知らせ
「シュラ、まだいたのか?」
団長のルージュゴルジュが舞台袖から顔を出した。
「ええ、少し考え事を。ほら、明日の演目とか」
シュラが胸元へ手を添えると、布の下にはあの小瓶があった。
シュラは舞台の上で歌うことが、観客の歓声を聞くことが好きになった。
自分の声で誰かの表情を変えられることも誇らしい。
だからこそ、胸の奥に沈めた復讐心が以前よりはっきり見えるようになっていた。
シュラは水面へ浮かぶ自分の顔を見つめた。
水色の髪、人魚の尾、かつての自分とは似ても似つかない姿だが、その瞳だけは変わっていない。
「……まだ終わっていませんわ」
小さく呟いたその時、背後から物音がした。
シュラが振り返るとアルエットが布を抱えて立っていた。
アルエットは布を水槽の縁へ置いた。
「これ、乾いたやつ。髪を拭くのに使って」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
シュラは去っていくアルエットの背中を見送り、再び水面へ目を落とした。
数日後、朝の港町はいつもより騒がしかった。
新聞売りの少年が大声を張り上げている。
「号外! 号外だよ! 王都の大貴族、タイムアタック家のご令嬢! 婚礼の日取りが決まったぞ! お相手はこれまた貴族のクラウス様!」
シュラは水槽の水を尾びれでゆっくり掻きながら、その声を聞いていた。
少年がサーカスの入口まで駆けてきて、紙面が一枚、風に煽られて舞った。
指先が冷たい水槽の底に触れたのに、胸の奥だけが熱くなった。
少年が去ったあと、シュラは胸元から小瓶を取り出す。
灰色の液体が朝日に透け、黒い粒がゆっくりと沈んでいく。
「いよいよ結婚するのですね、わたくしを捨てた二人が」
シュラは瓶を握った。
記憶の底から、あの日の光景が蘇り、シュラは目を閉じた。
水槽の縁へ手を置き身体を起こすと、水面が大きく揺れた。
「舞台は、決まりましたわ」
会場の見取り図がほしい、出入口を確認したい。
厨房の位置、料理が運ばれる順番、使用人が通る廊下に舞台を設置する場所も必要だ。
人魚の姿では目立つので、いっそ目立つこと自体を利用すればいい。
観客の視線を集めるのは、もう得意だった。
まだ穴だらけの計画だったが、具体的に考えられることで復讐は初めて願いではなく計画になった。
その夜、シュラは団長のテントを訪れた。
ルージュゴルジュは机いっぱいに会計帳簿を広げていたが、シュラの顔を見るなり眼鏡を上げた。
「どうした?」
「お願いがありますの。結婚式の余興に、わたくしたちのサーカスを売り込みたいのです」
「珍しいな。君から頼みとは……結婚式?」
団長の眉が上がり、シュラは机の上へ新聞を置いた。
クラウスとエリシアの名前、婚礼の日付、開催地など必要な情報が並んでいる。
「なるほど……大貴族の結婚式なら、かなり大きな仕事になるぞ。だが、どうしてそこまで?」
シュラの意味深長な表情を見た団長は怪訝そうに答える。
「……あまり詳しく聞かないほうがよさそうだな」
「賢明ですわね。さて、まずは結婚式の会場を調べますわ」
シュラは紙面へ視線を戻す。
「屋敷の構造、入口、厨房、使用人の動線。これをわたくしが知る必要があります」
団長はしばらくシュラを見つめた。
「君、本気なんだな」
「もちろんです」
シュラの声には迷いがなかった。
いつ、どこで、誰の目が届かなくなるのか、どうやって薬を運ぶのか、どうすれば舞台を成功させながら自分の目的も果たせるのか、頭の中で一つずつ道筋を描いていく。
「失敗すれば、わたくしだけでは済みませんもの」
シュラは小瓶を見た。
サーカスの仲間たち、自分がようやく見つけた居場所を復讐のために危険へ晒すのは出来るだけ避けたかった。
「この舞台は、必ず成功させますわ」
団長はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「よし。明日から準備だ」
「ありがとうございます」
「ただし、一つだけ約束してくれ。舞台を壊すような真似はするな。うちはサーカス団だ。客を笑わせて、驚かせて、楽しませる。それが仕事だからな」
シュラは少しだけ目を細めた。
「ええ。わかっていますわ」
シュラがテントを出ると、夜風が水色の髪を揺らす。
空には細い月が浮かんでいた。
「エリシア。あなたの一番輝く日に、わたくしも参りますわ」
胸元の小瓶を握ると、灰色の液体が月明かりの下で静かに揺れた。




