第三章 道連れ
赫燼は空を昇り続けていたが、ふと無意識に顔を伏せた。なぜか、その目は小さくなっていく一つの人影に引きつけられていた。
「これは……」
赫燼は胸に手を当てた。
「あの女が気になるのか?」
ひとりつぶやくと、その顔に妖しい笑みが浮かんだ。
シャルルは意識の海から、遠ざかっていく人影を見ていた。胸には、言いようのない思いが入り混じっていた。
(リリー……)
ふいに、意識の海に映る景色が一変した。
高速で上昇し、ぼやけていた光景は消え、代わりに女の顔がすぐ目の前にあった。
「赫燼尊神!!!」
かつてシャルルがリリーと呼び、今は六と呼ばれる女が、恐怖に満ちた顔でシャルルを見ていた。
「六! どうやらお前は、俺の宿主のお気に入りらしい」
赫燼はそう言い、右手でリリーの手首をつかんだ。
リリーははっとして、反射的に手を引き抜こうとした。そのとき、空が急に暗くなり、皆の頭上を黒雲が覆った。
ばしん、と天から雷が落ち、赫燼をまっすぐに襲った。
頭上に雷が迫る中、赫燼はかすかに笑った。その両目に、再び炎の光が宿った。
一瞬で全身が橙紅色の炎に包まれ、雷がその中へ突っ込んだ。
巨岩さえ砕く雷は、赫燼をまとう炎に触れたとたん、海に溶ける泥のように消え失せた。
眩い雷光は炎の中に吸い込まれ、火花一つ散らさなかった。橙紅色の炎をわずかに揺らすことさえなく、跡形もなく消え去った。
赫燼は笑ってリリーを見ると、その手首を握る右手に力を込め、ぐいと引いた。
不意を突かれたリリーは、赫燼の目の前まで引き寄せられた。
二人の額がぴたりと重なった。
「ああ――!!!」
リリーの口から、突如として凄惨な悲鳴がほとばしった。
体がびくりと強張り、落ち着いていた顔が瞬く間に苦痛で歪んだ。
空いた手が、反射的に自分の太腿をつかんだ。
かつて味わったことのない痛みだった。
額が触れ合った瞬間、想像を絶する灼熱が意識を侵した。
この世で最も熱い炎に、魂を焼かれている。
その炎が魂の奥へ広がっていくのさえ、はっきりと感じられた。
「あああっ!! 尊神! どうか……どうか、お許し……を!」
痛みに立っていられず、勝手に膝が折れた。赫燼に手首を固く握られていなければ、とっくに地面に崩れ落ちていただろう。
目の前の光景に、シャルルは怯えきっていた。
(リリー?!)
何が起きたのかわからなかった。
彼の目には、赫燼がリリーを引き寄せ、額を軽く触れ合わせただけに見えた。
なのにリリーは、恐ろしい拷問を受けたかのように全身を震わせ、命乞いの言葉さえまともに口にできなかった。
(赫燼! 彼女に何をしたんだ?! 早く放せ!)
シャルルは必死に叫ぼうとした。
だが、神契の力がなおも喉を固く塞いでいた。
意識の海で大きく口を開き、力の限り声を出そうとしても、たった一音さえ叫べなかった。
リリーが苦しみ泣き叫ぶのを、ただ見ているしかなかった。
(放してくれ! 頼むから!)
リリーの悲鳴がかすれ始めてから、ようやく赫燼は額を離した。
恐ろしい灼熱感が、一瞬で消えた。
リリーは脚から力が抜け、膝をつきかけた。激しく息をつき、額の髪は汗で濡れていたが、顔には火傷の跡一つなかった。
赫燼は手首を放さず、にこにこと眺めていた。
「へえ、いい度胸だな」
首をかしげる様子は、たった今、他愛のない冗談を仕掛けただけのようだった。
「俺たち神がお前ら人間に授けた神威を、俺に向けるとはな?」
リリーは残る痛みをこらえ、どうにか背筋を伸ばした。
「赫……赫燼尊神」
声はまだ震えていたが、すでに頭は再び垂れていた。
「六の無礼を、どうかお許しください」
赫燼はリリーを見て、また唐突に笑い声を上げた。
「そう、その態度だ」
赫燼はリリーに顔を寄せ、笑って言った。「六、俺の宿主はずいぶん複雑な気持ちでお前を見ているぞ。気になるし、憎くもあるらしい」シャルルは慌てて言い返そうとしたが、神契のせいで相変わらず声は出なかった。
リリーの目に一瞬、嫌悪がよぎった。だが、すぐに平静に戻った。
「お戯れを、尊神」
赫燼は少し考え、ふと思いついた。
「一、さっき俺に仕えたいと言ったな? なら、六を同行させろ。俺の宿主の世話をさせる」
笑いながら付け加えた。
「これで決まりだ」
リリーは答えず、ただ目を伏せた。
赫燼はその反応を気にも留めなかった。手首を放し、十人衆へ顔を向けた。
「どうだ、異存はないな?」
一と呼ばれた白いローブの男が前に進み、胸の前で腕を交差させ、両肩に手を置いた。
「尊神のお望みとあらば、我らは従うのみでございます」
そう言い、リリーを見た。
「六、尊神にお供するのだ」
「承知いたしました」
リリーはすぐに礼をし、一言も辞退しなかった。
話がつくと、赫燼はそれ以上何も言わなかった。手を伸ばしてリリーの腰を抱くと、足もとから熱風が立ちのぼった。
二人は宙に舞い上がった。
だがシャルルは、まだ先ほどのことから立ち直れなかった。
リリーは赫燼とともに空へ昇り、シャルルは意識の海でそれを見ているしかなかった。幼いころから一緒に育ったリリーと、今はこうして無理に同行させられている。胸は落ち着かず、どう向き合えばいいのかもわからなかった。
赫燼はシャルルの腕で、リリーを抱えていた。
その手がどこにあり、どれほど力を込めているか、シャルルにはすべて感じられた。なのに、自分で決めたことは一つもなかった。
(くそっ! 俺の体なのに!)
何より気に障るのは、赫燼がまったく平然としていることだった。
赫燼がすべてを決め、シャルルは自分の腕さえ動かせない。その無力さに苛立って仕方がなかったが、今は空の上だ。手を放せとも言えなかった。
そのとき、赫燼が急に飛ぶ速度を上げた。
正面からの烈風に、リリーは指に力を込めずにはいられなかった。
赫燼はその拍子に、脇に抱えたリリーを少し持ち上げ、遠くへ飛び続けた。
シャルルは、もうあれこれ思い悩むのも馬鹿らしくなった。
どうせ体は自分の思いにならない。いくら考えたって無駄だ。
しばらくして、リリーがふと口を開いた。
「赫燼尊神」
「ん?」
「恐れ入りますが、此度はどちらへ向かわれるのでしょうか?」
赫燼は振り向きもせず、何気なく答えた。
「風呂だ」




