景色が変わった。
黒がすっかり消え、代わりに白い湯気がぼんやりと立ち込めていた。
ようやく、自分の手が見えた。
腕は温かな湯に浸かり、先ほどの動きに合わせて、水面に小さな波紋が幾重にも広がっていた。
湯気の向こうには、高い丸天井と精緻な石柱がかすんで見えた。
空気にはほのかな香りが漂い、体を包む湯加減もちょうどよかった。周りの水音まで、ひどく穏やかに聞こえた。
(ここ、浴場なのか?)
シャルルは感心しながら辺りを見回した。浴場で湯に浸かるのは、初めてではない。
神域にも浴場はあった。だが飾り気はまるでなく、湯船の壁も床も、ごくありふれた石でできていた。
訓練のあと、モラやルカとしばらく気持ちよく湯に浸かり、一日の疲れを流すのが好きだった。
とはいえ神域の共同浴場だから、そう長くは入っていられず、次の者に譲らなければならなかった。
今のように脚を伸ばし、遠慮もせずに浸かれるのは初めてだった。
脚を伸ばす?
シャルルははっとして、水面を見下ろした。
さっき伸びをしたとき、確かに脚が動くのを感じた。
温泉のような心地よさに浸りきっていて、まるで気に留めなかったのだ。
試しに足の指を動かしてみた。
水の下から、はっきりと感触が伝わってきた。
今度は片脚を上げると、膝がすぐに水面からのぞき、湯を跳ね上げた。
(動けるのか?)
シャルルは喜びに顔を輝かせ、もう二度ほど湯を蹴り、手を上げて何度か水面を叩いた。
「尊神、どうなさいました?」
背後から優しい女の声がして、シャルルは驚いた拍子に湯船へ滑り落ちた。
硫黄臭い湯を思いきり飲んでしまい、むせて顔を真っ赤にした。
両手でやみくもに水面を叩き、やっと頭を出した。
「げほっ! ごほ、ごほっ!」
咳き込みながら顔の水をぬぐった。目尻には涙まで浮かんでいた。
背後の相手も驚いたらしかった。
「尊神!」
両肩を、慌てて二つの手が支えた。
「大丈夫でございますか?」
どうにか息を整えて振り向き、シャルルはようやく相手の顔を見た。
少女だった。
淡い色の湯着をまとい、長い金髪を後ろで結い上げていた。
シャルルは呆然とした。
その顔を、知らないはずがなかった。
(リリー?)
口を開き、名前を呼ぼうとしたが、曖昧な吐息しか出てこなかった。
リリーは気づかなかったらしい。シャルルの様子を丹念に確かめ、むせたせいで具合を悪くしたわけではないとわかると、少し安堵した。
「今のは、どうなさったのですか?」
シャルルは首を横に振った。
首を振って否定する彼を見て、リリーの顔に少し困惑が浮かんだ。
「リリー、きみ……どうしてここに?」
リリーは手を止め、数秒、シャルルの目を見据えてから言った。
「シャルルなの?」
シャルルは一瞬きょとんとして、うなずいた。
「リリー……俺……」
「リリー……俺……」小さく呼びかけたものの、何と説明すればいいのかわからなかった。
リリーはなおもしばらく顔を見つめ、この体の主がシャルルに戻ったことを確かめると、立ち上がって去ろうとした。
「待て! 誰が行っていいと言った?」
立ち去ろうとしたそのとき、シャルルの口から、威厳に満ちた声が突然飛び出した。
リリーは怯えた顔で振り返り、湯船に座るシャルルを見た。
もう一度、その目を確かめた。
澄んだ両目を見れば、目の前にいるのはシャルルという少年に違いなかった。
なのに、今自分を呼び止めた声は……。
リリーが考えていると、またその声がシャルルの口から響いた。
「六、まだ仕事も終わっていないのに、どこへ行くつもりだ?」
リリーは恐怖に両膝をつき、腕を交差させて両肩に手を当てた。
「尊神、お許しください。しばらくこのお体を離れられたものと思い、それで私は……」
「それで、任せた仕事を放り出すつもりだったのか?」
「いえ……違います」
自分の口から出てくる言葉を聞き、シャルルにはすぐにわかった。赫燼だ。
体を乗っ取った神が、また戻ってきた。
(また体を奪われる)シャルルは絶望した。
ところが、諦めたように手を下ろすその動きは、思いがけず自分の意思のままだった。
「違うなら残れ。宿主の世話をしろと言ったはずだ」
「俺の許しなく、勝手に離れるな。わかったな?」
リリーは怯えながらうなずいた。
「よし。次にやったら、お前もあの老いぼれ神官どもも、炭と灰にしてやる」
「はい。尊神の神託、謹んで承ります」
リリーは湯船のそばに残るしかなかった。シャルルは彼女を見つめ、しばらく何も言えなかった。
神域では、リリーはいつも身なりをきちんと整えていた。訓練が終わったばかりで、皆が疲れ果て、着替える気力もないときでさえ、髪を直しながら、物をそこらに放り出す連中に小言を言えた。
けれど、目の前のリリーには、いつもの厳しさが少し足りなかった。
彼女はうつむき、ほつれた髪を耳にかけた。
意識の海で、シャルルは再び赫燼を表す炎を見た。
「疲れた。体はひとまず返してやる」
「六はここに残って、お前の身の回りの世話をする」
シャルルは目の前の炎を見つめ、一瞬ぽかんとした。
「身の回りの世話って、何だよ?」
「言葉どおりの意味だ」
赫燼の声には少し疲れがにじみ、炎も二度ほど揺らいだ。
「今夜は六を残すことにした。聞こえたな?」
相変わらず、ひどく無造作な口ぶりだった。
シャルルは呆気に取られた。
「残……す?」
「何だ、わからないのか?」
「わかるに決まっているだろ!」
シャルルの声がいきなり高くなった。
「もういい。俺は寝る」
赫燼の炎が意識の海から消えた。現実へ意識が戻ると、リリーはまだ湯船のそばにいた。
シャルルは気まずくなり、背を向けた。赫燼の脅しがまだ耳に残り、どう彼女に向き合えばいいのかわからなかった。




