第十二章 赫燼、再び
三硫諸島の財政総監にして敬虔な赫燼派の信徒、ヴィクトル・サーンは、杯を手に立ったまま、もうずいぶん経っていた。
挨拶の言葉は、まるまる三頁も用意してあった。だが、尊神が食べることにかかりきりなので、うかつに声をかける勇気が出なかった。
シャルルが二切れ目のピザを置いて、ようやく隙を見つけた。急いで咳払いをし、口を開いた。
「偉大なる赫燼尊神、三硫諸島の赫燼派の役人を代表し、心よりの敬意を捧げることをお許しください!」
ヴィクトルは両手で杯を捧げ持っていた。
主卓の役人たちは、乾杯を申し出る機会を逃したと、次々に悔しそうな顔をした。
とりわけ、技術部門の責任者アルベルト・ラインがそうだった。
尊神を讃える口上なら、とっくに用意していた。それなのにヴィクトルに先を越され、面白くもないまま、後に続いて杯を上げるしかなかった。
それを見て、ヴィクトルはますます得意になった。
言葉を終えると、今度はリリーにも杯を向けた。
「もちろん、尊敬する六番閣下にも! 尊神とともに三硫諸島へお越しいただきましたこと、同じくこの上ない光栄に存じます!」
リリーは顔を上げて一目見やり、軽くうなずいた。
応じてもらうと、ヴィクトルの笑顔はいっそう晴れやかになった。
人々へ向き直り、杯を高く掲げた。
「尊神の神火が、永遠に三硫諸島を守り給わんことを!」
「尊神の神火が、永遠に三硫諸島を守り給わんことを!」
客たちはヴィクトルの声に合わせて次々に杯を上げ、食堂のあちこちから祝福を祈る声が響いた。
神域でも食卓の作法は少し習った。だが、貴族のこうした正式な宴となると、どうやらまるで足りなかった。
とりわけ目の前の杯を見ると、シャルルは困ってしまった。
(俺も、これを飲めってことか?)
取っていいものか、取らずにいるべきか、決められなかった。
昔、神域でモラとこっそり祭具庫に忍び込み、神に供える酒を一本盗み出したことを思い出した。
あのときは二人とも、神官たちがあれほど厳重にしまっておくものなら、きっとおいしいはずだと思っていた。
ところがシャルルは、一口すすっただけで、その酸っぱく渋い味にむせ、咳が止まらなくなった。
モラはそんなはずはないと奪い取り、大きく一口飲んだ。そのとたん、泣き顔よりもひどい顔になった。
何杯も水を飲んで、ようやく口の妙な味が薄れた。
それ以来、シャルルは一度も酒に手を出していなかった。
掲げられた杯を見て、手を伸ばしかけ、また引っ込めた。
リリーが、その動きに気づいた。
シャルルの前の杯と、困り果てた顔を見てから、配膳車のそばに控える料理人のマリオを呼んだ。
「料理人」
「六番閣下! 何かご用でしょうか?」
「尊神と私の飲み物を、水に替えてちょうだい」
マリオは一瞬きょとんとしたが、すぐに慌ててうなずいた。
「かしこまりました! すぐにご用意いたします!」
ほどなく、水の入った杯が二つ、卓に届けられた。
リリーは一つを、シャルルの前へ押しやった。
「尊神、こちらをどうぞ」
シャルルは彼女を見て、それから目の前の水を見ると、たちまち安堵した。
感謝を込めてリリーを見つめた。
リリーは水の杯を取り、ヴィクトルに向かって軽く掲げた。
シャルルも急いでまねをして、水を手に取り、人々へ掲げてみせた。
ヴィクトルたちは、ちょうど杯の酒を飲み干そうとしていたが、それを見ると、はたと動きを止めた。
尊神の手の水を見て、六番閣下の手の水を見る。ヴィクトルの笑顔が、一瞬こわばった。
次の瞬間、慌てて杯を背後の侍従に渡した。
「早く! 私のも水に替えてくれ!」
それを聞いた隣のアルベルトも、即座に杯を置いた。
「私のも替えろ!」
「私もだ! 私も!」
「おい! こちらにも水を!」
たちまち主卓の役人たちが口々に侍従を呼び、近くの卓で酒を飲もうとしていた客たちまで、慌てて杯の中身を水に替え始めた。
マリオは配膳車のそばで、侍従たちが持ち帰る幾杯もの上等な酒を見つめ、もったいなさに口ひげまで震わせた。
(マンマ・ミーア! どれもいい酒なのに!)
ヴィクトルも、ようやく自分の水を手に入れた。
再び杯を高く掲げ、敬虔そのものの顔でシャルルを見た。
「尊神の神火が、永遠に三硫諸島を守り給わんことを!」
人々も次々に唱和し、そろって杯の水を飲んだ。
シャルルもそれにならい、一口飲んだ。
(本当に変な連中だな。俺とリリーが水を飲むからって、みんなまで水に替えるなんて。やっぱり、あの酒はまずいんだろうな)
杯を置き、もう一つ菓子を取ろうとしたところで、傍らからアイリーンの声がした。
「尊神、一つお尋ねしてもよろしいですか?」
シャルルは振り向いた。
オースティンの隣に座っていたアイリーンは、シャルルの目が自分に向くと、慌てて背筋を伸ばした。
「今回、六番閣下と三硫諸島へおいでになって、何かご予定はあるのですか?」
(予定?)
シャルルはきょとんとした。
それは本当に知らなかった。
赫燼とリリーのやり取りを思い返した。
(確か、リリーがどこへ行くのか聞いたら、赫燼は風呂だって答えた。でも、はるばる三硫諸島まで、風呂に入りに来たなんて言えないよな?)
少しためらってから、やはりリリーに助けを求めることにした。
顔を向け、また助けを求める眼差しを送った。
「すべて尊神のお心のままに」
リリーはそう言ってナプキンで口もとをぬぐい、シャルルにかすかな笑みまで向けた。
(え?)
(何で今、俺に投げ返すんだよ)
シャルルは口を開いたものの、何と言えばいいのかわからなかった。
だがアイリーンは、相変わらず期待に満ちた顔で見つめていた。
「尊神?」
どうしようもなく、シャルルは腹をくくって答えた。
「風呂」
「え?」
アイリーンは目をぱちぱちさせた。
「お風呂、ですか?」
「うん」
シャルルはうなずいた。
アイリーンはリリーを一目見て、またシャルルを見た。
「では、お風呂のほかには?」
(風呂のほか?)
シャルルはよく思い返してみた。
昨日、赫燼はリリーに温泉の手配をさせたほかは、確かに何も言っていなかった気がする。
そこで首を横に振った。
「では、この数日は、ほかにご予定がないということですか?」
アイリーンの目が、ぱっと輝いた。
「よかった!」
嬉しさのあまり、椅子から立ち上がりそうになった。
オースティンは急いで娘を引き止めた。
「アイリーン!」
「ごめんなさい、お父様!」
アイリーンはぺろりと舌を出し、慌てて座り直した。
シャルルを見つめ、スカートを両手でぎゅっと握った。
「尊神、でしたら、私がお二方のご案内をしてもよろしいでしょうか?」
(案内?)
シャルルはきょとんとした。
断られなかったのを見ると、アイリーンは急いで言葉を継いだ。
「お出かけのお供をするんです! 三硫諸島には最近、楽しい場所がたくさんできたんですよ。海辺の市場に、珊瑚湾、それに火山の展望台!」
指を折りながら、数え上げた。
「特に海辺の市場は、おいしいものがいっぱいなんです! 先月も氷菓のお店ができたばかりで、火山雪蜜で作ったフラッペが、とってもおいしくて!」
「それから珊瑚湾! 今は遊覧船で海へ出られるんです。運がよければ、トビウオの群れも見られますよ!」
聞いているうちに、シャルルは心を引かれた。
(海へ?)
(大海原へ出られるのか?)
昔、仲間たちと交わした、海を見に行く約束を思い出した。
うなずこうとしたとき、またオースティンの声が響いた。
「アイリーン!」
アイリーンはびくりとして、急いで背筋を伸ばした。
「お父様?」
「まったくお前は、尊神と六番閣下の前で、何度礼儀を忘れれば気が済むんだ」
「サバス、アイリーンを部屋へ送ってくれ」
「かしこまりました、総督閣下」
ずっと扉の脇に控えていたサバスが、急いで歩み寄った。
「お嬢様、こちらへ」
アイリーンは唇を噛み、父を見てからシャルルを見た。やがて、不承不承立ち上がった。
「尊神、申し訳ございません。お食事のお邪魔をいたしました」
スカートを持ち上げ、シャルルに一礼した。
「待て!」
シャルルの口角が、ふいに持ち上がった。あまりに唐突な笑みに、本人まで驚いた。
(ん?)
急いで口もとを戻そうとしたが、顔の筋肉がまるで言うことを聞かなかった。
口もとだけではなかった。
右手が勝手に椅子の肘掛けへ置かれ、伸ばしていた背筋も徐々に緩んだ。体は気だるげに背もたれへ沈んでいった。
不意に、シャルルの視界は再び意識の海へ戻った。
見慣れた闇の中で、炎が一つ、盛んに燃えていた。
(赫燼!?)
(ははは! 気分がいい! よく寝た!)
炎から、赫燼の朗らかな笑い声が響いた。
(また俺の体を奪ったのか?)
赫燼は大笑いした。
(目が覚めただけだ。この一週間、お前の体はもともと俺のものだろう。俺との神契を忘れるな)
赫燼はもうシャルルに構うのも面倒になり、片脚を持ち上げて組むと、少し離れたところのアイリーンへ手招きした。
「娘、こっちへ来い!」
サバスについて立ち去ろうとしていたアイリーンは、尊神に呼ばれ、慌てて足を止めた。
「尊神?」
「さっき、俺を遊びに連れていくと言ったな?」
「は……はい」
アイリーンは父をちらりと見てから、おそるおそる尋ねた。
「お越しいただけるのですか?」
「許す!」
赫燼は、にっと笑った。
アイリーンも、たちまち笑顔になった。
「本当ですか? でしたら珊瑚湾へご案内します! あそこの遊覧船はとても綺麗で、それに……」
「尊神!」
オースティンは慌てて立ち上がり、娘の言葉を遮った。
「お止めするつもりではございません。ただ、娘はまだ若く、不行き届きで尊神にご無礼を働かぬかと、案じておりまして」
「おい、爺さん!」
赫燼は顔を上げた。
「誰がお前に聞いた?」




